世界のノンフィクション秀作を読む(4) J・クラカワ―の『荒野へ』(下) アラスカの荒野で孤独死したエリート米国青年の数奇な運命

 ――互いに往来している間に、若者はよく怒り、顔を曇らせ、両親や政治家、大多数のアメリカ人に特有の空疎な生き方を非難していたことを、老人ははっきり覚えている。彼との仲がぎくしゃくするのを恐れ、フランツは相手がそんなふうにひどく腹を立てている時には、ほとんど口を差し挟まなかった。
 翌年2月初め、クリスはアラスカ旅行の費用をもっと稼ぐため、サンディエゴへ行くと言い出した。「金が必要なら、私があげよう」と反対するフランツと一悶着あった末、老人の方が折れ、クリスは出発する。老人は言う。「ひどく辛かったよ。別れが悲しくてね」。二か月後、長い手紙がフランツの私書箱に届く。その便りの末尾には、こうあった。
 ――あなたが為すべきことは唯一つ。今の住まいを出て、アメリカで神がここ西部で制作した偉大な作品を幾つか見ることから始めて下さい。

 驚いたことに、80歳の老人は24歳の生意気な放浪者のアドバイスを真面目に受け止める。フランツは家財道具を倉庫に預け、アパートを出て温泉地の先の砂地にテントを張り、キャンプ生活に入ったのだ。戸外の砂地に座って日々、若い友人の帰りを待っていた。
 身長は六㌳近く、ひどく元気そうに見えた。作者の私が自己紹介した時、彼はよれよれのジーンズをはき、真っ白いTシャツ姿だった。年齢を感じさせるのは、額の皺と痘痕のような穴がブツブツあいた高い鼻だけ。クリスの死後、一年余りが経っていた。彼は言った。
 ――クリスがアラスカへ出発した時、私は神に祈ったんだ。あれは特別な若者だって。だけど、神はクリスを死なせてしまった。何が起こったか知り、私は神を捨てた。

 クリスの家族関係に話を戻す。彼の父親も彼自身も共に頑固で、カッとなり易い質だった。頭から押さえつけずにいられないのが父ウォルトの生まれつきの性格で、倅クリスの方は人一倍独立心が強かったから、対立は避けられなかった。ハイスクールとカレッジへ通っている間は、厳めしい父親の言うことを驚くほどよく聞いていたが、若者は内心ずっと腹立たしく思っていたのだ。父には精神的な欠陥があり、両親のライフスタイルは偽善的で、厳格なその愛は条件付きであることが知れ、倅の方はそれを気に病んでいた。結局、クリスは反抗した――いよいよ行動を起こした時には、そのやり方はいかにも彼らしく徹底していた。

 姿を消す直前に、クリスは妹のカリーンに愚痴をこぼしている。両親の態度が「あまりにも理不尽で、圧制的で、無礼で、侮辱的なので、僕はとうとう堪忍袋の緒が切れたんだ」。
愚痴はそれだけで終わらなかった。
 ――僕のことを本気でわかってくれようとしないから、卒業後数か月間は、両親の言いなりになって、僕が「意見を変え、彼らと同じ物の見方をしている」ふりをし、親子関係も安定しているように思わせるつもりだ。その後、頃合いを見て、いきなり素早い行動に出、僕の人生から二人を一挙に叩き出してやる。僕が生きている限り、もう二度と両親がそうした下らない話ができないように絶縁するつもりだ。これを最後に永久に親子の縁を切るよ。

 ハイスクールの最上級生になって間もなく、クリスは大学に進学するつもりがないことを両親に伝えた。出世するには大学の学位が必要だ、と彼らはそれとなく助言した。が、クリスは「出世なんて二十世紀の今では虚構に過ぎなくなっている。長所というより、むしろ足手まといなもので、僕はそんなものがなくても立派にやっていける」と答えた。
 両親は多少あわてた。二人ともブルーカラーの出で、学位などどうでもいいとは思えなかったからだ。クリスの性格は複雑で、捉えにくかった。とんでもなく非社交的であるかと思えば、極端に陽気で付き合い上手なところもあった。

 クリスの冷たい親子関係は、彼がフランツ老人に示した温かさとは明らかに対照的だった。その気になれば、彼は社交的で、とても感じがよく、多くの人々の心を惹きつけた。サウスダコタに帰ると、彼の処には手紙が届いていた。旅の途中で出逢った人々からの便りで、中には「奴にすっかりのぼせ上がった女の子からの手紙」もあった。が、クリスは女性との関係はほとんど、あるいは全くなく、修道士のように純潔のままだった、と思われる。
 「この国で、人々が飢えているのをどうして放っておくのか、クリスには許せなかったんです」と、妹のビリーは言っている。トルストイの理想主義を信奉するクリスは、富は恥ずべきもの、汚れたもの、本質的に邪悪なものだと信じこんでいた。

 が、その若者が天性の資本主義者で、ずば抜けた金儲けの才に恵まれていたのだから、皮肉だ。八歳の時には、自宅裏で野菜を栽培し、近所を一軒一軒回って、売り歩いた。新鮮なインゲン豆・トマト・胡椒を満載したワゴンを可愛い少年が引いていく。「誰が断れることができて?」と妹のカリーン。ワゴンは直に空になり、少年は現金を一杯手にしていた。
 十二歳の時には沢山のビラを印刷し、近所の人々を相手に原稿取りと配達料が無料のコピーの商売「クリス・ファスト・コピーズ」を始めた。両親のオフィスのコピー機を使って、二人にはコピー一枚に付き数㌣払い、角の小さな店よりも料金を二㌣安くして、かなりの利益を上げた。ハイスクールの一年度終了後の85年には、地元の建設業者にセールスマンとして雇われ、地域の家々を訪問。外壁やキッチンのリフォームの注文を取って回り、驚くほどの成績を上げ、トップセールスマンになった。僅か数か月で、六人の生徒たちが彼の下で働き、銀行口座には七千㌦の貯金ができていた。その金の一部で彼は中古の愛用車を買った。

「ハイスクールを卒業したら、愛用車で国内各地をドライブして回るつもりだ」と、クリスは宣言。それが長期にわたる一連の大陸横断冒険旅行の最初の旅になろうとは誰も予想していなかった。この最初の旅行中、彼はたまたまある事実を知って内に閉じこもるようになり、すっかり人変わりしてしまうとは誰一人思ってもいなかった。
 クリスは車でカリフォルニアに行った際、六歳まで住んでいたエル・セグンドウ地方に立ち寄った。未だにそこで暮らしている大勢の昔の友人たちの家々を訪ね、いろいろ話を聞いて回り、父の最初の結婚とその後の離婚に関する事実を知るに至る。

 先妻マルシアとの破局は、後腐れのない別れでも、円満な別れでもなかった。妻子がありながら現在の妻ビリーと恋におち、クリスが生まれてからも、長い間、父ウォルトは秘かに先妻のマルシアとの関係を継続。二つの家庭、二つの家族という生活をしていたのだった。
 嘘をついて、やがてその嘘がばれ、最初のごまかしを言いつくろおうとして、さらに嘘が重ねられた。クリス誕生の二年後に、マルシアとの間にもう一人の息子――クイン・マッカンドレス――ができて、ウォルトはまた父親になった。その二重生活が明るみに出て、それが深い傷となった。当事者全員がひどく傷ついたのだ。
 結局、ウォルトはビリーを選び、幼子のクリスとカリーンを連れて東海岸へ引っ越して行った。マルシアとの離婚がようやく成立し、ウォルトとビリーは正式に結婚。ごたごたはなるだけ忘れるようにし、二十年が過ぎた。嵐は乗り切ることができたように思われた。が、86年にクリスが車で東海岸まで出かけて行き、古傷が蒸し返される作用をもたらす。

 「クリスは何事もくよくよ考え込むタイプだったわ」と、妹カリーンは認めている。「何か悩みがあっても、態度には表さなかったし、打ち明けようともしなかった。胸の中にしまい込んで、恨みをくすぶらせ、悪意をどんどん鬱積させていってね」。両親への憤りが高まるにつれ、社会的な不正に対する怒りも激しさを増していく。
 88年夏、母親ビリーの記憶によれば、「クリスはエモリー大学の裕福な学生たちへの批判を口にし始めた」。受ける講義も、人種差別、世界的飢餓、富の分配の不公平といった差し迫った社会問題を扱ったものが多くなにっていった。彼がアトランタを去って二年後の92年7月、母のビリーは真夜中にむっくりと起き上がり、傍らの夫ウォルトを起こして言った。
 ――クリスが呼ぶ声が聞こえたような気がするの。夢じゃない、想像でもないわ。必死で頼んでいたのよ。「母さん!助けてくれ!」って・・・。

 <筆者の一言> 「事実は小説よりも奇なり」。アラスカ荒野への無謀な冒険行を通じ、自己のアイデンティティ証明を図ったのがクリスの悲劇の因、というのが著者クラカワ―の見立てだ。「父子間の軋轢」「24歳での夭折」から、私はその昔見たアメリカ映画『エデンの東』の筋立てと主演のジェームズ・ディーンの面影を懐かしく思い起こした。が、クリスの父親批判は愛情の葛藤ゆえではなく、明確な人格批判に基づく。深刻度はより強く、簡単な宥和は期待できそうにない。実を言うと、私自身も中年期を迎えた独り息子との間で葛藤~不和状態を抱える。肉親との感情のもつれはややこしく、ともすると手に負えない。
 純なるものが俗なるものとの葛藤の末、挫折へと追い込まれる筋書きは何とも痛ましい。著者クラカワ―はノンフィクション作家の立場に徹し、推論は一切差し挟まない。私は二十世紀後半のアメリカに登場したヒッピー文化を思い起こした。

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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