筆者(1908~没年不詳)は雑誌社の元記者で文筆家。職場で上司のチャールズ・ワーテンベイカーと知り合って恋に落ち、結ばれる。夫は42歳で、妻は34歳。両人とも三度目の結婚だった。夫は癌に侵され、55年初頭に亡くなるが、夫妻は酷薄な運命に立ち向かうべく協同で奮闘する。人間の純粋な愛の偉大さを教える得難い記録、と私は感銘を受けた。
◇癌を知る (この項だけ、夫チャールズが執筆)
私が自分の癌を知ったのは、1954年9月27日午後のこと。フランス南西部バスク地方の海辺の町にある質素な放射線科の診療所でだった。一年ほど前から、ぼんやり気づいてはいた。周期的に腹部の痛みに襲われていたから。レントゲンにより、腫瘍の存在が確かめられた。担当のカルティエ博士は(今後の生存期間を問う)私の率直な質問に対し、一瞬おいて「もし悪性なら、多分一年か、二年でしょう」と答えた。
私の父は57歳の時に癌で死に、祖母や父の兄弟も60代で癌で死んでおり、母の血統にも癌があった。が、まさか53歳でそうなるとは予期していなかった。にも拘らず、ほぼ一年半の間、しばしば見舞うあの痛みによって私は何かを警告されてきたのだった。最初の問題は手術で、フランスでやるか、アメリカへ帰ってやるか。「こいつは金がかかるぞ」と言うと、「そんなことは大したことじゃないわ」と妻は言った。
私たちは共に(報道関係の)通信員として44年にフランスに来て以来、アメリカで過ごしたのは一年間と二年半の二回だけで、後はずっとフランスで暮らしてきた。47年からはニヴェール川河口の対岸にある静かな漁村に移り住み、中々得難い生活をしてきた。共に二か国語を話す11歳の男の子と8歳の女の子には、アメリカでは味わい難い暮らしだった。
我々夫婦にとっては、本や雑誌の収入でアメリカで暮らすよりもずっと快適な、ずっと静かな生活だったのだ。だが、我々の家計には、数週間の入院と予後に長時間を要する大手術を受けるだけの余裕はなかったし、夫婦二人でニューヨークへ往復する余裕など、勿論なかった。が、妻はどこで手術をするにせよ、「一緒に付いて行きます」と言った。多くの場合、癌は手術によって無事に取り除かれている。私も、切除した後、余り悪くなっていない人々を知っていた。
◇帰国の準備
夫チャールズ・ワーテンベイカーは、彼が『生涯の六十日』と題した小冊子の梗概を書き、死の床にありながら本文を書き始めた。彼はその第一部(「20歳代に犯した自分の愚行や30歳代の自分の罪を清算するための反省を織り交ぜた、一つの客観的記録」という梗概が付いている)を書き終えただけだった。
最初の数頁は、便箋の上に手で書かれていた。夫の字は力強く、はっきりしていた。彼は正直な、正確な人間だったのである。私は(ごく最近の)9月27日から起こったことをできるだけ客観的に、できるだけ正確に語ろうと思う。
倫理的で、主義の人だった彼は、出来れば、自分の死にたいと思う時に、自分の欲する方法で死ぬ権利があるという主張を抱いていた。私も又、そう信じている。夫は生きることに非常な熱情と愛着を持っていた。私はただ彼を信頼していさえすれば良かったのだ。
昨日の午後、私はニューヨークのダニエルソン博士に電報を打ち、博士からは夫の入院の準備をしておくという返事が来た。「もしもの場合」の手筈――私たちの遺言は極めて簡単だった。もし夫が死んだら、全てが私に任される。もし私が死んだら、全てが夫にとなっていた。二人とも死んだら、子供も我々の財産も私の妹で頼み甲斐のあるジュリーに任されることになっていた。
◇アメリカへ、そして入院
――私(チャールズ)は20代を引き延ばし、30代を切り縮め、40代を十二分に味わい、50代を取り逃がした。それは楽しみと深い喜びに満ちた生活であった。が、その反対に、鋭い苦痛と激しい後悔も少なくなかった。私は物を書く点では決して芸術家ではなかったが、いかに生きるべきかを知っている点では、いくらか芸術家だったと言えよう。
この文章は、私が発見した一つの覚書(夫の手になる)の要約である。彼は妥協の下手な人間だった。鍛錬と洞察と気力を以て、あらゆる力の微妙な均衡を求めようとした。息子のクリスと娘のティムにお別れのキスを済ませ、私たちは汽車でパリに向かった。そして、空路アイルランドを経てアメリカへ向かった。
10月1日、ニューヨーク着陸。夫の旧友ジムが外科主任を務める病院は、マンハッタンの大通りに入り口がある非常に大きな、かなり古い病院である。彼は病院の規則書を読み、面会時間の制限条項などに顔をしかめたが、私たちは規則破りの常習犯だったのだ。
ジムすなわちJ・ダニエルソン博士は6フィート3インチはある大男だが、優し気な声で気品があった。夫の腹部のレントゲン写真が撮られ、手術は翌週の火曜の朝8時半に行われる段取りになった。博士は週末には多少の酒は飲んでも差し支えない、と言った。私は夫が不治の病に罹っていると考えることは、どうしてもできなかった。
◇死の予告
私は他人の生涯を判断する場合に、必ずその人の最期がどうであったかに注意する。そして、私自身の生涯での最大の関心事は、自分の最期が立派であってくれれば、即ち静かで平然としたのであってくれればいい、ということなのだ。――『モンテーニュ随想録』
担当医のジムは悪い報せをもたらした。「病気は治らないだろう。癌は肝臓にまで達し、肝臓一面に広がっている。そして、肝臓は切り取るわけにはいかない」と宣告したのだ。私は喘ぎ喘ぎ、「どの位、もつでしょう?」と尋ね、ジムは「三か月」と、本当のことを掠れたような声で言った。彼は友人と医師という二つの立場から、このような状態ではどこも切り取らない方がいいと思う、と言った。
ジムと私は癌の告知を巡って、かなりのやりとりをした。夫は部屋に連れ戻された時、傷つき、打ちひしがれた、歪んだ顔をしていた。彼は見るからに苦しそうだった。その目は揺れ動き、やがてじっと見据えられた。彼は未だほんのしばらく幸福な時間が過ごせるかも知れない。しかし、死の宣告は下されているのだ。
◇退院まで
夫と私は戦時中の英国において、同じ雑誌の、彼が編集者で、私が記者という立場で、初めて出会った。私たちは平行的に歩んできた過去と、全く奇跡的な両人の出会いに驚かされ、自分たちはお互いによく理解し合っていると感じるのだった。
「死こそ、僕が立派に成し遂げるのを見せる、最後の見せ処だ」「何としても、それを立派に成し遂げたい」と夫は言った。彼が麻酔から覚め、我に返った時、死はまるで山のように一つの事実として私たちの生活の全面に立ちはだかってきた。私たちは死について語り合う時、ぶっきらぼうな単純な言葉を用いるようになっていた。
私は生まれて初めて、眠る時に薬を飲んだ。夜中に咽び泣きながら目を覚まし、涙の涸れるまで泣き続け、もう一度薬を飲まなければならなかった。夫は一切の治療をせずに済ませることができるのを待っていた。どうせ死ななければならない以上、自らの意志でその死に方を決めたがった。傷口はすっかり治ったのに、彼の痛みは少しも治まらなかった。
私は医師から、モルヒネが鎮痛には一番効き、安全なことを聞き出し、その用量も知っ
た。私は処方箋を手に薬屋から薬屋へ行き、一軒で一枚ずつ調合してもらうなどし、十分な量を調達した。11月5日(金)、私たちはニューヨークを旅客船で出発し、三等船室(浴室付きの外側の部屋)に納まった。
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