小林司(精神科医・作家)の『ザメンホフ』(原書房:刊)
――エスペラント(世界共通語)を創ったユダヤ人医師の物語(下)
◇伸びゆく言葉
度々の試行錯誤により、エスペランティストたちは権威に頼ることの誤り、団結の必要性などを学ぶ。事態打開には、しっかりした組織が要ると判り、「世界エスペラント協会」が1908年に結成される。提唱者は弱冠一九歳のスイス人の青年H・ホドラーだった。
彼はスイスの有名な画家だった父親の遺産をこの協会の活動につぎ込み、立派な仕事を残した。この協会は現在でもオランダのロッテルダムに現存。ユネスコと協力し、毎年各地回り持ちの「世界大会」を主宰し続け、何回もノーベル(平和)賞候補に挙がっている。
1910年、米国ワシントンで開かれた第六回世界エスペラント大会で、ザメンホフはエスペラントの将来について、こう述べている。「(エスぺラント公布という)目的を果たすには、私たち一人一人の働きによるか、あるいは政府の命令によるか。恐らく、私たちの事業は前者の方でしょう」。彼は世俗的な権威に頼ろうとする愚を戒めた。
ザメンホフはエスペラントで書いた膨大な辞書も分厚い文法書も残さなかったが、沢山の文学の翻訳を残した。言葉のしなやかさは、文学作品を通じて初めて伸ばすことができる、と信じていたからだった。彼がエスペラントに訳した文学作品は大作だけでも十一あり、「ユダヤ人問題」を描いたものは二つ。一つはハイネの、もう一つはアレイヘムの作品。
ハインリヒ・ハイネ(1797~1856)は日本ではドイツの「恋愛詩人」としてのみ知られているが、当時は革新思想の持主として有名だった。彼もまたドイツ生まれのユダヤ人であり、そのために死ぬまでずっと差別と偏見に苦しめられた。
ハイネは小説『バハラッハのラビ』に何を描いたのか。ライン河西岸沿いの小村バハラッハに住むユダヤ教のラビ(聖職者)がふとしたことから虐殺の危険が身に迫っていることを察知。妻の手をとり、真夜中に命からがら舟で脱出するという物語だ。
この作品に出て来る「パスコの夜の子殺しの疑い」は小説上の絵空事ではなく、後にロシアのキエフで起きた「ベイリス事件」として現実の出来事となる。無実の罪を着せられて処刑されたユダヤ人ベイリスをめぐり、同胞のレーニンやゴーリキたちが弁護に立ち上がったことは有名な事実だ。ハイネの小説は実は未完の作だったが、ザメンホフは訳した。
ザメンホフは同じユダヤ人であるハイネに親近感を抱き、彼の説く革命精神とユダヤ人解放論に共鳴していた。その革命の具体的方策として国際語と国際的宗教を考えたのはザメンホフ自身である。彼はしばしば、「私がもしユダヤ人でなかったら、世界の民衆を一つにし、世界に平和をなどとは考えなかったでしょう」と述べ、これは私の使命とも言った。ザメンホフはハイネの詩を七作もエスペラントの入門書に載せている。また、ザメンホフが翻訳した文学書の大多数は、ハイネが推薦していた作家による作品だった。
「自分はユダヤ人だ」という事を自覚していたザメンホフは、学生時代にシオニズム運動に熱中した。当時、各地から来たユダヤ人同士が、居住していた国の国語しか話せないために、お互いに意思の疎通が出来ないのを見た。国際語を先ず「ユダヤ人問題」(反ユダヤ人運動)の解決に宛てたいと考えたのは無理もなかった。が、彼は1905年の第一回世界エスペラント大会での見聞により、考えが大きく変わる。
世界各国から来たエスぺランティストが和気藹々と話し合う姿を見て、「人類を一つにまとめることは可能だ」と確信できた。それによって、「ユダヤ人解放から、全人類の開放へ」と、ザメンホフは大きな思想的転換を遂げたのだった。
◇人間を繋ぐもの
エスペラントが少しずつ広まってくるにつれ、それは他の外国語と違い、人々を兄弟のようにしてしまう不思議な力を持っていることが感じられた。ザメンホフは、この力をエスペラントの「内在思想」と名付けた。ジュネーブでの1906年の第二回大会演説には、最も思想的な内容が盛り込まれ、民族差別に対する激しい怒りが込められていた。
翌年、ケンブリッジで行われた第三回大会では「内在思想(民族間の友愛と正義)が含まれている主体はエスペラント普及運動である」として、こう述べている。「エスペラントのために働いている多くの人々を一つの共通の思想が結び付けており、その思想が彼らを励ましている。それは単なる言語としてのエスペラントを超えるものとしての内在思想だ」。
彼の演説をよく読むと、「内在思想」とは彼がエスペラントを作った時の動機であり、これを広めようとする間ずっと抱き続けていた「民族間の兄弟愛と正義」という理想であることが判る。これはポグロムという過酷な体験から滲み出てきた理想に他ならなかった。
ユダヤ人は第二次大戦後にイスラエル国を建てるまで、二千年にも亘って祖国と言うものを持たない流浪の民だった。彼らはユダヤ教とユダヤ文化を守ることによって「ユダヤ」という心の中にしかない国を生き長らえさせてきた。ゲットーに集まって住んだこともこの傾向を強めたに違いない。こうして、他民族もユダヤ人を特別視して眺めてきた。
ユダヤ民族にとってのユダヤ教は、民族の生存をかけた心の糧ゆえ疎かにはできない。だが、特殊なユダヤ教にしがみついていたからこそ、他民族から迫害されるようになったのもまた事実。この迫害と差別とが、ザメンホフを「一つの人類」という夢に向かわせた。
彼は1905年、知己に宛てた手紙の中でこう記している。
――人類が一つになるという思想は私の一生の目標であり、本質でもあります。私がエスペラントに携わらなくてもよくなったら、長い間準備してきた一つの計画(ヒレル主義:律法の内面性を重んじる思想を指す)に着手するつもり。この計画は、人々の心の中に精神的な架け橋を造ること。それによって、全ての民族は例え宗教が異なっていても兄弟のように仲良く一つにまとまることができます。それを具体化したのがヒレル主義なのです。
同じ頃、別の知人宛てにこう書いている。「ヒレル主義の目的は、中立の人間的な大衆を創り出すこと。私は人類を一つにするという思想のための闘争者であり、不幸なヘブライ人を熱愛する者でした。これまでのエスペラントに関する全ての仕事は、私の生涯を捧げ尽くしたヒレル主義という考えの一部にしか過ぎません」。その手紙を記した直後の十月半ば、ロシアで大ポグロムが起きており、十日間で数万人のユダヤ人が死傷したと言われている。ザメンホフの命も風前の灯だった。
「エスペラントによる人類改革には限界があり、人類を本当に一つにするには、宗教改革がどうしても必要なのだ」と、彼は確信していた。初めはユダヤ民族だけを救うことに夢中だった視線が、人類全体を救うことに広がった。現代のパレスチナやボスニア、アイルランド、チェチェンなどの紛争を眺めると、彼がそう考えたことも理解できる。
1909年、ザメンホフは『雨』という詩を書いた。雨は差別や戦争に泣く群衆の涙の象徴ででもあろうか。それが当たっているとすれば、苦しんでいる大衆の中から湧き上がってくる革命の声を早くも、ザメンホフは聞き取っていたようだ。
1914年、第一次世界大戦が始まった後、ザメンホフはロンドンのエスペラント雑誌に秘かに原稿を送付~掲載してもらう。彼は当時は未だ異様に映った「ヨーロッパ連合」の案をこう奨めていた。「同じ民族内で各家族が憎み合うことが不自然なのと同じく、人類の各民族間の憎しみは不自然なこと。恒久平和をかちとるためには『一民族が他民族を支配する』を、無くしてしまわねばならぬ」。この呼びかけを当時の人々は嘲笑ったが、今日では欧州共同体(EU)ができ、国際連合が活動する事態が現実になっている。
世界大戦が始まると、三十年にわたってコツコツ積み上げて来たエスペラント運動は一瞬にして崩壊してしまった。病気がちのザメンホフが大戦中の三年を何とか生き続けることができたのは、賢妻クララのお陰だった。1916年4月14日夕、主治医の往診後に急で安らかな臨終を迎えている。享年57歳。文学者ロマン・ロランは追悼の辞をこう述べた。
――ザメンホフが偉かったのは、エスペラント故ではない。彼は新しく力強い社会の要求をはっきりと示したのだ。時代が人類を揺さぶっている深い熱望を彼は読み取ったのだ。
▽筆者の一言 ザメンホフに触れ、長らく忘れていた或る記憶が蘇った。六十年近くも昔の1960年代半ばの、私が朝日新聞記者だった当時の出来事だ。父親ほど年長の知人男性がエスペラントの文通相手に招待され、遠い北欧の地(確かフィンランドだったか?)へ旅立つ、という。日本経済は高度成長に入ったばかりで、海外渡航など未だままならない頃の話だ。件の男性は世渡りが余り上手でない書斎派タイプ。思いもかけぬシンデレラ・ストーリーに、相好を崩していた表情が忘れられない。記憶はそこまでで、あいにく後日談の方はプッツン。私もこの連載を終えたら、エスペラント習得にもっぱら励み、ロシアなりイスラエルの若い人とでも文通してみようかな・・・。
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