世界のノンフィクション秀作を読む(49) 『アインシュタイン』(上)

D・ブライアンの『アインシュタイン』(三田出版会刊、鈴木主税:訳)

――天才が歩んだ愛すべき人生(上)

 
 ドイツ生まれの物理学者アルバート・アインシュタイン(1879~1955)は、その相対性理論などで学界に革命をもたらした。若い頃には不遇の一時期もあったが、天才学者は独自の思考の閃くまま旧来の物理学上の認識を根本から変え、ノーベル賞を授与される。米国のノンフィクション作家は、この天才の愛すべき素顔を精細かつ生き生きと伝える。

 ◇青年期の素顔
 彼は1879年、ドイツ南部の小さな町ウルムに実業家の父ヘルマン、母パウリーネの長男として生まれた。小学生当時は退屈な事は一切無視し、興味を感じたことに集中力を発揮。トランプのカードで14階の家まで組み立てたのを、妹のマヤは記憶している。
 父の事業は浮沈があり、十代半ばのアルバート独りを残し、一家はイタリアへ。彼はスイスの州立学校(日本の高校相当)を経てチューリッヒ工大を1900年に卒業。が、指導教授の覚えが良くなく、すぐには同大学に就職できず、家庭教師などをしながら食いつなぐ。
 アインシュタインは、その気質ゆえに仕事を得られなかった。歯に衣着せぬ言動や冷笑的な態度は友人たちを喜ばせたが、権威的な教授のほとんどに嫌われた。おまけに彼はユダヤ人であり、ドイツほど明からさまではないにしろ、排斥の的になり易かった。
 貯金も底を付き、翌年に友人の口利きでベルン特許局の三級専門技官試用として就職する。勤務しながら、彼は読書会サークルを結成。勤務終業後、毎晩のように特許局近くのカフェやアインシュタイン宅に集まり、哲学や科学、文学などについて論じ合った。この討論が、後に相対性理論に着手するアインシュタインに多大な影響を与える。

 彼はイギリスの哲学者D・ヒュームを称賛。その「経験と数学のみが科学の道理にかなった唯一の道具である」という主張に共感した。彼は本務を疎かにはせず、04年本採用になり、高い評価の下に翌々年春には二級専門技官に昇進する。私生活ではチューリヒ工大の同級生ミレヴァと在学中に恋に落ち、彼女は02年に女児を出産した。
 05年初春、アインシュタインは親友に対し、「宇宙の混沌とした疑問を解き明かすジグソーパズルがあと数ピースで完成しそうだ」と語る。翌朝、目覚めた彼は解答を見出し、宇宙を解明する基本的な真理を手中にしていた。降ってきた突然の天啓は、電気、磁気、物質についてや、さらには光と空間と時間そのものの性質に関する運動に止まらなかった。創造の秘密にさえ触れていたのだ。
 同時性という判断は、空間と時間の測定に深く関わっている。物事が同時に起こるかどうかは、個人の直接的な環境によってのみ判断できる。彼が言ったように「答は突然、わかった。空間や時間に関する我々の概念や法則は、我々の経験と明らかな関係を持つ範囲でのみ、その正当性を主張できる」。これらの概念と法則は、経験に基づいて簡単に置き換えることができる。同時性の概念をより適応性のある形に変えることによって、アインシュタインは特殊相対性理論に到達した、のである。

 ◇特殊相対性理論
 彼はマッハから多大な影響を受け、D・ヒュームが論理の力についてまとめた論考『人間原理の探求』からはそれ以上の影響を受けた、と言う。これらの哲学的な研究がなければ、特殊相対性理論の答を得られなかったかも知れない、とも言っている。
 以後数週間、アインシュタインは取り憑かれたように「運動体の電気力学について」と題する原稿の完成に全精力を傾注。三一頁にわたる論文には、不思議なことに脚注も参考文献もなく、何か別世界から霊感を受けたかのように思える。
 後に彼は、崇拝する十九世紀の科学者M・ファラデーに大いに啓発されたと語っている。ファラデーは電磁力が伝わるには時間がかかると考え、アインシュタインはそれを発展させ、電磁力の相互作用にも時間がかかり、離れた物体の間に働くあらゆる相互作用は時間がかかるという結論に達した。簡単に言えば、これが彼の特殊相対性理論である。
 05年6月、彼は相対性理論の論文を科学専門誌に提出した。非常に革命的な内容で、光は波のような現象だという二百年以上にわたって実験でも確認されていた概念を打ち砕いた。プランクは少し前、物議を醸す仮説を提唱し、疑問を投げかけていた。「物質が光を粒子あるいは量子として放出したり、吸収したりする」と考えたのだ。アインシュタインはこの仮説をさらに発展させ、光そのものが物質とは関係のない、別の粒子として移動すると主張した。即ち、プランクの量子論を光に適用し、量子力学の確立を促したのである。

 彼は「光の発生と変換に関する発見的理論」と題する論文を作成。光の量子すなわち光子の衝突により電子が塊になって移動するという光電効果を説明した。この理論を実際に応用したのが「電気の目」だ。侵入者を識別~遠隔操作でドアを開閉したり、商品を数えたり、仕分けしたりできる。この理論はラジオやテレビの発明も可能にした。後に(相対性理論ではなく)この理論によって、アインシュタインはノーベル賞を受賞した。
 彼はまたブラウン運動(液体や気体中に浮遊する微粒子が不規則に運動する現象)に興味を持ち、研究を開始。この運動は物質の目に見えない分子と目に見える粒子が実際に衝突している、と考えた。彼は自分の仮説に拘り、一つの公式を提出。有限の大きさを持つ原子が存在する証拠を見つけ、その運動を見出す統計的な手法を確立した。
 フランスの物理学者ジャン・ぺランが行った実験によってアインシュタインの仮説が正しいことが証明され、原子が実際に存在することが確認された。彼の四番目の論文「運動体の電気力学について」(相対性に関する論文)は実に画期的なものになった。二百年にわたって受け入れられてきた、ニュートンの宇宙観に挑戦したのである。アインシュタインは直感と数学を使って、ニュートンの「霊感を受けた」推論を訂正し、拡大して、条件を付けた。彼はニュートンの絶対空間の概念を否定した上で、絶対時間も否定した。

 ◇「生涯で最も素晴らしい考え」
 アインシュタインは二年がかりで考え抜いた相対性理論の概略を専門誌にこう発表した。
 ――宇宙に存在するものは、隠されてはいるが、巨大なエネルギーを内蔵している。そして、あらゆる物質に当てはまるこの神秘を簡潔な方程式で表現した――E=mc²(エネルギーは、質量に光の速度の二乗をかけたものに等しい)。
 この方程式は質量が凝縮されたエネルギーであることを示唆し、小さな質量が巨大なエネルギーを放出することを予言。その考えは、やがて原子爆弾として実証されることになった。彼のこの公式に基づいて、太陽や恒星が何十憶年も(核反応によって)光と熱を放射している神秘が解明された。1907年にこの公式を発表した彼は、「これは自分の相対性理論の最も重要な結論だ」と語った。遥かな先を見通す並外れた能力は、彼の有名なこの公式が証明されたのが凡そ四半世紀後だったことからも窺える。

 ◇私生活の転変
 アインシュタインは1909年7月、特許局を辞任した。翌日、彼はジュネーヴ大学でマリー・キュリーや化学者W・オストワルトらを始め、多くの国際的著名人と同席していた。彼らは名誉学位を受け、神学者ジャン・カルヴァンが創設した同大学の三五〇周年記念に集まっていた。
 二か月後の国際物理学会議で、彼は初めて講演をした。光は波動であると同時に粒子であることが判るだろうと予言。斯界の画期的な出来事と受け取られた。
 彼はチューリヒのアパートに引っ越した。ミレヴァは二人目の子供を身ごもっており、彼は講義や研究だけでなく、事務的な雑務もこなさなければならなかった。ミレヴァは彼の科学的な思索には興味を失っており、家事や家族の世話に追われていた。夫が(かつての学友で女友達の)アンナ・シュミットとの友情を復活させようとした時、ミレヴァは激高した。二人が交わす手紙を隠し、交際が生まれるのを妨害した。

 アインシュタインは立腹し、二人の結婚生活に波風が立つ。彼が他の女性に興味を示した最初の兆候だった。研究に没頭するにつれ、妻子と過ごす時間が無くなっていく。結婚後一一年たった1914年春、彼がベルリン大学で研究生活を送ることになった時、ミレヴァは夫に従い十歳の長男と四歳の次男を連れてベルリンに来た。だが夏にはチューリヒに戻り、別居。二人の仲を教授仲間が何とか取り持とうとしたが、元に戻ることはなかった。
 1919年6月、アインシュタインは二人目の妻エルザと結婚した。エルザはアインシュタインが少女時代から知っている三歳年上の母方の従姉。エルザとの結婚を考え始めたのは前々年に胃潰瘍で苦しみ、二カ月で体重が一五キロも減った彼を彼女が献身的に介護したのがきっかけだった。当時、エルザは離婚して二人の娘(二二歳と二〇歳)と一緒にベルリンに住んでいた。彼女は姉さん女房として夫に降りかかる雑事をうまく片付け、快活な性格で料理好きだった。世事に疎く人付き合いの苦手な夫から、難なく心配事を遠ざけた。
 
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