世界のノンフィクション秀作を読む(40) リール・ワーテンベーカーの『愛は死を見つめて』(筑摩書房刊。高橋正雄:訳)――癌との闘いの高い人間性の品位と尊厳の記録(下)

祖国との別れ
 11月5日(金)、私たちは旅客船の三等船室に潜り込み、海路ニューヨークを離れた。夫の体を蝕もうとする徴候が船上で姿を現した。夫の下腹がそれと判る位に膨れ、触ると熱を持っていた。一方の睾丸が大きく膨れ、華奢な骨細の踝も不格好に膨れ上がっていた。
 翌々日朝、デッキで日向ぼっこをしていた時、猛烈な臭気が急に彼の体から発散し、ズボンの裾から何かが垂れ出した。私は毛布で彼の体を覆い、大急ぎで船室へ連れ帰った。ぐっしょり濡れたズボンを脱がすと、血と膿と糞のようなものが(切開手術の)傷跡の処から流れ出していた。私が当座の処置を済ませると、夫は言った。「僕は今、神の恩寵に浴しているようだ」と。
 夫はずっと痛みを感じなくなっていたものの、体の弱り方は随分ひどかった。髭を剃ったり、シャワーを浴びたりするとすっかり疲れ、船室内を動く時には一歩一歩つかまって行った。彼は、楽しみのためにモルヒネを少し用いた。痛みのない時に用いると、それは麻酔薬のような効果があった。効き目はすぐに現れ、少しぼーっとなり、五分もすると呂律が回らなくなる。僅かの間、気が軽くなり、陽気になる。その間、彼はすこぶる魅力的で面白くなり、自分でもそれを楽しんだ。

 ◇家族との再会~しばしの平和 
 汽船はカンヌに接岸。夫は二人の男が担ぐ不格好な担架で上陸し、旧式なホテルに入った。船の上で腹が裂けたのは、膿瘍のためだったのだ。私たちがしなければならないのは、排膿だった。排膿さえすれば、膿瘍は恐らく治り、ぶり返すことはないだろう。
 我々は夜行の汽車に乗った。翌日の午後、停まる駅がバスク地方の美しい、見慣れた村になり出した。いよいよ最寄りの駅に着き、私たちは久しぶりに我が家に戻った。クリスとティムが大声を上げながら家に駆けこんで来た時、私たちは家の中で待っていた。二人は私たちが未だクリスマスにならないのに贈り物を買ってきたので、きょとんとしていた。
 この一週間の夫の手帳には「より良い」とか、「そんなに良くない」とか、「ずっと良い」とか、「いくらか良い」とか書いてあり、そして毎日「少し仕事をする」と記してあった。
 私たちは週末に外出した。五マイル離れた街まで車で行き、そこの広場を歩き回り、鳥肉と葡萄酒で昼食をした。が、月曜日の朝、夫は「腹痛と、便秘と、ガス」に悩まされて目を覚ました時、自分の体に不快を覚え、ぐったりと弱ってしまったのだ。

 ◇日増しの苦痛 
 夫の腸の左側が暫くの間、詰まってしまった。医師によれば、これは癌の惹き起こす症状のうち最も恐ろしいものだった。地元での担当医カルティエ博士は再手術(腸の塞がりを無くすため)を勧め、私と言い争いになった。夫が再手術を拒み、私が代弁したためだ。
 差し込みに突然襲われると、彼は一瞬痙攣し、まるで石像の鬼のように顔を歪めた。癌独特の痩せ方で痩せ、所々気味悪く腫れている以外は、肉というものは全くなくなってしまった。やがて腸の塞がりが通じたらしく、ガスの痛みが少なくなったので、博士は手術を諦めた。すると、今度は肝臓が悪くなった。12月22日に最後の食事をしたが、戻してしまい、遂に食べるのを諦めた。それまで多量に飲んでいたお茶さえも、何度飲んでも戻してしまった。睡眠薬はごく僅かの時間しか効かなかった。
 彼の手首が剃刀を研げない位に弱ってしまうと、髭を剃るのが大仕事になった。心臓と肺は丈夫で、若々しく活動していた。ある日、彼はこう言いさえした。「全く、一人の人間を殺すまでには、手間がかかるものだな!」

 ◇最後のクリスマス 
 夫と私は子供たちに、嘘は言わなかったが、全てを話しもしなかった。クリスは病名が癌だと教えられ、自分で統計を調べて、かなり驚いていた。夫はクリスに、もし自分が死んでも、力を落とさないようにと言った。ティムはパパが非常に憔悴しているのに気づき、「変わらないのは、ただ眉毛だけだわ」と悲し気に言い、指でその眉毛を撫でた。我が子を含めて、好きな人々に対する夫の態度は、温かいと同時に、控えめだった。彼が本当に気持ちを触れ合わせたのは、ただ私だけだった。対等でない対人関係を、彼は嫌った。
 彼の薬に関する覚書が非常に長く成り出した。夜は殆ど眠れなかった。クリスとティムはクリスマスの用意をした。いかにも子供らしく、気が利いてるかと思うと、全く野暮くさく、飾り付けた。私が靴下に贈り物を詰めている間に、夫は沁み沁み言った。
 ――僕は子供たちだろうと、この近所の景色だろうと、何だろうと、これが最後の見納めだと意識しないうちに、死んでしまうかも・・・・・・。

 ◇死期迫る 
 私たちは初めて対面する前から、好意を寄せ合っていた。私はずっと以前から彼の下で働き、編集者としての力量や信念に傾倒。彼は彼で、私の仕事ぶりに一途な誠実さを感じ取ってくれていた。彼は句読点の誤り位は直したが、みだりに手を入れることを拒んだ。  
 音楽に関しては、「先ずはバッハとモーツァルトと初期のイタリアの作曲家のものだけ(聴くよう)」と私に忠告した。
 彼の生涯は今世紀の移り変わりと平行しており、十年毎の時代の変化がいずれも彼に影響した。好奇心が強く、批判的で、しばしば戦闘的であった。タイム社には(自立するまで)二年余計に勤め過ぎたと感じ、長年の夢の実現を志し、私たちは(自活暮らしに)乗り出したのだった。

 彼が最後にモンテーニュに非常な共感を覚えたのは不思議ではなかった。「人間は間違っている」とモンテーニュは「経験について」語っている。「自分自身を立派に至当に演じる事ほど美しく正しいものはなく、また自分の生活を立派に自由に生きる方法を知ることほど困難なことはない。そして全ての病弊のうちで最も恐ろしいものは、自分の存在を軽んずることである」と。
 彼はあらゆる点で節度を知らない人間だったけれど、今やその節度を身に付けるようになった。反抗と野心との間の、幸福と名誉との間の、放縦と鍛錬との間の均衡と調和を保つことによって、自身の生活と傲慢をある程度支配できるようにさせてくれる自己支配を、身に付けるようになったのだ。それは静かな平衡状態だったのである。

 ◇愛は死を超えて 
 「日増しに悪くなる」12月26日の私の手帳に、こう記されてある。その日の夕方、夫は「いよいよ、時が来たようだ」と口にした。彼は自死を望み、モルヒネ15粒の水溶液(12粒分が致死量の由)を足の脛に射ったが、効かなかった。痛みを感じなくなり、かえって気分が良くなった、とさえ言った。翌日の夜はフランス(産)のモルヒネの溶液を試みたが、ダメ。次の挑戦は大晦日の夜だったが、これまた効かず、翌朝、彼は手帖に「新年おめでとう!」と記した。三日、四日・・・と過ぎ、遂に運命の七日を迎える。
 彼は最後のモルヒネの注射をし、剃刀で手首を切った。彼は「早く、タオルを。僕は締まりがなくなった」と言い、私は「貴方が好きよ。どうかお願い・・・死んで」とつぶやき、彼も「お前が好きだ」と一言いい、死の最期の悶えを悶えて、彼は死んだ。蝋のような体に、清潔な白の絹のパジャマを着せ、私は彼の威厳と清潔を失わないように心掛けた。

 ▽筆者の一言 
 内科医だった私の亡父は五十代初め(本編の主人公チャールズと同年配)に胃癌が基(後に全身に転移)で亡くなった。当時、私は中学二年生で、この著作に登場するクリスと似た年頃。癌の進行の描写は、亡父の当時のそれをまざまざと想起させ、息苦しい切迫感さえ覚えた。幸い、母方は癌とは無縁な長寿の家系で、私も九十近い今も一応ピンピンしている。さて、本題のこの夫婦の素晴らしい愛の物語。完全な大人である良識人の、取り乱すまいとする慎み、相手の傷を慮っての労り。文筆人同士、知識人同士の豊潤な香り高い端正さに渋みが加わり、感動も自ずから余韻深いものがある。バッハとモーツァルトへの嗜好は、幸い私も異議なし。細部にわたり、叙述に堪能させてもらった。

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