竹中千春(立教大教授:国際政治学)の『ガンディー――平和を紡ぐ人』(岩波新書)――非暴力によるインド独立への闘い(下)
◇マハートマの出現 「ガンディー様は大聖人、『聖者』だ」。ある村では涸れ井戸にガンディー様の名前を唱えて五ルピーを供えたところ、ゆっくりと水が湧き始めた、という。そんな「奇跡」の逸話が、そこここで語られた。非協力運動に加わった農民たちにとって、彼は神のような存在になっていく。ガンディーの名前は驚くほど知れ渡り、その命じたことは成し遂げなければならない、と人々は常識のように信じていた。
◇塩の行進 ガンディーは1928年4月まで政治活動を自粛し、カーディ運動(自給自足・国産品奨励)など草の根の活動に精力を注いでいた。イギリス本国の政治工作を前に、ナショナリストが動き出す。最も尊敬を集める法律家で中央議会議員のモティラル・ネルー(父親の方)を中心に、会議派が他の政党にも呼びかけ、憲法草案の検討に入る。彼は連邦制を活用して「一つのインド」を作るという提案をまとめるが、支持を得られなかった。会議派の中からも、帝国と対決してでも独立を目指そうとするジャワハルラル・ネルー(息子の方:後に独立インドの初代首相)ら若手の突き上げがあった。
四面楚歌の下のモティラル・ネルーから支援を要請され、ガンディーは28年末の会議派年次大会に出席。ネルー憲法の採択を強く訴え、ナショナリズムの危機を訴える彼の演説によって同憲法案は満場一致で採択される。これを機に、ガンディーは正式に政界へ復帰する。
30年1月、会議派は市民不服従運動の実施に向けての方針を決定。ガンディーの提案で1月26日を「独立の日」と定め、「全ての領域でインドを搾取・破壊してきたイギリス政府に対し、インドの民衆は『完全独立』のために戦い、勝ち取る権利がある」と宣言した。
3月5日、彼は「塩の行進」(辺鄙な農村部での三百キロにも及ぶ民衆によるデモ行進)の計画を発表する。インド側の大物政治家が「笑いものだ」と公言するなど、誰もが腰を抜かすほど驚いた。当然、政府側は喜び、失敗するのを期待した。行進の予定地グジャラート地方はガンディーの郷里に近く、彼が十年以上もかけて農民と活動を重ねてきた地域。出発前日の3月11日、なんと二万人余の人々が出発地の僧院周辺に集合。「後戻りは出来ない。これは最後の闘いだ」とガンディーは「兵士たち」に呼びかけた。
翌12日朝六時三〇分、ガンディーを先頭に、二人一組に七八人のメンバーが隊列を組んで出発。みな白い長布を身に纏い、殆どの人が白いガンディー帽を被っている。数百、数千の人々がガンディー一行に付いて歩いた。一一キロ先の最初の休憩地には八時五〇分に到着。五分間の休憩後、一行は再び出発し、最初の村へと向かった。
この時期、同地方の気温は摂氏五〇度前後。この暑さの中、一行は黙々と進み、出発から三週間後の四月六日、ガンディーらは朝日に輝くダーンディーの海辺に到達した。彼は海水に漬かって身を浄め、右手で塩を掬い上げ、青空に高くかざした。すぐさま周囲から「マハートマ万歳!スワラージ万歳!」の歓呼の声が上がる。国中どころか世界中のメディアが一斉にガンディーの偉業を伝え、魔法ならぬ、マハートマの「奇跡」が成就した。
◇休戦協定と円卓会議 「塩の行進」の後、植民地政府による塩の専売への不服従運動が急速に全国へ広がり、その結果、何万人もの人々が逮捕された。が、ガンディーとその一団は、逮捕を免れていた。彼が逮捕後に体調を崩し急死する事態が起きれば、反英運動の殉教者を生み、民衆運動の収拾がつかなくなる。そう危惧した総督らが、逮捕を遅らせていたのである。
彼は一計を巡らし、近隣の製塩所への非暴力的な「襲撃」を計画。五月四日に総督宛てに、それを伝える手紙を送付した。武装した警察の部隊がガンディー一行の滞在する村を急襲。彼は、馴染みのある刑務所に再び投獄される。彼の構想に沿い、製塩所への非暴力の行進が続く。白衣の人々が警棒で殴られ、出血~次々倒れていく情景が、海外の新聞記者によって報道され、世界中に伝えられた。ガンディーは刑務所内でも断食して抗議した。
31年1月、総督はガンディーらの釈放を決定。市民不服従運動の一時停止とガンディー・総督の話し合いが条件だった。この決定は殆どの会議派指導者には青天の霹靂であり、ジャワハルラル・ネルーは「革命前夜なのに、なぜ?」と叫んだ、という。「ガンディー=アーウィン協定」の内容は中途半端であり、ネルーらが首を傾げるのも無理はなかった。
本国のイギリスは二九年の世界恐慌に際会。植民地の独立や自治を論じるどころではなかった。危機にある本国を救うには、英領インドの騒擾を収め、帝国に協力的な体制を立て直すことが必要だ。その対策として、インド亜大陸の政治的な代表を集めた円卓会議が、急遽ロンドンで開催される運びとなる。
会議には五百以上ある藩王国を代表する王たち、イスラーム教徒の代表、シーク教徒やキリスト教徒の代表、その他様々な社会集団の代表が招かれた。ガンディーは会議派と国民を代表して、自分一人が出席すると譲らず、反対派からは独裁的だと厳しく批判された。
彼は、支配階級は決して権力を手放さず、維持するためなら弾圧を辞さないことも、体験を通して熟知していた。指導者を欠いた形での民衆運動は危険な暴力の震源に成り得ることを見抜いていた。こうした判断から、例え不本意な合意であろうと、イギリス政府と直接話し合うことを条件に、彼は運動を停止する決断を下したのである。
イギリスでのガンディーは孤立していた。諸々の代表にとって、「自分だけがインドを代表する」と言う彼の主張は失礼であり、自分たちの存在を否定するものだと不評だった。当然と言えば当然で、その結果、彼は会議の場で終始孤立することになった。イギリス側は何も言質を与えず、四面楚歌の彼を相手にしないまま会議は閉会した。
円卓会議が終了すると、直ちにインド政府は弾圧を再開。32年中に、七万五千人以上の逮捕者を出したという。会議派は非合法化され、各地の拠点が警察の捜索を受け、会議派の資金は見つかり次第没収された。イギリスから帰国したガンディーも再び逮捕され、刑務所へ。今回は、一九世紀の刑法を根拠にし、裁判なしの実刑を宣告された。
◇たった一人の抗議活動 獄中のガンディーには、重要な問題が幾つも降りかかってきた。一つは、カースト差別の問題。南アジアには、浄と不浄という観点から様々な血縁集団の身分が決められ、職業、結婚、教育、人生から日々の暮らし方まで統制され規制される伝統的な仕組みが存在して来た。一般にカースト社会と呼ばれるものである。
イギリス人は最低辺の人々を「不可触民」、あるいは「アウトカースト」と呼んだ。その帝国主義的な「分割統治」政策は、少数派としてのイスラームを、多数派としてのヒンドゥーから「保護する」という形で、両者の宗教的な亀裂を深めることに一役買った。
この矛盾は抽象論ではなく、現実的な政治戦略の問題となった。「誰を国民として組織するのか」という問題だからである。最底辺の不可触民出身の弁護士アンベードカルはエリートが先導する会議派の在り方を批判し、会議派に対抗する運動「ダリット」(「差別される者」の意)を組織することになった。
獄中のガンディーは、イギリスの提案に「これはインドの社会を永久に分断するものだ」と激しく抗議して断食を宣言。突然の断食宣言に、国中が動揺し、「ガンディーを殺すな」という声が上がる。やむなくアンベードカルは譲歩し、妥協的な運動方式を受け入れた。
◇最後の祈り 39年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、ガンディーはヒトラーに手紙を送り、戦争の停止を訴えた。41年12月、日本軍の真珠湾攻撃後、アメリカが参戦を表明すると、ローズヴェルト大統領に私信を認め、戦争の停止を求めた。次第に彼は「時代遅れの老人」視され、会議派の後輩からも「現実を見ていない」という厳しい批判を受けるようになっていく。とりわけ打撃だったのが、激しさを増す宗教的な暴力。彼は暴動の焼け跡を歩き、避難した人々を慰め、暴徒たちには平和と愛を説いた。
◇マハートマの死 47年10月、カシミール地方の帰属をめぐりムスリム住民が暴動を起こし、第一次印パ戦争が勃発。ガンディーは両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンと協調しようとの態度を貫く。そのためヒンドゥー原理主義者から敵視され、印パ戦争最中の翌年1月30日、彼はニューデリー滞在場所であるピルラー邸の中庭でピストルで狙撃~射殺された。葬儀は翌日国葬として営まれ、犯人ら二人が後に死刑に処された。
▽筆者の一言 ガンディーが生きた時代のインドは、圧倒的な農村社会だった。ガンディーの在り様は、都会的なエリートにはおかしなものに映っただろうが、農民たちにはそうではなかった。農民からお金も取らず、威張り散らしたりもしない。不思議な聖人だ。農民の一人は、イギリス人の役人に対し、こう言ったそうだ。「ガンディー様はラーマ王子(古代インドの大叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公)みたいだ。王子は悪魔の力を恐れなかった。ガンディー様が来られたからには、自分たちも悪魔のような地主をもう恐れない」。ウクライナで、ガザで、不条理な流血が止まない現下だからこそ、せめて「東洋的な平和」のメルヘンに束の間の癒しを求めたくなる。
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