中国共産党サイコーΣ(・□・;)~理性=真理の政治

24日、香港の中国批判派新聞「りんご日報」(蘋果日報)が香港国家安全維持法(国安法)違反の廉で幹主要幹部が検挙、資金も凍結されたことで廃刊に追い込まれた。香港の言論の自由はこれで死に絶え、「一国二制度」の根幹は完全に破壊された。これに対して台湾、欧米諸国、そうして日本も含めたいわゆる民主主義陣営から次々と非難の声が上がっている。しかし行政トップの林鄭 月娥行政長官は、これにいささかも怯むことなく、「全く言論の自由を侵害するものではない」とし、国安法に違反したことで検挙、資金凍結が行われたにすぎないと、警察当局の一連の行動を擁護した。ここまでは誰でも報道などで把握している事態の一般的外観に過ぎない。一体に中国憲法では「言論の自由」は保証されているのだから、一報道機関が政府に対して批判的な論陣を張ろうと、そのことで取り締まられることはなさそうだが、それは我々のように、長く資本主義のもとにあり、そこでの言論・思想・表現・信教の自由という「民主主義の根幹」をなす政治システムに慣れきってしまっている、言ってみれば「ブルジョア思想」にまみれた世界観の地平から奇異に感ずるだけで、中国共産党というマルクス・レーニン主義政党=理性の政治からすれば、当然の処置でしかない。日本にいると、マルクス・レーニン主義などというと、カビの生えたような思想でしかないが、そのような評価は1960年代以降の新左翼の潮流による既成社会主義体制への峻烈な批判とそれと相携えて進められた、初期マルクスの発掘を出発点とする真のマルクス像の追求などが背景となっているからであるが、筋金入りの前衛党党員からすれば、そもそもブルジョア的な自由や民主主義などというのは、マルクス・レーニン主義という人類の達した最高の知のレベル=絶対真理からみれば、歴史や社会の物質的根底とその運動を正しく認識しえないがゆえの、不可知論、相対主義、ニヒリズムの所産でしかない。自由とは物質的必然性の客観的認識以外のものではありえない。新左翼などというのは、ブントのごときブランキスト一揆主義、プチブル急進主義、左翼小児病、極左冒険主義以外の何もでもなく、その哲学的幻惑が現象学への屈服とマッハ主義的修正なのだ。日本共産党が六全協でそれまでの毛沢東路線を、「俺の青春を返せ」などといったプチブル的な泣き言とともに「清算」した時をもって、日本から前衛党は消滅した。となるわけだ。

ここで想起すべきは、「理性の狡智」というヘーゲルの言葉だ(『小倫理学』)。マルクスはこの言葉を資本論労働過程論で引用している。
「理性は強力であると同時に狡智である。その狡智がどういう点にあるかといえば、それは、自分は過程にはいりこまないで、もろもろの客体をそれらの本性にしたがって相互に作用させ働き疲れさせて、しかもただ自分の目的だけを実現するという、媒介的活動にある。」と。
鄧小平同志はこの理性の狡知を唯物論的に転倒したうえで、勇猛果敢にも、資本主義の諸制度を大胆に導入し、あまつさえ外資の取り込みにまで踏み込むことによって、中国社会を世界に冠たる大国に育て上げたのだ(価値法則の意識的適用)。しかし、その過程では「天安門事件」などといった、鄧小平同志の意図を取り違え民主化などと妄想に憑りつかれた連中には、まさしく強力として正しく振舞った。いまもまた香港で「一国二制度」をはき違えて、民主化を叫び中国共産党と中国政府に対して反抗的言辞を弄する連中、そうしてイスラム教の偏頗な教えに憑りつかれた中国に刃を向けるテロリストの温床となった新彊ウイグル自治区のウイグル民族、これらは徹底的にまさしく強力をもって制圧されなければならない。「ジェノサイド」などといった下卑た形容は全く当たらない、人類の歴史的進歩に対する反動への崇高なる対抗措置なのである。と習近平同志は強力の権化と化して奮闘されているのだ。党主席の永久化はそれを補強する法整備の一環なのだ。

理性による政治とは実にこのようなものなのだ。これをパロディと取って、「そんなわけがない、フェイクだ」などと言ってのけるのは、「気恥ずかし気な唯物論者」の口なのだが、中国共産党からすればはた迷惑そのものでしかない。逆にこれを未曽有の恐怖と感じ敵対するのか、はたまた理性=暗黒面の力は素晴らしいと身も心も捧げるのか、いまや選択肢は二つに一つしかないのだ。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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