前回に、抜き書きを次の三点、すなわち
・軍部独裁への道
・芦田の戦争総括
・日本降伏時の首脳発言
に関して書くと言ったが、順序を変えて「日本降伏時の首脳発言」を紹介する。
《連合国も多様な顔をもつ》
ポツダム会談は、1945年7月17日から8月2日まで、ベルリン近郊のポツダムで、トルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連共産党書記長らの連合国首脳が参加して行われた。7月26日の「ポツダム宣言」(対日共同宣言)は、米・英両首脳・中華民国政府主席蒋介石の3名によって発せられた。ソ連が8月8日に参戦し、日本政府による8月10日の事実上の受諾回答は、ソ連を含む4カ国に対して行われた。以下は4国首脳による日本敗北直後の発言である(抜粋)。
■アメリカ大統領トルーマン(降伏調印式直後に「対日勝利の日」を宣言し、演説)
東京への道は遠くかつ血なまぐさいものであつた。われわれは決して真珠湾を忘れず、日本の軍国主義者たちはミズーリを忘れないであろう。日本の軍閥によって犯された罪悪は、決して償われもせず、忘れられないだろう。日本軍閥の破壊し殺戮する能力は彼らから奪い去られた。しかしわれわれは未だわれわれの前途に横たわっている困難な任務を忘れず、また過去四年の試練をくぐり抜けて来たと同じ勇気、忍耐、熱意をもってこれらの任務に当るであろう。今次の勝利は武器による勝利以上のものであり、圧政に対する自由の勝利である。われわれの武装兵力を戦争において不屈たらしめたものは自由の精神である。われわれはいまや自由の精神、個人の自由および人間の威厳が、全世界の中で最も強力であり、最も耐久力のある力であることを知った。この勝利の日にわれわれは吾人の生活方法に対する信念と誇りとを新たにしたい。(本書下巻、475~476頁,「連合国首脳の声明」)
■イギリス首相アトリーは1945年8月15日の深夜、要旨左の如き「日本の無条件降伏および終戦ほ英国民に告ぐ」の放送を行った。(7月26日の総選挙でチャーチルの保守党を破りアトリー党首の労働党が勝利した)
本日、日本は降伏した。最後の敵は遂に屈服したのである。/形勢は、当初は徐々に、やがては激しい勢をもって一変していった。アメリカ、イギリス連邦および連合国、最後にはソ連の有力な兵力が動員され、敵の抵抗は、遂にいたるところで打ち破らたのである。この際、イギリス本国、自治領、インドおよび植民地から、陸、海空軍に従軍し、日本に対する激烈な戦闘に加わって奮戦した兵員各位に深く敬意を捧ぐるとともに、また連合軍とくにアメリカに対して厚く感謝の意を表する。アメリカの偉大な努力がなかったならば、極東方面の戦闘は、さらに数年を要したことであろう。われわれはまたとくに日本軍の手中にある捕虜、オーストラリア、ニュージーランド、インド、ビルマおよびその他植民地において、日本の攻撃を蒙った友人たちの身上を思うが、やがてはそれらの人々の苦痛も、日本侵入軍が各地から一掃される日に、終止符をうたれるであろうことを喜ぶものである。(下巻、479~480頁、同上)
《半植民地中国と未熟な社会主義国家》
■ソ連議長スターリン(9月2日の日本降伏文書調印にあたり演説)
日本は日露戦争によって一九〇四年にすでにわが国への侵略を開始した。二月に日露両国間の交渉が進捗している間に、日本は当時のロシア帝政の弱点を利用して宣戦布告を行うことなく突如、しかも背後からロシアを攻撃、旅順にあったロシア艦隊を奇襲、ロシアを敗北せしめた。日本はこの敗戦を利用して、南樺太をロシアから掠奪し、千島列島の支配力を強化した。これにとどまらず一九一八年ソヴィエト連邦が誕生するや、当時ソ連に対して敵性態度をとっていたのを利用して再びわが国を攻撃し、極東ロシアを占拠、四年間にわたりわが国民を塗炭の苦しみに陥れ、同方面地域を掠奪した。これだけではない。
一九三八年日本はウラジオストックを包囲せんとする企図の下に、ハーサン湖方面を攻撃し、翌年にはソ連領土に侵入を企て、シベリア縦貫鉄道を遮断し、ソ連を極東から分離せんとした。ロシア軍隊の敗北はわれわれ国民の心理に重大な烙印を捺した。これはわが国歴史の汚点である。わが国民は、日本が敗北して、この汚点が払拭される日を確信かつ待望していたが、いまや、この日は到来した。かくて南樺太と千島列島とはソ連に移譲されることとなった。今日以後これらの地域は、ソ連を海洋から孤立せしめる地点とはならず、また極東のソ連に、日本が攻撃を加える基地ともならないであろう。そしてこれらは今後、日本の侵略に対するわが国の防衛基地として、またわが国の海洋への接近の基地となるであろう。(下巻、476~477頁、同上)
■国府主席兼軍事委員長蒋介石(8月15日、日本のポツダム宣言受諾直後、全中国国民に対して行った放送演説)
われわれ中国の同胞は「旧悪を念わず、人に善をなす」ということが、わが民族伝統の至高志貴の徳性であることを知らなければならない。
われわれが一貫して叫んできたことは、ただ日本の好戦的軍閥を敵とし、日本の人民を敵とは認めなかったことである。今日、敵軍はわれわれ盟邦の協力により打倒された。われわれは当然彼が一切の降伏条件を忠実に履行するよう厳重にこれを求めるものである。しかし、われわれは決して報復を企図するものではない。また敵国の無辜(むこ)の人民に対しては、なおさらに汚辱を加えんとするものではない。もしも、暴行をもって従前の暴行に報い、汚辱をもって従前の誤れる優越感に答えるならば、冤(うらみ)と冤と相報い、永(いにし)えにとどまるところはない。これは決してわれわれの仁義の師(いくさ)の目的ではないのである。(下巻、478~479頁、同上)
読者は、上掲の1945年夏の四人の勝利宣言どう読むであろうか。
トルーマンの興奮に満ちた「反撃成功」の言葉と、取って付けたような「圧政に対する自由の勝利」という言葉の落差に、私は、戦争の残酷なリアリズムを感ずる。
アトリーが、戦争に協力してくれた植民地に丁寧な謝辞と労いを述べている。ここに先進帝国主義国の狡知を感ずる。比べて「終戦の詔勅」で、大日本帝国天皇は「朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ評セサルヲ得ス」とだけ述べた。随分と薄情かつ狭量である。これでは東亜解放はできない。
スターリンの言葉からは、ソ連指導者が、対日戦争を「日本帝国主義の侵略戦争」として認識していたことを痛感する。70余年後に、27回の日ソ首脳会談で自己満足する安倍晋三外交が、「児戯に類する」失敗に見えてくる。
蒋介石が8月15日に行った演説には、中国人の哲学を感じる。最大の犠牲を払った中国人が、なぜこういう言葉を発することができるのであろうか。
芦田均は四人の勝利の弁を紹介したのち浩瀚な本書を次の言葉で結んだ。
■かくして第二次世界大戦の幕は閉じた。この大戦に飛び込むことによって、日本人は、永年積み重ねて来た政治、経済の信用を破壊し国を亡ぼすことになった。原因はいうまでもなく国の政治外交を渡すべからざる人の手に引き渡し、その国政と外交を誤った方向に導き、しかも軍閥の執権後に登用した外交家は極めて僅少の例外を除きその素質頗る粗悪であった。これが歴史のわれわれに教うるところである。
日本人が世界の諸国民と伍して今後民族にふさわしい生活を享受しようと欲するならば、われわれは再三再四この点を反省しなければならないと思う。(下巻、481頁、「第四九章 城下の誓」)(2019/09/05) (つづく)
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