世界のノンフィクション秀作を読む(7)福沢諭吉の『福翁自伝』――「門閥制度は親の仇」と喝破した当人による自叙伝

 本書は幕末維新~明治の洋学者・教育者、福沢諭吉晩年の口語文体による自叙伝だ。1898(明治31)年7月1日から翌99(明治32)年2月16日にかけて計67回、当時の『時事新報』に掲載された。「門閥制度は親の仇でござる」と喝破した福沢自身の人柄が判るだけでなく、幕末から維新にかけての動乱期に、近代思想の先駆者として日本を大きく導いた当事者による論述は、日本近代史の重要な文献でもある。その要旨を私なりに紹介してみたい。

 ◇私が江戸へ出て蘭学塾を開き、一人前の働きをするようになったのは安政五年(1858)二十五歳の時ですが、話の順序としてそれまでの生い立ちを申しましょう。私は豊前の国(今の大分県)中津藩奥平家の家臣福沢百助の次男で、父は十三石二人扶持、中小姓という至って身分の低い武士だった。(中津は)万事窮屈であったばかりでなく、何につけ身分の上下による差別がついて回るから、私は中津の生活が嫌で嫌でたまらなかった。

 良い案配に兄の勧めで長崎へ蘭学修業に行く機会をつかみました。その頃はアメリカからペリーが浦賀へやって来たということで、国中にわかに海防の議論が盛んになり、西洋流の砲術を研究するにはオランダの原書を読まねばならぬというわけで、兄は私に蘭学修業をすすめた次第です。私としては蘭学であろうが剣術であろうがかまわない。この窮屈なコセコセした中津を出られさえすればいいという気持ちで、大喜びで出かけて行きました。安政元年(1854)二月、数え年で二十一歳のことでした。長崎では蘭学修業をめぐり、藩の家老の息子・奥平壱岐と軋轢が生じ、長崎を出てしまいました。

 最初は江戸へ行こうと思ったのですが、大阪の蔵屋敷に勤番している兄のところへ立ち寄ったらば、兄に勧められて大阪の緒方洪庵先生の塾に入門することに。緒方先生は当時蘭学界の第一人者と呼ばれ、私は初めて正式に蘭学の教授を受け、安政二年から五年まで足かけ四年在塾、やがて私は塾長に。緒方塾の蘭学書生は、日本じゅう自分たちより知力の活発で思想の高尚な者はないと自負。江戸に居た書生が時々大阪へ学びに来る者はあったが、大阪からわざわざ江戸へ学びに行く者はない、行けば即ち教えに行くという有様でした。

 ◇大阪を去って江戸に行く 私が大阪から江戸に来たのは安政五年(1858)、二十五歳の時である。(蘭書の一節、光線と視力との関係をめぐる論述を引き)この一事で私もひそかに安心して、まずこれならば江戸の学者もさまで恐れることはないと思うたことがある。

 ◇英学発心 翌安政六年、五国条約というものが発布。横浜は正しく開けたばかり。行ってみたところが、ちょいとも言葉が通じない。店の看板も読めなければ、瓶の張り紙もわからぬ。英語だか仏語だか一向にわからない。横浜から帰って、実に落胆してしまった。今まで数年、死に物狂いにオランダの書を読むことを勉強したが何にもならない。あすこに行われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に違いない。今、世界に英語の普通に行われていることは、かねてから知っている。さすれば、この後は英語が必要になるに違いない。

 ◇蕃書調所に入門 横浜に行った時、薄い蘭英会話書を二冊買ってきた。九段下に蕃書調所という幕府の洋学校があり、いろいろの辞書があると聞き出した。私は調所に行き、入門を願うた。当時は箕作阮甫(箕作麟祥の祖父)という人が頭取で、早速入門を許してくれたが、辞書の貸し出しはならぬ、と係の者が言う。さらば、と横浜に出入りする商人に照会。
 ホルトロップという英蘭対訳発音付きの辞書一部二冊物(価五両)を紹介される。私は藩主・奥平家に嘆願して買い取ってもらった。これで良し、後は自力研究のみと発願。その字引きと首っ引きで、毎日毎夜独り勉強にはげみ、英文の書を蘭語に翻訳するなど心がけました。
 
 ◇英学の友を求む 自分の一身はそう決めたところで、これは朋友がなくてはならぬ。が、学友の神田孝平は「自分でやろうとは思わぬ」、村田蔵六(後の大村益次郎)は「無益だ。蘭語の訳書を読めば足りる」と素気ない。しかたなく、原田敬策に話すと、ごく熱心で「誰がどう言うてもかまわん。ぜひやろう」と言う。いよいよ英語を読むという時、長崎から来ている子供がある。英語を知っているというので、発音を習うたり、あるいは漂流人で折節帰る者がある。その宿屋にたずねて行って、聞いたこともある。英文の語音を正しくするのに初めは苦しんだが、これも次第に緒が開けてくればさほどの難渋でもなかった。

 ◇初めてアメリカに渡る 江戸に来た翌年の安政六年(1859)冬、徳川政府からアメリカに軍艦をやるという、日本開闢以来未曾有のことを決断しました。軍艦は至極小さく、蒸気は百馬力。航海中はただ風をたよりに運転せねばならぬ。オランダから買い入れ、価は二万五千両、船の名を咸臨丸という。蘭人に航海術を伝習し、技術もようやく進歩したからと幕議一決した次第。艦長は時の軍艦奉行、木村摂津守で、随従する指揮官は勝麟太郎、乗組員が総勢九十六人。幕府の蘭家の侍医、桂川家と私は昵懇にしており、その桂川の家と木村摂津守はごく近い親類だ。桂川の紹介で摂津守に面会し、随従したい旨を懇願。即刻許され、お供が決まった。外国航海など恐ろしい命がけのこと、妙なやつで幸いという位だったのか。

 ◇日本国人の大胆 日本の人が初めて蒸気船を見たのはペリー来航の嘉永六年で、足掛け七年前のこと。航海術を学び始めたのが同五年前の安政二年のことだ。そんな短期間に思い切った決断をした勇気といい、その技量といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るべき事実だろうと思う。東洋全体を見渡しても、航海術を五年学んで太平海を乗り越そうというその事業その勇気のあるものは決してありはしない。

 ◇米国人の歓迎祝砲 海上つつがなくサンフランシスコに着いた。着くやいなや土地の主だったる人々は祝意を表し、陸上の見物人は黒山のごとし。上陸するや、馬車で迎えにきて、市中のホテルに案内。さまざまの接待供応。ホテルには絨毯が敷き詰めてある。恐ろしい広い処に敷き詰めてあり、その上を靴で歩くとは、さてさて途方もないことだと実に驚いた。

 ◇磊落書生も花嫁のごとし 日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし恐い者なしと威張っていた磊落書生も、はじめてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは自分でもおかしかった。社会上の習慣風俗は少しもわからない。オランダの医者が艦長の木村さんを招待し、なかなかのごちそうが出る。おかみさんが出てきて、不審なことに座敷に座り込む。しきりに客のとりもちをし、ご亭主が周旋奔走している。これはおかしい。まるで日本とあべこべのことをしている。ごちそうにブタの仔の丸煮が出た。これにも肝をつぶした。

 ◇事物の説明に隔靴掻痒の嘆あり 諸方の製作所などを見せてくれた。当時はサンフランシスコ地方にマダ鉄道はできない時代。工業はさまざまの製作所があって、ソレを見せてくれた。電気利用の電灯はないが、電信はある。ガルヴァニの鍍金法というものも実際に行われていた。これはテレグラフだとか、砂糖の製造はこうやるとか、懇々と説くが、こっちはちゃんと知っている。ただ驚いたのは、鉄の多いこと。石油の箱みたいような物や、いろいろな缶詰の空き殻などがたくさん捨ててある。物価の高いのにも驚いた。牡蠣を一瓶買うと半弗、二十粒か三十粒ぐらいしかない。日本では二十四文か三十二文のが一分二朱もする勘定で、おそろしい物の高いところだ。社会上政治上経済上のことは一向わからなかった。

 ◇初めて日本に英辞書入る 私と通弁の中浜万次郎という人の両人がウエブストルの字引きを一冊ずつ買ってきた。これが日本にウエブストルの字引き輸入の第一番。それを買ってモウ他には何も残ることなく、首尾よく出帆してきた。

 ◇不在中、桜田の変 帰る時は南の方を通ったと思う。海上は至極穏やかで、五月五日に浦賀に着した。木村の家来の用人が出迎え、桜田騒動(三月三日、薩摩浪士らが大老・井伊直弼を桜田門外で暗殺)の一件を話す。私は騒動勃発を予期していたから、そう驚かなかった。

 ◇幕府に雇わる 渡航を機に英語ばかりを研究し、幕府の外国方(今で言う外務省)に雇われた。外国の公使領事から政府閣老や外国奉行へ差し出す書簡を翻訳するためだ。幕府に横文字読む者とて一人もなく、陪臣(大名の家来)の我々を雇うて用を弁じた次第。中々英文研究のためになりました。

 ◇ヨーロッパ各国に行く 文久元年(1861)冬、ヨーロッパ諸国に使節派遣(開港開市の談判のため)があり、私は正使の竹内下野守に随従して行けることに。今度は幕府に雇われている身で、金も四百両ばかりもらったかと思う。旅中は一切官費で、真に世話無し。イギリスから迎船さながらに来た軍艦オージンでインド洋、紅海を経て地中海へ。フランスのマルセールとリオンを経てパリに着き、滞在およそ二十日。使節のことを終わり、イギリス、オランダ、プロス(プロシャ)の都ベルリン、ロシアの都ペートスボルグ(ぺテルスブルグ)と回って帰国。その間およそ一か年。ロンドン逗留中、ただ英書ばかりを買ってきた。これがそもそも輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったのも、これが最初のこと。

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