竹中千春(立教大教授:国際政治学)の『ガンディー――平和を紡ぐ人』(岩波新書)――非暴力によるインド独立への闘い(上)
「マハートマ」(偉大なる魂)と呼ばれたインドの不世出の社会活動家ガンディー(1869~1948)。その七十八年に及ぶ生涯を克明にたどり、非暴力による国家独立への闘いの日々をインドの歴史に詳しい政治学者のペンが入念に綴る。東欧や中東で酷い戦禍が止まない現下だからこそ、稀有な個性による尊い営みを改めて振り返ってみたい。
ガンディーは1869年、アラビア海に面するイギリス領インド帝国の南西部グジャラート州の港町ポールバンダルに五人きょうだいの末っ子として生まれた。父は当時の藩王国の宰相で、家柄はインドの四つの階級の三番目に当たる商人カーストのヴァイシャ。小学校当時は素行が良くなく、ヒンドゥー教でご法度の肉食をしたり、煙草に手を出したりした。
一二歳でハイスクールに入学、一三歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚。一八歳で宗主国イギリスの首都ロンドンに渡り、ロンドン大学に学び、弁護士免許を取得し、帰国する。が、郷里では弁護士としての仕事の場がなく、93年に当時イギリスの支配下にあった南アフリカに渡る。白人優位の人種差別下の現地で、列車の車掌に肌の色ゆえにクーリー(人夫)扱いされ、「インド人」意識に劇的に目覚めた。
インド系商人の弁護の仕事をするため、南アでの法的な弁護士資格を取得。母国で講演し、南アの問題を訴えた。妻子を呼び寄せ、腰を据えてインド人の権利向上へ闘う。理解の浅かったヒンドゥー教やインド哲学への学びを深め、またトルストイの影響を受ける。「非所有」の生涯を決意し、後の非暴力抵抗運動(サティーヤグラハ:数の力や武力を頼まず、自らを強者と信じ、愛情の力に基づいて相手を乗り越える)思想を形成していった。
1904年、自身が主筆と編集を担う週刊新聞を発行。平均約二千人の購読者を持ち、論説欄で彼は非暴力抵抗運動の原理と実践を訴える。06年、「インド系移民登録法」案を「暗黒法」として抗議~反対運動を展開。翌々年にサティーヤグラハ扇動のかどで彼は有罪判決を受け、二か月服役する。13年、キリスト教式ではない結婚を無効とする法案に抗議し、二千人余の鉱山夫を率いた大行進を組織。ガンディーは四日間に三回逮捕される。
これらの出来事はインドにも大きく報道され、インド総督ハーディングは南ア政府を批判する声明を発表。南ア政府首脳はガンディーと交渉~インド人救済法案を公表し、インド人移民の要求を全て認めるとした。その成功を見極め、ガンディーはインドへの帰郷を決意する。第一次世界大戦が勃発した14年夏、彼は祖国へ帰国。秋には、四五歳になった。
◇マハートマ(偉大なる魂)への道
四十代半ばから五十代初めにかけて、ガンディーは人生で最も自信と精力に溢れた時期だった。インド政治の世界にデビューしてから驚くことに、極めて短期間に、彼は「マハートマ」と呼ばれるような存在に成っていく。一九一七年から翌年にかけての各地でのサッティーヤグラハ、翌々年には第一次大戦後の混乱状況の中で全国的な反ローラット法運動、そして一九二一年には会議派の中心人物として非協力運動の実施と、ホップ・ステップ・ジャンプの様に羽ばたいていく。
◇農民運動との繋がり
この時期、彼はまた北東部ビハール州の最北東部チャンバーランでの農民運動、北西部グジャラート州アーメダバード市の労働争議(並びにケーダ県の農民運動)と文字通り東奔西走。三カ所でサティーヤグラハを指導して大成功を収め、新しい指導者として彗星のように登場する。
チャンバーランは一九世紀にイギリス人の資本家が進出し、藍(インディゴ:イギリス本国の綿工場が必要とする染料)の大農園を造成。東インド会社は鉄道を敷き、税務署・警察・裁判所が置かれた。農園主は特殊な仕組みの下で、インド人の農民に藍栽培を強制。収穫物を安く買い叩き、労働を強制し、地代やその他の代金を支払わせた。
ガンディーは地元農民からの訴えで郷里に近い現地へ急行。農民四千名余の証言を集め、実地調査を行った末の報告書を政府に提出する。農園主側との交渉は長引き、政府は調査委員会を設置。委員会は農民に有利な判定を下し、この活動は華々しい成功を収める。
◇塩の行進
<招かれた指導者>1917~18年、ガンディーはインド北東部での農民運動、北西部での労働争議と農民運動と、三カ所で大成功を収め、新しい指導者として彗星のように登場した。北東部ビハール州は藍の大農園の拠点。ガンディーらは四千名以上の農民から証言を集め、政府に提出し、早急な対応を促した。農園主が保有するジラートという土地では、農民は殆ど只で労働を強いられ、農園主側は収穫物の藍を安く買い叩いた。
土地の警察は退去命令に従わないガンディーを逮捕するが、彼は罰金の支払いを拒み、刑務所入りを望んだ。州知事は訴訟の撤回を命令。県長官から、ガンディーは自由な調査を行ってよいという通知を受ける。<ガンディーが勝利した>と農民は歓喜した。ガンディーは近隣の富裕な人々から寄付を集め、活動資金を作った。農民の証言を記録する作業を休み無しに進め、公平性を保証するために、警察官を立ち会わせて記録を採った。
こうして非常に短期間に、ガンディーらは報告書をまとめ、政府に提出した。四千名以上の農民から証言を集め、内容の信憑性を確認し、農村での実地調査を行ったものだった。
暴力的な事件などが起こる前に、迅速に農園主と農民の利害調整を行うことが狙いだった。
問題は土地制度にあった。農園主が保有しているジラートという土地では、農民はほとんど只で労働を強いられてきた。小作農民が耕作地の15パーセントに対し藍栽培を強制されるという制度も存続。農園主側は良質な土地を藍栽培に当てさせ、収穫物を買い叩いた。
農園主の圧政は政府ですら呆れるほどだったが、詳細に調査したガンディーらの報告書は、具体的な数字を示し、冷静に彼らの貧窮の実態を証明していた。17年6月、州知事はガンディーに州からの退去を命令するが、彼は後に引かなかった。公の調査委員会が発足し、農民に有利な判定を下す。州議会で強制取り立て制度を廃止する法案が成立。ガンディーが指導した農民運動は、華々しい成功を収める。
<反ローラット法運動>第一次世界大戦では二百万人以上のインド人が戦地に赴き、膨大な額の資金や物資の提供を行ったとされる。だが、イギリス側は期待を裏切ったばかりか、治安政策を強化する方針を打ち出した。1919年三月、1915年のインド防衛法の焼き直しとして、無秩序革命犯罪法。いわゆるローラット法が制定されたのだ。
ガンディーはこれに反発し、反対運動に立ち上がる。総督宛てに抗議文を送り、以前の闘争で共に戦った有志が結集。抗議運動を展開する団体を結成し、ガンディーの趣意書が全国の会議派に伝達された。野心的かつ冒険的で、首都デリーでは1919年三月末、警察の発砲で多数の人々が負傷させられる事件も発生する。しかし、四月六日、予定通り全国各地でハルタール(一斉休業)が実施された。
ガンディーたちの戦略は、人々が不正な法を破り、逮捕や財産没収といった政府の対応を引き出す。必要なら刑務所に入り、法と政府の不正を公にする。四月七日、ボンベイから鉄道でデリーへ出発した彼は途中で警察に拘束され、出発地に送還される。ボンベイでは、集まった数千人の民衆に警察の騎馬隊が突っ込み、多くの人々が負傷する事件が起こった。ガンディーは警察部長に抗議しつつ、人々に向けては非暴力と秩序を訴えた。
北西部の州でも一触即発の状況となり、鉄道のレールが一部で外されたり、政府の役人が殺された。政府は戒厳令を敷き、ガンディーは警察部長を訪ねて抗議し、民衆側も平和を回復するよう努めると約束。彼は三日間の懺悔の断食を宣言し、非暴力闘争の精神と意義を人々に説いた。こうしたガンディーの介入の後、この地域では戒厳令が解除された。
<政治運動に加わる>1919年、第一次世界大戦が終結。首都デリーでヒンドゥー教徒とイスラム教徒が平和回復の行事をめぐって討議し、ガンディーも招かれ、演説した。「非協力」運動は、この演説の中で突然思いついたアイデアだった。この年、新しいインド統治法がイギリス議会で可決し、一定範囲で自治要求に譲歩する内容となっていた。
次世代の会議派指導者として招かれた彼には、組織維持のための財源確保や会議派の新規約の起草といった仕事が待っていた。当時の会議派には、常設機関もなく、突発的な事項を処理する組織もなかった。ガンディーらが起草した新しい党の規約に基づけば、各地方から選挙で代議員が選ばれ、地方組織のピラミッドの中心に会議派の事務局を常設。会費を引き下げて党員の裾野を広げ、民衆と共に活動する政党組織を形成しようと図った。
ちょうど、イスラムの人々の反英運動も加速していた。大戦に勝った大英帝国が、オスマン帝国を終焉させる内容の講和条約を締結していたからだ。イギリスに対して非協力と非暴力を訴えた彼は大人気を博した。時に五〇歳、将に「時の人」となっていた。
<カーディ運動>21年には会議派は非協力運動を組織を挙げて実施。その大きな原動力になったのがカーディ運動(自給自足・国産品奨励)だ。ガンディーは上半身は裸、下半身にはドーティという白い布を巻くだけのスタイルに変わった。イギリスの工場製品の衣料を燃やし、インド製の服を着ようという運動が広がっていく。
<マハートマの出現>「ガンディー様は大聖人、『聖者』だ」。ある村では涸れ井戸にガンディー様の名前を唱えて五ルピーを供えたところ、ゆっくりと水が湧き始めた、という。そんな「奇跡」の逸話が、そこここで語られた。非協力運動に加わった農民たちにとって、彼は神のような存在になっていく。ガンディーの名前は驚くほど知れ渡り、その命じたことは成し遂げなければならない、と人々は常識のように信じていた。
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