世界のノンフィクション秀作を読む(55) 奥野克巳の『はじめての人類学』(上)

奥野克巳(立教大教授:文化人類学)の『はじめての人類学』(講談社現代新書) 
――最近百年のダイナミックな知的格闘を一望(上)

 人間とは何か?という根元的な問いは、古くて新しい。人間という存在は、数値化できない厄介な代物だからだ。本書は、その難問に真正面から取り組み、不確定で先行きの見えない現代を生き抜くための貴重なヒントを提示してくれる。

近代人類学が誕生するまで
 人類学が本格的に発展していくのは20世紀以降のことだ。19世紀には、文化や社会を原始から文明に至る直線的な進化の過程として捉える進化論的な考え方が広まるようになった。これはダーウィンによる生物進化論が興った時期と重なる。人類学者タイラーは「アニミズム」を提唱し、フレイザーは労大作『金枝篇』で呪術について考察した。
 進化主義的な説を唱えた19世紀の人類学者たちに対し、「ぬくぬくした研究室を飛び出し、人間の肌にまみれて研究を深めるべき」と20世紀の若い人類学者たちはフィールドワークの重要性を強調する。マリノフスキは人間の「実際の生」を直に観察し、生の全体性を描き上げようと試みた。
デュルケームは「集合表象」(集団の中で個人を拘束するもの)と「機能」に注目。研究対象にすべきなのは「社会的事実だ」と断じた。ある集団の人たちが太陽を神として崇めるのは、その社会で「太陽は神だ」という価値観が共有されているから。彼らは集団の中に共有されている「集合表象」に従っているのだ、と解説した。

 「集合表象」は未開社会と文明社会のいずれにも存在している。デュルケームは、それらを比較研究することで、人間社会の特質を探り出すことができると考えた。彼は当時入手可能だった豪州や北米の先住民社会の民族誌文献を活用~宗教や儀礼に関して考察した。
 彼はまた、『社会分業論』(1893年)の中で、分業の進んだ近代社会において、異なる暮らし方をする人たちが「有機的連帯」によって一つの社会を作り上げる様を描き出している。社会のあらゆる現象や事柄が互いに働き合う、即ち「機能」することで社会という全体が作り上げられていると考えたのだ。
 そうしたデュルケームの考え方は、フィールドワークを通じて人間社会の制度や慣習を分析しようとするマリノフスキの人類学に繋がっていく。マリノフスキはデュルケーム社会学を継承しつつ、制度や慣習の機能を文化や社会との関連において解明することを重視した。彼の研究はその後、「機能主義」人類学と呼ばれるようになる。

マリノフスキ(1884~1942)――「生の全体」
 ポーランド出身のイギリスの人類学者マリノフスキは1915年から18年にかけてニューギニア島北東沿岸沖のトロブリアンド諸島で、計三回・約二年間にわたる現地調査を実施した。彼は現地に暮らす人々が海を越えてカヌーで航海したり、呪文を唱えたりする行動を事細かに記録。そうした現地の人々の様々な活動が合わさることで、社会という全体が形作られているのだと唱えた。「機能主義」と呼ばれる彼の示した文化の見取り図は、19世紀以降の人類学を大きく刷新。彼以降、長期のフィールドワークを行った人類学者が書き上げた民族誌が蓄積されるようになり、20世紀の人類学が形成されていく。
 驚いたことに、マリノフスキは現地の人々に対する嫌悪感や敵意などを『日記』に露骨に綴っていた。<昨晩も今朝も、舟を漕いでくれる人を探したが見つからなかった。そのため、白人としての怒りと、ブロンズ色の肌をした現地人に対する嫌悪が高じ、・・・>。<現地人たちには未だに腹が立つ。特にジンジャー(現地人の名前)に対しては、(中略)死ぬほど殴りつけてやりたい位だ。> マリノフスキは、現地に暮らす自身の中で湧き起こった感情を受け止め、さらにそこに生きる人々へとその思いを広げている。

 衣・食・住などの生活様式には、個人の「欲求」を充足させるための「機能」があるというのがマリノフスキの文化理論の骨子だ。個人の基本的な「欲求」とは、新陳代謝、生殖、身体の安全や運動、成長、健康などのこと。即ち食べる、セックスする、運動する、などの人間としての当たり前の活動だ。
 マリノフスキはなぜ個人の「欲求」の充足という観点を重視したのか。それは、彼が人間を理解するためには、社会や文化的な次元に焦点を当てるだけでは不十分だと考えたからだ。社会的に作られた「制度」は、日常の人間の活動を通じて個人の「欲求」を充足させたり、抑制したりすることに深く関わっている。だからこそ人間理解のためには個人の生理的・心理的次元にまで目を向ける必要があるというのが、彼の仮説だった。

 マリノフスキ以前に、現地の言語を習得した上で調査を行った人類学者は少なかったし、現地で十年以上生活した人類学者もいなかった。以前の現地調査は実質に乏しく、調査報告は生気を欠いた、通り一遍のものになる傾向にあった。マリノフスキは、そのような報告書を書いても意味がない、と考えていたようだ。自分の内面まで赤裸々に吐露するフィールド日記を付ける営みは、彼によっては始められた「伝統」だ、と言ってもよかろう。
 マリノフスキは長期にわたって現地滞在することで、現地語を身に付けて人々と直接コミュニケーションを取った。そうすることで、人間の生きている様を描き出すのに有効な調査を実施する秘訣を発見したのだ。彼以降、人類学者はフィールドで「参与観察」という経験的な手法で調査を進めることが一般的になった。

レヴィ=ストロース(1908~2009)――「生の構造」
 私たちは遠く離れた辺境の地に住む人々を、長い間、「文明から取り残された人々」視し、「野蛮人」や「未開人」扱いしてきた。フランスの人類学者レヴィ=ストロースは、そういう考え方こそ非科学的だと指摘した。彼は自身の研究を通して、「未開人」の洗練された思考を人類学的に明らかにしたのだ。彼はブラジル奥地の先住民社会の親族体系や神話を詳しく調べ上げ、我々が一見気づかない、繊細な秩序が隠れていることを発見した。
 「文明社会」では、父と母と子による関係性を家族の基本単位と見做し、家族形態を理解しようとする。が、「未開社会」には、それには当てはまらない家族形態がある。父母のそれぞれの兄弟姉妹が全てチチやハハと呼ばれるような社会だ。チチ・ハハが沢山いる家族形態は長らく、父母の同世代の男女が乱婚する、劣った原始的な習慣の残存視された。
 レヴィ=ストロースは、そのような親族呼称の体系は、それぞれの社会や共同体が持つ規則の違いに過ぎない、と断じる。そして、その体系の中に普段は意識されていない「構造」が隠されている、と捉えた。彼は、「構造」こそが人類に具わった普遍的なものであると主張した人類学者である。言語分析の方法論を用いて親族体系や神話を研究し、人々が日々生きていく中で意識されていない「生の構造」が、そこに潜んでいると結論づけた。
 
 彼が編み出した理論は人類学の理論だけに止まらず、その後「構造主義」と呼ばれる思想にまで発展する。即ち、我々が生活している社会や文化の背後には目に見えない構造があり、人間の活動はその構造によって支えられているとする考え方だ。構造主義が20世紀半ばの欧米の思想界に及ぼした影響は絶大なものだった。この意味で、レヴィ=ストロースは人類学において最大級の功績を残した学者の一人と言える。
 構造主義の出発点は、彼が1955年に出版した『悲しき熱帯』という著作だ。これは、1930年代末に彼がブラジル奥地を旅してから20年近く経って世に出したもの。風変わりな人類学者が20年も前の体験を綴った、不思議な旅行記だった。その年、彼はもう40代後半。決して若くして名声を得たわけではなかった。

 レヴィ=ストロースはユダヤ教徒の家(父は画家)に生まれ、パリ育ち。ソルボンヌで哲学を学び、24歳で高校の哲学教師になる。三年後に辞職し、ブラジル内陸に調査旅行へ。さらに38年、ブラジル西部の高地の横断地図作成を企図。30頭の牛や牧童15人を伴う大規模なもので、その体験が人類学の必読書『悲しき熱帯』(55年刊)として実る。
 彼は同書の中で、現地人の四つの集団に言及する。中でも「ボロロ」は高度に精緻な社会構造と形象表現の体系を生み出していて、他の集団と比べて抜群と指摘。10のクラン(氏族)から成る150人のボロロが26の家屋に環状集落状に暮らしている様子を記す。
 彼は、祭礼の日に男たちの陰茎に取り付けられる「陰茎鞘」に注目。その儀礼を「出エジプト記」における割礼の起原と比較する論考(1980年)を記している。人間は特定のモノや現象を目の前にすると、そこから何らかの意味を見出そうとする。そして、それらを「記号」として読み取る。そのメカニズムを探ることが、構造主義の手法とも言える。
ポロロ社会の人々は亀頭を「鞘」で覆い、一方の『旧約聖書』の民は、亀頭を隠したまま包皮だけを取り除く。行動に差はあれ、根底には「文化」が「自然」に作用するという、隠された「構造」を同じように持っているのだ。

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