マリー・キュリー(1867~1934)の『自伝』(筑摩書房刊、木村彰一:訳)
――ノーベル賞を二つ受けた世界で唯一人の女性科学者の独白(下)
夫の死は、彼の行なった発見の意義がようやく社会的に認知されるようになった直後のことだったので、特に学界から国民的な損失として受け取られました。パリ大学当局は、夫がソルボンヌで担当していた講座を私に提供することを決議したのは、こういう風潮の影響も大いに手伝っていたのです。私にはかなりの重荷であっても、義務として引き受けようと考え、1906年から講師として働き、二年後には教授に任命されました。
環境が変わると共に、私の生活は前よりも遥かに困難なものに。夫と二人で背負ってきた重荷を、独りで背負って行かねばならないのでしたから。小さな子供たちには、慎重な配慮と監督が必要で、この仕事は同居して下さった義父が喜んで協力して下さいました。私たちはパリ郊外に庭園付きの家を一軒借り、私は汽車で毎日半時間パリへ通うことに。
1910年、長い患いの後、義父が亡くなります。私は大学の同僚たちと協力し、子供たちのために、一種の集団教育を組織しました。私たち一人一人が、若い生徒たち全員に何かの学科の講義をするというやり方です。私たちは皆他の仕事で忙しい身の上だし、子供たちの年齢もまちまち。にも拘らず、この実験は興味ある結果をもたらしました。
二年ほど続いたこの授業は、大部分の生徒たちは本より、特に私の長女には非常に有益でした。彼女はパリのある私立中学の上級に入り、平均年齢より若かったのに、楽々と大学入学資格試験にパス。すぐにソルボンヌで勉強を始めました。次女は姉とは少し違うやり方で勉強。よくできる生徒で、どんな学科にもいい成績をとりました。
私の研究方面では、1907年に夫の後任としてソルボンヌの講座を継承します。設備の貧弱な、小さな実験室を一つ与えられ、若い研究員数人と学生たちの援助により、私は研究を前進させ、良い結果へ。この年、米国の著名な実業家A・カーネギー氏が私の研究に絶大な好意を示され、私の実験所に対し、基金を設定。測り知れぬ恩恵を受けました。
私はこの年にラジウムの第二回目の原子量決定を行い、1910年には金属ラジウムの分離に成功します。この実験はラジウムを多量に失う危険があり、異常な注意力を要しました。私はラジウムの含量を、それが放射するガスによって測定する方法を考案。ラジウムの極微量(一ミリグラムの千分の一よりも少ない)が極めて正確に測定可能になりました。
ラジウム療法(フランスではキュリー療法)と呼ばれる新しい医療法は、急速な発展を遂げます。ラジウムの生産とラジウム療法とは並行的に発展。色々な病気、特に癌の治療は次第に好成績を挙げるようになります。私たちの発見がこうして人類の幸福に役立っているという確信が、私にとってどんなに貴重なものか、たやすくご理解頂けるでしょう。
色々な心労が重なり、1911年末、私はかなり重い病気に。丁度その時、二度目のノーベル賞を今度は独りだけで授与されます。新しい諸元素の発見と純粋な状態でのラジウムの分離に対するもので、前例のない高い栄誉でした。厳粛な授与式に出るため、私は病を押してストックホルムへ出かけ、二人の娘が同行してくれました。
1914年に第一次大戦が勃発。パリが敵の攻撃に晒される危険が増大し、政府はラジウムをボルドーへ運ぶよう指示します。鉛で覆いをしたラジウムの入る重い袋を持ち、汽車で私は独りボルドーへ。親切な官吏の計らいで個人の家に泊まることができ、翌朝、大急ぎでラジウムを安全な場所に預け、軍用列車の一隅でやっとの思いでパリへ戻ってきました。
当時は国家に協力するのは、全ての市民の重大な義務。フランスの国防体制には種々の欠陥があり、衛生設備の面における欠陥に私は注目しました。方々の野戦病院にX線検査班ないしX線治療班を急いで組織する必要がありました。他方、それとは全く無関係に新設されたばかりのラジウム研究所で講義をし、特殊研究の遂行もせねばなりませんでした。
X線の助けを借り、体内に入った弾丸を発見し、除去を容易にします。X線はまた骨や内臓に生じた種々な変化を明らかにし、様々な病気の経過を辿ることを可能にします。X線の応用は、戦時において多くの人命を救い、多くの苦痛や恒久的不具を未然に防止しました。
私は旅行に出る時、よく長女のイレーヌを連れて行きました。当時十七歳で、中学を終えソルボンヌで勉学を始めていた時期。実に熱心に私の仕事を扶けてくれ、前線の野戦病院で働いた功績で褒状やメダルを戴きました。私自身も車の運転を習い、必要な時にはX線検査病院車で旅行する折に自分で運転をしました。
X線検査に従事する人手が足りず、私は婦人たちを訓練することに。軍医部に進言し、1916年にエディト・カヴェル病院に新たに付設された看護婦学校に、X線衛生班養成所が設けられます。特別の講習会が開設され、百五十人の看護婦たちが訓練を受けました。私は実習に重きを置き、私の娘や数人の篤志家たちに講義を依頼しました。
1915年、ボルドーに疎開したラジウムがパリへ復帰。私はそのラジウムを患者の治療に応用することを思い立ち、ラジウム発散物の入ったガラス管を自分独りで調整。複雑な操作を必要とする仕事をこなし、軍および民間の多くの負傷者や患者が、これらのガラス管による治療を受けました。ラジウムとの接触は危険を伴い、それに従事する者を放射線の有害な作用から守る措置を軍医部が講じなかったことに、私は度々不安な念を覚えました。
同年、実験所をピエール・キュリー街の新館に移設。研究所の整備は軌道に乗り、1919年に完成します。四年余り続いた大戦も前年に休戦が成立し、ほっと安堵しました。1921年には貴重な「マリー・キュリー・ラジウム基金」を頂戴します。W・B・メロニー夫人が発意し、米国の婦人の方々が拠金し、1グラムのラジウムを私に寄付して下さったのです。
私と娘たちはニューヨークへ招待されます。ホワイトハウスでハーディング大統領から心のこもったお言葉を頂き、方々の大学から数々の栄誉ある称号を授与されました。ナイヤガラ瀑布やグランド・キャニオンを見物し、自然の造り出した奇跡に深く感動しました。
私たち(夫婦)はラジウムの製法の詳細を公開してきました。特許も何一つ取らず、製造者から利潤の分け前を要求するようなことも致しませんでした。ラジウム工業が急速な進歩を遂げたのも、私たちの公表した報告が正確だったから。人類は一定の目的に向かう無私の指向が強烈で、自分の物質的利益など度外視する夢想家を必要としています。
▽筆者の一言 放射能研究のパイオニア「キュリー夫人」として知られる本編の主人公は、「初」尽くしの人物だ。曰く、フランスの大学で博士号を取得した初めての女性。パリ大学教授となった初の女性で、ノーベル賞を受賞した初の女性でもある。二つの科学分野(物理学と化学)でノーベル賞を受けた初(男女を問わず)の存在だ。2018年にイギリスの歴史専門誌『BBCヒストリー』が発表した「世界を変えた女性百人」の第一位に彼女が輝いたのも当然、と言えよう。その母と亡き父のDNAを受け継いだ長女イレーヌは、母親から独特の秀才教育を受けた。このイレーヌが長じ、夫フレデリク(母マリーの元助手)と共に「人工放射性元素の研究」でノーベル化学賞(1935年)を受ける輝かしい成果を挙げたのも必然の成り行きだった、と思えてくる。
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