奥野克巳(立教大教授:文化人類学)の『はじめての人類学』(講談社現代新書)
――最近百年のダイナミックな知的格闘を一望(下)
◇ボアズ(1858~1942)――「生のあり方」
ユダヤ系のドイツ人だったボアズはドイツで物理学の博士号を取得後に地理学に転向した。86年にアメリカへ移住し、99年にコロンビア大教授となり、アメリカ初となる人類学博士課程の設置に尽力する。自身に関わる設問でもあった「移民問題」を自然人類学的な観点から研究。1908年から翌年にかけ、学生と共に大規模な調査を実施する。
その結果、移民の子供たちの頭長幅指数で示される頭型が、親たちの世代に比べて変化していることが判った。アメリカで暮らし始めると、短頭のユダヤ人が長頭になり、長頭のシシリー人が短頭になることを示している。
ボアズは研究において、十分な情報が集まるまで安易に物事を理論化することを徹底的に避けた。学生たちに可能な限り多くの民族誌データを集めるよう指導。データが大量に集積されると、自然と理論が浮かび上がってくるのだ、と説いた。前記の「移民問題」調査では、大学院生13名が週に1200人のペースで2万近いデータを収集したという。
この調査により、移住後に年数が経ってから生まれた子供の方が、その変化の幅が大きいことが判明。つまり、短頭のユダヤ人も長頭のシシリー人も、在米年数が長くなればなるほど頭型が似てくる。民族ごとに多様な頭型がアメリカでは均一化していく傾向が示されたのだ。このことから、ボアズは移住先のアメリカという新しい環境において、身体的な変化が生じたと結論。最も変わり難いとされる頭型でさえ移住後に変形するならば、その他の形質上の特徴もまた移住後に変わっていくのだ、と彼は考えた。
広範な調査の結果、彼の研究は環境に応じて変容する人間の適応能力の高さを示した。人間は先天的に身体つきが決まっているのではなく、置かれた環境によって変化する生き物だという事実を明らかにしたのだ。これは、人種というのは変わり得ないものだと断定し、ユダヤ人種の根絶を謳うナチス・ドイツに対抗する言説になり得るものだった。
ボアズは、文化とは環境との関係や移住の経緯、隣接する文化からの借用など、歴史の積み重ねによって形成されるものだ、と主張。彼にとって、文化とは一つのまとまりとして見るべきものであり、文化の要素は他の要素との関係で理解されるべきものだった。
ボアズによって提唱された人類学の重要なキーワードに、「文化相対主義」がある。全ての文化には価値があり、その全てに敬意が払われるべきだという考え方だ。それはボアズ以降に、人類学という学問を支える世界観や心構えとして、世界中に広がっていく。<私の文化と貴方の文化が違うことは当たり前。でも、そこに優劣の差は全くない。>
この考え方は、今でこそ腑に落ちるものであっても、このような概念は第二次世界大戦以前に於いては「常識外れ」だった。第二次大戦後、文化相対主義の考え方はグローバル化する現代世界に於いて共有されるようになった。前述したレヴィ=ストロースの構造主義と共に、この文化相対主義は特に世界に強い影響を与えたものだった。アメリカの人類学は、自分たちの学問を「文化人類学」と規定している。文化の概念は特に重要なものであり、「生の在り方」こそがアメリカの人類学では研究の対象なのだ。
文化を「生の在り方」だと言い始めたのは、ボアズ門下のルース・ベネディクトとマーガレット・ミード。1920年代後半から1930年代前半にかけて、彼女たちは「生の在り方」を取り上げることこそが人類学の目的だ、と表明した。興味深いのは、そのような文化の定義がアメリカ固有の政治状況に連動しながら確立されていったという点だ。
1930年代後半、プラグマティストであるジョン・デューイは共産主義やファシズムに対抗して、民主主義こそが自分たちが守るべき「生の在り方」だと述べている。彼にとって、民主主義とは単なる政治制度ではなく、生きていくための方法そのものだったのだ。アメリカの知識人層に浸透していったデューイの捉え方と相俟ち、ベネディクトやミードの「文化は生の在り方である」という考え方が広がったのだと言える。
ベネディクトは第二次世界大戦開始後、アメリカ軍の戦時情報局に招集され、日本研究の仕事を委嘱される。その時の報告書を基に1946年に著書『菊と刀』を出版する。この著作の中で、彼女は日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」を対比的に語っている。
「恥の文化」では、善悪の絶対的基準となるものがない。人々は「世間の目」によって自分の行動を決める。日本人は、恥辱感を原動力としている。世間の目を気にし、恥をかかないように自己を抑制する。従って、彼らは恥をかくことがないよう、自分で自分を監視~「無我」の境地や「死んだつもりになって生きる」ことを理想としている、とする。
ベネディクトが提示した分析の根底にあるのは、文化相対主義的な視点だ。彼女は欧米の文化と日本の文化、即ち「罪の文化」と「恥の文化」には優劣はないという前提から、持論を展開している。ただ、最終章の「降伏後の日本人」では論調がやや変化~「文化は学習可能だ」とし、日本はアメリカ流の民主主義国家に生まれ変わるべきと唱えている。
◇インゴルド(1948~)――「生の流転」
インゴルドが世に知られるようになったのは、20世紀末から。彼は若い頃から「自然」と「社会」を切り分けて考える近代西洋の二元論的な思考法に違和感を抱き、それを乗り越える方法を探ってきた。遂に、人間を「生物社会的存在」だと捉える考えに辿り着く。
人間は常に生物学的で動物的な存在であり、同時に社会的関係の中を生きている存在でもある。そのどちらが欠けても、人間の本来の在り方とは言えない、という主張だ。彼に言わせれば、「生」とは固定された不動のものではない。絶えず動き続けて生成と消滅を繰り返し、変化するものなのだ。「生の流転」に目を向けるのが彼の人類学だ。
彼は、人類学は<あらゆるものが「生きている」様を生け捕りにする>研究=実践だと考える。世界に耳を澄まし、世界について学びながら、未来に向かって生きていくための人類学を切り拓いた。型に捉われぬダイナミックな思索こそが彼流人類学の魅力なのだ。
インゴルドは、父親(著名な菌類学者)から学問上の強い影響を受けた、と振り返っている。彼の父は植物や菌類を実地で観察し、野外調査の重要性を説いていた。そのため、フィールドワークを中心に置く人類学に進むことになった、と彼は語っている。
彼は、人間を明確な境界を持った存在として捉える社会科学者に対し、否を突き付ける。人間には、自分とそれ以外を隔てる境界線などないのだ。全ての人は諸関係のメッシュ(格子を拵える断片)であり、どこまでも続く「線」から成る、と考えるのが人類学だとする。
1990年代になると、インゴルドは「菌類人間」という造語を思いつく。「小さな塊」としての原核細胞と、細くたなびくような線状の鞭毛を併せ持つバクテリアから出発し、彼は独自の人類学を構想するようになったのだ。
ケンブリッジ大学で人類学を専攻したインゴルドは、大学院当時の70~73年にかけての16カ月間、フィンランド北東部でフィールドワークを行った。その成果は76年に博士論文としてまとめられ、同年に『スコルト・ラップ人の現在』として出版される。
トナカイ狩猟・漁労の民サーミは、12世紀以降に異なった言語・文化集団に分化。39~40年のソ連・フィンランド戦争と第二次世界大戦を経て、スコルト・サーミだけがフィンランドに残留し、トナカイ飼育・漁労及び賃労働で暮らしていた。
インゴルドはこうした20代前半のフィールドワークに依って、己がどんな人間なのかを知り、環境への考え方を整理できた、と振り返っている。彼は現地の人々が狩猟したトナカイを飼育し、それを囮に野生動物を誘き寄せて狩る活動に注目している。飼育されたトナカイには所有権が発生し、牧畜への移行が開始。群れはどんどん拡大し、その大群を管理するための仕組みを導入するようになる。彼は生態学を縦横に活用~課題に挑んでいる。
インゴルドによれば、人類学とは、世界の真っ只中に分け入って、人々と「共に」考えること。彼は、大量虐殺に至る衝突、貧富の格差、環境汚染など、世界が臨界点に達している今日ほど、人類学が必要とされる時代はないとし、こう言う。「人類学の目的は、人間の生そのものと会話することだ」。
▽筆者の一言 インゴルドは言った。「人類学者は世界の中で哲学する。彼らが対象として選んだ人々と共に研究する――とりわけ、観察、会話及び参与実践に深く巻き込まれることを通じて」。彼によれば、人類学者は世界に入っていき、人々と共に研究する手法「参与観察」を通じて、世界の中で哲学をするのだ。そうした土台の上に、彼は人類学をこう捉えている。<背景や暮らしや環境などを問わず、世界中に住まう全ての人の知恵と経験を、どのように生きるのかというこの設問に注ぎ込む。これが、私が著書『人類学とは何か』の中で唱える研究分野だ。それを「人類学」と呼ぼう。>
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