一八世紀末、カリブ海の島で黒人たちが立ち上がり、自身の手で史上初の奴隷解放を達成した。反植民地主義を掲げるこの革命と、苦難に満ちた長いその後。フランス革命やアメリカ独立革命にも匹敵する、その先駆性を誠実な学究が真摯に説き明かす。私は一読、深い感銘と衝撃を受けた。
◇初めに――ハイチ革命を見る眼
2021年夏、ハイチの報道が二つ続いた。一つは7月7日に起こったJ・モイーズ大統領暗殺事件。もう一つは8月14日に南西部の都市レカイ周辺を襲ったマグニチュード七・〇の大地震。報道は他の大きなニュースにまぎれ、目立たなかったが、政情不安や劣悪な国民生活などの困難な国状を伝えるものだった。
ハイチは「世界初の黒人共和国」だが、近年はとかく「西半球の最貧国」と指差され、(輝かしい)「世界初の黒人共和国」の方は後景に退いている。本書は輝かしい方の歴史に着目し、「ハイチ革命」の意義に注目する。因みにハイチは1804年にフランスから独立した小国(面積は北海道の三分の一ほど)。ドミニカが東側の三分の二を占めるイスパニョーラ島の西側三分の一がハイチである。
◇ハイチ革命を生んだ世界史――「カリブ海の真珠」の光と影
一八世紀、フランスは植民地サン=ドマング(ドミニカの首都)を「カリブ海の真珠」と喩えた。ここで生産された物産、特に砂糖やコーヒーなどが本国に巨大な富をもたらしていたことを、こう表現したのである。
<繁栄を支えた黒人奴隷:サン=ドマングに依存したフランスの貿易>フランスは伝統的に自国産の繊維製品やワイン、ブランデーなどの飲料の輸出国として有名だ。が、一八世紀後半(1766~1788の約二十年間)、植民地産品の輸入量がほぼ倍化。中でもサン=ドマングからの輸入が激増し、砂糖は二倍、コーヒーは六倍、綿花が二・七倍になった。
輸入した品々のうち八割方は、ハンザ諸都市、オランダ、イタリア、ドイツなどを経由してヨーロッパ各地へ再輸出された。植民地貿易や黒人奴隷貿易の拠点となったボルドー、ナント、ル・アーヴル、マルセイユなどの海港都市は未曾有の「繁栄」を示した。
1788年のサン=ドマングの総人口は四五万五〇五三人。うち白人は6.1%,有色自由人4.8%、黒人奴隷が圧倒的多数の89.1%(四〇万五五六四人)。白人一人当たりの黒人奴隷数は一四・六人で、他のフランス領植民地やイギリス領植民地のそれの凡そ二倍だった。
<大西洋黒人奴隷貿易>黒人奴隷人口がこれほど増加したのは、大西洋黒人奴隷貿易の展開による。一五世紀後半から一九世紀半ばまで、アフリカから南北アメリカ、カリブ海へと連行された黒人たちの推計総数は、最近の研究では推計千二百万~千五百万人。大西洋黒人奴隷貿易の最盛期である一八世紀は、年平均で五万人強とされる。
黒人奴隷人口の増加は、植民地で生まれた者(クレオールと呼ぶ)と新たにアフリカから連行された者(ボサール)の差違を明らかにした。両者は決定的に異なる。ボサールは奴隷船での「地獄図」を体験。全裸で船倉に押し込まれ、一人当たり畳半分ほどのスペースにすし詰め。中間航路での死亡率は一七世紀で推計一五~一六%で、五〇%以上という事態も稀ではなかった。大西洋の海底には夥しい数のアフリカ人の遺骨が沈んでいる。その数は百万人を遥かに超えるだろう。
◇ハイチ革命とフランス革命――史上初の奴隷制廃止への道
<カイマン森の儀式>ハイチ人は、この儀式が奴隷解放と独立の発端となったと考え、8月14日に野外劇の記念行事などを催している。ハイチの歴史家D・ベルギャルドの『ハイチ人民の歴史』(1953年刊)によると――
1791年8月14日の夜、現在のプレジノール地域のボア・カイマンと呼ばれる森の中で、奴隷たちの大きな集まりがあった。目的は一斉蜂起の最終的プランを決めること。集まりには各農園を代表して約二〇〇人の奴隷監督が集結した。集まりを主宰したのはブクマンという名の黒人。彼は熱烈な言葉で集まった者たちを奮い立たせた。
誓約をして閉会する前、激しい雨が降り、雷鳴が轟く中、長身の黒人女性が中央に現れる。手にする鋭利なナイフを頭上でぐるぐる回し、髑髏の舞いを踊り、アフリカ風の唄を歌った。皆が地面に伏し、その唄に付いて歌った。生贄の黒豚が引き出され、ナイフで腹を抉られ、泡立つ血がみんなに木桶で配られる。この女性神官の合図でみんなが跪き、蜂起の首領とされたブクマンの命令に絶対服従する、と誓った。
集まりの主宰者ブクマンはイギリス領ジャマイカ生まれの黒人奴隷。逃亡してハイチに渡り、農園の馬車の御者になる。ヴ―ドゥーの最高位の神官でもあった。「長身の黒人女性」「女性神官」とあるのは、アフリカ人女性とコルシカ出身の白人男性との間に生まれたムラ―ト(混血児)で、名前はセシル・ファティマンという。
奴隷監督たちは、発覚すれば厳罰ものと承知の上で集合した。二百人もの彼らが、どのようにして集結できたのか。文字を持たないから、口頭伝達しかない。長距離の移動も徒歩によるしかない。全てを可能にしたのは、自由を求めてやまない熱情だったのだろう。
<一斉蜂起>黒人奴隷の一斉蜂起は、前記の集会から間もない8月22日に始まった。後のフランス議会による「調査報告」によると、委細は概ねこうだ。
――夜10時、アキュルで行動開始。農園を脱出した奴隷たちが(前記の)ブクマンと他一人を指揮官に選出。ノエの農園では管理人と精糖場主を殺害し、農園に火を放った。蜂起は燎原の火そのままに、各地各所へと拡大した。ル・カップ(現在のカバイシアン)近郊は炎に呑み込まれ、真昼の遠方から炎が赤々と見えたという。
翌日早朝までに殺害された農園所有者、管理人、精糖場主は三七名。逃げ遅れた白人は殆ど殺されたが、奴隷に慕われていた白人で死を免れた者もいた。蜂起した黒人たちはル・カップへと向かった。その数一万二千から一万五千。奴隷の三人に一人は農園で奪った銃を持ち、その他の者も様々な労働用具で武装していた。
こうしてアキュルで開始された奴隷蜂起は、行く先々で農園の奴隷を丸ごと糾合し、数日のうちに北部州の大半を席巻した。1791年末までに合流した奴隷の推定数は控えめに五万人と見積もっても、北部州の奴隷約一七万人の概ね三割になる。
九月末までに殺された白人は千人以上、放火された砂糖農園は一六一、コーヒー農園一二〇〇、損害額は約六億リーヴルに達した。僅か一か月間で当時、北部州にあった農園の六割近くに被害が及んだことになる。
このように、奴隷蜂起がかなりの破壊と殺戮を伴った要因として、ヴ―ドゥに特有な「熱狂」や「祖国意識の欠如」を挙げる研究もある。が、より根本的には、奴隷主が日常的に行使してきた暴力、そして、これに非暴力で抵抗するのに不可欠である基本的人権の剥奪――一言で言って、奴隷制そのものを挙げなくてはならないだろう。
◇先駆性ゆえの苦難――革命以後の大西洋世界(上)
一頃まで、ハイチ革命は「知られざる歴史」だった。今では高校の世界史教科書が全て「ハイチの独立」を取り上げている。ハイチ研究の進展の中で、ハイチ革命の世界史上の意義が力説されるようになった。
アメリカ独立革命(1765~1788)とフランス革命(1789~1799)そして「反奴隷制革命の震央」となったハイチ革命(1791~1804)が「一八世紀の三大革命」とされる。中でも、反レイシズム(人種主義)・反黒人奴隷制・反植民地主義という三つの性格を併せ持ったハイチ革命は、特異であり先駆的である。そうしたハイチ革命によって誕生した「世界初の黒人共和国」が、「西半球の最貧国」となったのは何故なのか。その要因を探ってみよう。
<再征服に対する警戒>ハイチの初代元首は、1804年1月1日の独立宣言の日に総督に選ばれた元黒人奴隷のJ=J・デサリーヌ。総督就任に当たり、彼はこう演説した。「『自由を、然らずんば死』。隣国とは平和を。フランスには永久の憎悪を。これが我々の原則である」。この憎悪は、百年以上に及んだ奴隷制度と植民地支配、自由を求める運動に対する軍事的抑圧への怒りに根差している。
1804年、デサリーヌは皇帝ジャック一世と称して戴冠。それは同じ年、半年近く先んじて皇帝となった(旧宗主国フランスの)ナポレオンを意識してのことと思われる。翌年、彼は最初の憲法を制定。「奴隷制は永久に廃止」「国民はみな友人で、法の下で平等である」と謳った。独立国で奴隷制廃止を謳ったのはハイチが史上最初である。米国で奴隷制廃止が憲法に明記されたのは1865年で、先立つこと六〇年前になる。
デサリーヌが1806年に死去。ハイチは以後、北部と南部に分割されて別の人物が統治した。デサリーヌの死去は南部のムラ―トによる暗殺だった。ムラ―トの側は「暴君の暗殺は自由のための正義の行動」としたが、北部の黒人側はこれに反発。両者の反目は独立戦争の過程で解消されたかに見えたが、独立後に再燃することになった。
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