中山元訳『資本論』を読む  ―価値対象性(Wertgegenständlichkeit)とは如何なる事態か―

著者: 内田弘 うちだひろし : 専修大学名誉教授
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 翻訳家・中山元による『資本論』第1部の前半の翻訳が2分冊で刊行された。

 『資本論-経済学批判』第1巻(I・II)(日経BP社、2011年12月5日、2012年2月27日)がそれである(付記:最近、その第3分冊[Ⅲ]が刊行された)。

 以下では、中山が第I分冊の「訳者あとがき」で提起している「二つの訳語問題」に絞って考察する。すなわち、Wertgegenständlichkeit とMehrwert を如何なる日本語に訳すべきかという問題である。中山の翻訳者として知的誠実を示す問題提起である。『資本論』研究者の1人として、不十分ながら応えたい。用語の知名度の順序を考慮して、まずMehrwertについて考え、ついでWertgegenständlichkeitに移る。

[1] 中山元はMehrwertを剰余価値でなく増殖価値と訳す

 中山は、『資本論』の基軸概念Mehrwert の訳語として、今日までの『資本論』翻訳史で定着した「剰余価値」ではなくて、「増殖価値」という新しい訳語を提案し、この中山訳『資本論』でその訳語をあてている。その理由をつぎのように書いている。

「MehrwertのMehrは、たんなる剰余ではなく、増えた部分という意味だからである。これにならって増殖価値を作りだすMehrarbeitは《剰余労働》ではなく《増殖労働》と訳し、増殖価値が含まれたMehrproduktは《剰余生産物》ではなく《増殖生産物》と訳している」(第I分冊「訳者あとがき」449頁。傍点強調は引用者)。

 かつて平田清明も「日常語としてのplus-value」という問題関心から、Mehrwertに「増加価値」という訳語を提示したことがある(『社会形成の概念と経験』岩波書店、1980年)。マルクスは西ヨーロッパのひとびとのその日常語を根底でささえている「実体」を賃金労働者の必要労働時間を超える労働(Mehrarbeit)に分析して、その日常用語を学術語に深めた、と指摘した。西欧では市民社会が日常用語であるように、plus-valueも日常用語である。消費税はイギリスではVAT(value-added tax)、付加価値税という。日本には「surplus-value」や「plus-value」に相当する日常語が存在しない。

 かつての日本や今日の中国では、「市民社会」は輸入学術用語である。中国では「市民社会」については、すこし前までの日本のように「市民社会=ブルジョア社会=資本主義社会」という等式がなりたっている。日本でも未だにその等式を正しいと思っている者がいる。

日本ではいまでも日常生活で「剰余価値」とはいえない。そういうのは「野暮」なのある。そういうと、ふと怪訝な眼差しが周囲から浮かぶ。「左翼か」、とか「知ったぶりして」という反応である。あるいは「きみ、あいかわらず若いね」という苦笑が起こる。起こるだろうと先取りして、その言葉は使わない。何かが日常生活と学問を切り裂いている。それは何か。麿呂的なものではないか。

学術語は「・・・ということに《勉強の時間では》なっています」。授業が終われば、また日常語の世界にもどる。そのような背景を思いつつ、中山元の「増殖価値」という新訳語の提案を検討する。

 中山はもっぱら『資本論』第1部「第4章 貨幣の資本への転化」以後という、剰余価値論の次元であると一般的に考えられている次元で、Mehrwertの訳語を考えている。

 『資本論』貨幣論でマルクスはつぎのように指摘する。

「商品の流通が始まったばかりの段階では、使用価値の余剰分(Überschluß)だけが貨幣に変えられる。こうして、金と銀はおのずから、有り余る物(Überfluss)、または富の社会的な表現となる。・・・商品の生産がさらに発展していくと、すべての商品生産者も《先立つ(ネルウス・)もの(レルム)》を《社会的な担保》を確保しておかなければならなくなる。・・・商品生産者は、販売せずに購入するためには、その前に購入しないで[貨幣をためて]おく必要がある」(Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag, 1962, S.144: 中山訳と同じ底本)。

 中山は従来の訳の曖昧さを是正して《先立つ(ネルウス・)もの(レルム)》・《社会的な担保》を正確に訳している。ただ、Überflussを「豊かさ」と訳しているのは、つぎの語「富」への関係を考慮した訳と思われるが、それ(有り余る物)が「余剰分」の言い換えである関連が分かりにくい。

この余剰分はただの余りにとどまるのだろうか。つぎにみるように、労働の生産物がいったん商品交換にだされ貨幣に転化すると、その貨幣でもって売りに出された商品なら何でも買える。この購買可能性は自己目的に転化して、労働は勤労に転化する。勤労でより多くの貨幣を蓄積しようとする。こうして余剰生産物は中山のいう「増殖生産物」に転化する。「余剰労働」は「増殖労働」と断絶しきってはいない。両者の連続面をみるとき、余剰分(Überschluß)は増殖生産物(Mehrprodukt) に、余剰分を生産した労働は「増殖労働(Mehrarbeit)に移行する。従来の訳「剰余生産物」は両方の意味を含意してきたと思われる。

マルクスは、商品生産の始まりが「使用価値の余剰分だけ」が商品に転化し販売され貨幣で蓄蔵されインドでは蓄蔵貨幣が永遠している、という。しかし、余剰分のみの商品への転化が発展して必要生産物にまで浸透すると、売れる前に買わなければならない場合があるから、それにそなえて、買うことを控え貨幣を節約=蓄蔵する必要に迫られる。こうして商品生産者に蓄蔵(退蔵)貨幣への衝動が内面化する。

「貨幣をためこみたいという欲望はその本性からして限度のない(maßlos)。・・・貨幣にはこのような質的には制限がなく、量的に制限されているという矛盾があるために、貨幣の退蔵(蓄蔵)者はたえず蓄積するというシシュフォスの労働へと追い立てられる」(ibid., S.147. 中山訳第1分冊275頁)。

 上の引用文の中山訳はすぐれている。ただ「限度のない」はヘーゲル『論理学』存在論末尾との関係があり、中山訳の「かぎりのないもの」というこなれた訳よりも「限度のないもの」というヘーゲル学に定着した訳語にしたい。すぐのちにみるように、流通部面から引き上げられた貨幣はその限りでは退蔵貨幣であるが、その貨幣は「増殖労働」の蓄積形態であるし、結局、「増殖労働」の「根拠(Grund)」である生産に還帰して、生産と流通で増殖活動=資本蓄積を持続する。したがって、退蔵は蓄積可能態である。「退蔵貨幣」ではそのネガティヴな側面だけが表現されて、蓄積可能態が表現されないのではなかろうか。

商品生産者の「シシュフォスの労働」を強調したのがマルクスの草稿『経済学批判要綱』(1857-58年)の「貨幣に関する章」(ノートⅡの2頁)である。注目すべきことに、マルクスはそこで、独立商品生産者が貨幣蓄蔵のために行う労働を「賃労働(Lohnarbeit)」を規定している。マルクスは、この独立商品生産者に、貨幣を勤労への報酬(Lohn)として追求する「賃労働者」と、彼により多くの価値を生産させることを目的とする人格[=資本家]とへの分離可能性を見たのである。なるほどマルクスはそこで「賃労働」という用語は用いているが、「資本家」という用語は用いていない。しかし、その流通過程から引き上げられた蓄蔵貨幣は現実性を失い、単なる自然物質・金銀となる「自己を解体する矛盾」に陥る。結局、価値の本源地である生産という「根拠に還帰する」。還帰した貨幣の所有者は「可能的資本家」である。『要綱』「貨幣章」の「賃労働」を強いる貨幣は資本に転化する可能性をはらむ貨幣である。独立商品生産者に「賃労働」を強制する貨幣は貨幣資本の可能的形態であり、独立商品生産者という人格は「可能的賃労働者」と「可能的資本家」に分離しはじめているのである。蓄蔵貨幣は直接生産者を「内包的賃労働者」に転化する可能的貨幣資本であり、その所有者に「賃労働」を強いる可能的資本家である。

 『資本論』は、『要綱』のように、蓄蔵(退蔵)貨幣は潜在的貨幣資本であるという規定を明確に指摘していない。なぜだろうか。これは、商品は承認するが貨幣と資本は承認しないというプルードン主義者を共通の土俵=商品論に招き寄せ、商品は貨幣に転化し、貨幣は資本に転化する論証に隙を見せまいとする、マルクスの論証上の配慮のためであると思われる。貨幣を論じている次元で賃労働=資本関係の潜在形態を指摘すると、プルードン主義者から《それは論点先取である》という批判を受けるだろう。その潜在形態を指摘することは理論的に正しいが、論戦上では得策ではない。したがって、あたかも積み木を重ねるような論証、段差のある階段を登るような論証が妥当である、と判断したと思われる。『資本論』は或る論点から次の論点への移行の論理が『要綱』のように論理的に連続的でないのは、そのためであろう。『要綱』はマルクス自身を唯一の読者とする草稿である。

[2] 価値形態・万物商品化・労働と所有の分離」・労働力商品

では、マルクスが隠したこの価値増殖の衝動は、論理的にみて、いったいどこまで遡及できるであろうか。端的にいって、その論理的本源地は価値形態の第二形態である。第二形態は、

《商品の価値という抽象的個別性は、自己を表現する無限に多くの他の商品の使用価値の系列を要求する》

からである。価値形態の第二形態は、相対的価値形態の価値を表現する異なる使用価値の等価形態の無限系列である。或る商品の価値は個別的現実存在としては一定量であるが、可能的には無限に増殖しようとする衝動をもつ。それは「有限・内・無限」である。その意味で価値は「抽象的個別性」である。詳論は別稿(内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』第111号、2012年3月)にゆずるが、マルクスは価値概念をエピクロスの原子に重ねている。ここで同じ中山元氏が《マルクス・コレクション》で訳しているマルクスの学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(=「差異論文」)と関連する。端的にいって、『資本論』冒頭商品は「差異論文」の原子と論理的に同型である。商品が「集合、かつ要素」であるように、原子も「集合、かつ要素」である。両者とも「体系を構成する原理」である(内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』2012年3月、通巻第111号を参照)。

 価値は「抽象的」であるからこそ、具体的形態で自己表現を求める。しかし具体的形態では永遠に表現し切れない矛盾を内包する。その表現衝動はより多くの商品種類を要求し実現するから、価値の「個別性」は当該の個別的な量的制限を増大する表現媒態で実現する。商品世界の質と量の両面で拡張する。こうして、この価値表現の制限を打破しようとする要求が「過剰分だけ」に留まっていた商品への転化を、労働力を再生産するための物質的ファンドである「社会的必要生産物全体」まで拡大するとき、労働力も商品に転化し、本格的な賃労働=資本関係が成立する。「労働の生産物の商品化」と「労働力の商品化」は相互に関係し加速しあう。

この相互関係の成立過程を「労働と所有の分離」からみるのが、『経済学批判要綱』の「貨幣章」の末尾である。「労働と所有の分離」とは、売買関係で「分離」された労働が売買関係で「結合」する社会的分業をという。それは必然的に賃労働=資本関係をもたらす。

資本主義的商品の生産と流通は、最初は労働の結果である「生産物の売買関係」から始まる。ある者の「労働」の生産物は売られて、それを自己労働で直接に生産していない他人の「所有」になる。この「労働と所有の分離」は、直接生産者から分離される労働生産物が「労働力の再生産手段(必要生産物)」も含むようになるとき、

①自己労働の生産物を他人に譲渡しその代金で他人労働の生産物(労働力の再生産手段が自家生産物では不足する部分を補充する生産物)を獲得する場合がある。この場合は「自己労働の生産物」でもって「他人労働の生産物(不足する労働力再生産財)」を獲得する場合である。

②もう一つの「労働と所有の分離」は、自己労働の生産物ではなくて、自己の労働力そのものを他人に譲渡し、その対価で他人の所有物である商品として売りに出されている「自己の労働力を再生産する手段(賃金財)」を獲得する場合である。その場合、労働力を時間決めで他人に譲渡したのだから、労働者がおこなう労働は「他人の所有としての労働」である。この場合は、「自己の労働力」でもって「他人所有の生産物(すべて賃金財)」を獲得する場合である。それに照応して労働力も商品に転化する。

「労働と所有の分離」は①「自己の労働の生産物」から②「自己の労働力そのもの」へとすすむ。しかも、「賃労働者が生産したのに他人(資本家)が所有する生産物」は賃労働者を生活手段の形態で「労働力の再生産過程」=個人的生活過程を支配し、生産手段の形態で「資本の生産過程」で労働力を支配する。支配は二重である。その意味で、「労働生産物の商品化」=「労働生産物(生活手段および生産手段)の他人所有への転化」は「労働力の商品化」を準備する形態である。蓄蔵貨幣が直接生産者を「価値増殖の内包的勤労者」に転化するのに対して、労働力商品は「価値増殖の外延的実現の要因」である。

「他人のために行う労働」には、①労働生産物という労働に媒介された結果のかたちで行う場合と、②生産そのものを労働で行うという直接的な(無媒介の)形態がある。①が徹底すると②に移行する。①最初は他人のために行う労働は手段であって、目的は当面は他人が労働で生産した生産物を獲得することである。②しかし、「買うための売り」は中断されて貨幣獲得が目的となる。その目的は質的同一=量的無制限の価値増殖である。

したがって、そもそも商品の価値に自己増殖しようとする本性がある。価値のその本性が増殖する決定的要因をとらえる場を論じるのが、『資本論』第1部第3編「第3節 労働力の購入と販売」である。その近代的賃金労働者は「二重の意味で自由な労働者」である。「自由」の第1の意味は、賃金労働者が産業革命過程で獲得した「契約の自由」である。彼らは個々人としては自由意志でどの資本家に自分の労働力商品を販売にするか選択できる。しかし、「自由」の第2の意味は「生産手段から分離されている(separated from means of life) 」という意味での自由である(free from)。自己の労働力商品をとにかく、いずれかの資本家に販売しなければ生活手段にありつけない、ありつけなければ餓死する。その意味で、彼らの自由は個別的選択では自由であるが、いずれかの資本家に労働力を販売するように強制されている。近代的賃金労働者は個別的には自由であるが、階級総体としては不自由である。労働力商品を売るように資本主義体制に強制されている。自由な労働者は「個別的自由と総体的不自由・強制との二重性」をもつ存在である。「個別的契約=結合の自由」と「生産手段からの分離=不自由」、端的いえば、「結合と分離」は、近代的私的所有の本質的属性である。近代的社会的分業は「労働の私的分割(分業)と私的結合(交換)」、つまり商品の生産・流通・消費・再生産を徹底的に普及する。それは資本主義的生産様式である。

以上要するに、価値そのものに自己増殖する本性が潜在している。それを顕在化する決定的要因が労働力商品である。その意味で価値論は潜在的増殖価値論(剰余価値論)である。さらに、資本は「蓄積された増殖価値」であるから、価値論は増殖価値論を経て蓄積された増殖価値=蓄積論に連続する。その意味で『資本論』は価値論=増殖価値論=蓄積増殖価値論である。

[3] 翻訳語をめぐる問題

以上の意味で、Mehrwertを「増殖価値」と訳すという中山の提案は理論的根拠をもつと判断される。しかし、カントのいうVerstandが永らく「悟性」と訳され、すでに三枝博音が戦中に「知性」に変更すべきであると提案しているにもかかわらず、いまなお「悟性」という訳語が通用している。最近の『純粋理性批判』の訳でも「悟性」が踏襲されている。このように、一旦ある訳語が定着すると知的惰性態となって容易には変更されない。しかも、その訳語の原語の本来の意味が研究と意見交換のなかで不適訳語に浸透し、意味が転換してくるのでなおさら、変更は困難である。

しかも、中山もおそらく良く承知しているように、訳語も共有されている用語であるから「知的公共圏」である。意図的に「一人一訳語」を作って、他の訳語は排除し用いないというような知的アナキズムを避けるためにも、訳語は学問的に統一されるのがのぞましい。共同体、共同態、共同団体などはGemeinwesen, Gemeinschaft, Gemeindeのいずれの訳語であろうか。articulation には、接合、節合、文節など訳語があるなどの例を思えば、その思いは深まる。

[4] Wertgegenständlichkeitの訳語は「価値の実態」でよいか

 訳者中山元は『資本論』のもう一つの訳語問題、すなわち、Wertgegenständlichkeitの訳語に腐心している。中山はそれに「価値の実態」という訳語を当てている(中山訳『資本論』第1分冊40頁など)。果たしてそれは適訳であろうか。このWertgegenständlichkeitが『資本論』の最初に出てくるのは、価値形態論の冒頭である(中山訳第1分冊60頁)。マルクスが校閲したフランス語訳では、Wertgegenständlichkeitは、

  La réalité que posséde la valeur [de la marchandise]

である(Le Capital, par Karl Marx, Paris, 1872-1875, reprinted by Far Eastern Book-Sellers, Tokyo, 1976, p.18)。中山によるWertgegenständlichkeitの訳語「価値の実態」は中山がこの『資本論』フランス語訳を参考にした訳語である。その個所は、江夏美千穂・上杉聰彦訳(『フランス語訳資本論』上巻17頁)では、「[商品の]価値がもつ実在」と訳されている。

動詞posséderはここの文脈では、一般的な意味「もつ、所有する」ではなく、「(悪魔などが)取り憑く」という意味である。捉えどころのない抽象的な価値が商品の具体的な使用価値の姿に化けている、物象化している、という意味である。したがって、上記のフランス語訳は「価値が取り憑いた実在物」となろう。これを名詞形にまとめれば、「価値憑依物」となる。中山が指摘するように、ドイツのWertgegenständlichkeitはフランス語訳のようにパラフレーズされていないので、一読判明ではない。その意味は、「価値(Wert)が対象(使用価値)に憑依している事態」となろう。端的に「価値憑依態」でよいと思われる。

 フランス語訳のla réalité(実在物)とposséder(憑依する)は、ドイツ語表記のWertgegenständlichkeitが哲学史的含意をもつことを示す決定的な単語である。動詞posséderはこの場合、すぐれて観念的な存在である価値が実在物=使用価値に取り憑き、元来その実在物であるかのように固定している事態を表現する意味、すなわち、「取り憑く・憑依する」である(形態が実体を捉える[!])。すなわち、動詞posséderは、単なる思惟された観念態(Idealität)が実在態(Realität)にすり替えられて、実在態であるかのように振る舞う事態を表現するためにマルクスが選んだ動詞である。それはマルクスがカントの「誤謬推論(Paralogismus)」を念頭においたものである[以下については、前掲拙稿を参照]。

 特に廣松渉氏の研究以来、マルクスの経済学批判に関する研究では、「価値の実体(Substanz)」は極めて重要な概念となっている。宇野経済学との論争のキーワードでもある(先日[6月2日]の現代史研究会でも論争点になった)。そこに新しく、中山訳で別の表記・意味の、しかし同じく「カチノジッタイ」と読む、「価値の実態」が加わった。どちらの「カチノジッタイ」なのか、紛らわしくなったのではなかろうか。

[5] カント純粋理性批判誤謬推論とマルクス物象化論

マルクスがWertgegenständlichkeitをフランス語に訳すときに、la réalitéという名詞を用いたのはカントの誤謬推論の「実在態(Realität)」を念頭においている。カントの誤謬推論とは、中山の分かりやすい優れた訳業を援用すれば、つぎのようである。

「合理的な心理学の手続きを支配しているのは、つぎのような理性推論によって示される。

[大前提] 主語(Subjekt)としてしか考えられないものは、主体(Subjekt)としてしか現存せず、したがって、それは実体(Substanz)である。

[小前提] ところで、思惟する存在者は、思惟する存在者として主体としてしか考  えられない。

[結論] したがって、思惟する存在者は主体であり、実体として現存する(existiert)」[Kant, Kritik der reinen Vernunft, B410-411, カント(中山元訳)『純粋理性批判』光文社文庫、2011年、第4分冊、118頁]。

 この推論は、思惟に存在するにすぎない観念的なものを現実に実在するものにすりかえている。いいかえれば、[大前提]の「主語=主体=実体」の《主体》に[小前提]の「思惟する存在者」としての《主体》を等置して、[結論]で「思惟する存在者は実体として現存する」と結論づける。「主観=主体(Subjekt)」という「大前提」と「小前提」とに共通する用語を「媒辞概念」にして、単に思惟するにすぎない主語を思惟の対象に転化し、それを実在する現実存在者に転化する。この「すり替え(quidproquo)」を誤謬推論としてカントは批判するのである。単に観念的な存在を実在的な存在に転化することをカントは「媒辞概念の虚偽(詭弁)(per sophima figurae dictionis, fallacy of ambiguous middle)」と名づけた。

 カントは単なる主語でしかない概念についてつぎのように規定する。

「たんなる述語として現存することができず、それ自体で主語として現存する物の概念(der Begriff eines Dinges)は、客観的な実在性(objektive Realität)をそなえたものではなく、その概念がそもそもある対象(ein Gegenstand)に対応しうるかどうかも、知ることができない」(ibid, B412; 中山訳120頁)。

 しかるに、『資本論』で考察される「価値」は「客観的な実在性(objektive Realität;la réalité )」に取り憑き、「或る対象(ein Gegenstand)」に転態する。カントのいう「誤謬推論」は単なる思惟の誤謬=「仮象」ではなく、資本主義経済における物象化する事態である。マルクスがWertgegenständlichkeitというとき、念頭にあるのはこのカント誤謬推論であり、思惟上の「理性の仮象」に限定するカントへの批判である。

 中山はWertgegenständlichkeitの訳語として「価値の実態」を提案している。中山は「仏語訳ではマルクスはこれ[Wertgegenständlichkeit]を『価値の現実』とか『価値の実態』(La réalité que posséde la valeur)のように言い換えていて、これであれば、ごく分かりやすい」と判断している(第1分冊「訳者あとがき」449頁)。

 ところで、『広辞苑』によれば、「実態」とは「実際のありさま」である。その「実際」とは「まことの有様」である。したがって「価値の実態」とは「価値のまことの有様」ということになる。「価値の正確な姿を示す事態」となる。逆ではなかろうか。

Wertgegenständlichkeit、そのフランス語訳のLa réalité que posséde la valeurとは、価値が或る使用価値の姿に化けている事態である。カントは、単に思惟された観念態にすぎないものがあたかも実在態であるかのようにすり替わる事態を「誤謬推論」という。このすり替えをカントが「媒辞概念の虚偽」といっている。このこともマルクスへの文脈で重要である。つぎにそれをみよう。

[6] 商品物神性論・交換過程論におけるWertgegenständlichkeit

 Wertgegenständlichkeitという用語はそのあとにも出てくる。まず商品物神性論のつぎの個所である。

「人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性 [価値憑依態(Wertgegenständ-

lichkeit)]という物象的形態(die sachliche Form)を受け取る」(Das Kapital, ibid., S.86. 中山訳第1分冊121頁。訳文変更)。

「労働の諸生産物は、それらの交換の内部ではじめて、感性的にそれぞれ異なる使用対象性(Gebrauchsgegenständlichkeit)から分離されて、社会的に同等な価値対象性 [価値憑依態]を受け取る。有用物および価値物への労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、つぎのときである。すなわち、有用物が交換を目当てに生産されるまでに、したがって諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性を獲得したときである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に二重の社会的性格を受け取る」(ibid., S.87.『資本論』中山訳、第1分冊124-5頁。訳文変更)。

 ここで中山が問題にする「価値対象性」だけでなく、「使用対象性」という用語が読める。この二つの用語は上の引用文で「有用物と価値物」といいかえられる。中山はここでは「使用価値対象性」を「使用対象としてのあり方」と訳し、「価値対象性」を「価値対象としてのあり方」と訳す。「性(-keit)」の部分を「としてのあり方」と訳す。この「対象性」は社会的規定を受けた形態という意味である。使用価値も「社会的に=商品の素材的側面として」存在価値のある使用価値になるという意味である。その使用価値は、二重に社会的な役割を担う。①消費欲望の対象としての役割と、②価値表現の素材的媒態としての役割、即ち「価値憑依態」としての役割である。

 では、この「使用物」と「価値物」への分裂は如何にして発生するのだろうか。マルクスは上の引用文のすぐあとで、つぎのように説明する。

「そもそもまったく(トト・コエロ)異質な種類の労働が同等なものであるためには、それぞれの労働の現実の異質性を捨象し(Abstruktion von ihrer wirklichen Ungleichheit)、しかも共通な性格のものに還元しなければならない。この共通な性格とは、そこに人間の労働力が投入されていること、抽象的人間労働が投入されていることである」(ibid., S.87-88. 中山訳第1分冊125頁)。

 平明な訳文である。ただし「捨象し(Abstruktion)」と引用した個所は「無視し」と動詞形で訳されている。しかしここの問題は動詞形か名詞形かではない。このAbstruktionは商品の交換関係の機構的Abstruktionである。「無視」という人格を想定させる側面は、ここでは一切捨象しなければならない。交換される生産物の使用価値での「現実の不等性」の「捨象」は、生産物を交換する者たちが価値として等置する行為が生み出す、思わざる結果である。その結果は、「①使用価値の捨象=②価値の抽象」である。交換者は「価値なるもの」が生産物に内在すると想定して交換する。実際は逆に、その交換行為が使用価値を捨象し価値を抽象するのである。ここで使用価値の媒介機能は二重である。相異なる使用価値は相互否定によって価値を抽象し、かつ抽象した価値の現象形態になる。交換行為から生成する価値は使用価値に取り憑いて、価値憑依態(価値対象性)、あるいは価値物(Wertding)として現存する。

 以上に密接に関連するのが、つぎの交換過程論の最後の個所である。

「われわれは [一般的等価価値があたかも社会的自然属性をもって自立しているかのように現象する]この虚偽の仮象がどのように固定されていくか(die Befestigung dieses falschen Schein)を追跡してきた。一般的等価形態が、ある特殊な種類の商品の自然形態に固着する(verwachsen)とき、あるいは貨幣形態に結晶した(kristallisiert ist)ときに、この仮象は完成する」(Das Kapital, S.107. 中山訳第1分冊171頁)。

 上の引用文で、マルクスが「固着する」とか「結晶する」というとき、すでにみた『資本論』フランス語訳での「憑依する」と同義である。さらに「虚偽の仮象」というとき、理性は「媒辞概念の虚偽」を無自覚に用いて「誤謬推論」という「理性の仮象」を生みだすと批判したカントを念頭においている。先に引用したカント誤謬推論では、「媒辞概念」は意味が異なる「大前提の主体」と「小前提の主体」との「主体(Subjekt)」という用語がそれである。「主体」は、名辞としては同じであるということを梃子にして、カントにとって誤った結論を引き出す媒辞である。マルクスの価値形態=交換過程論でいえば、相異なる使用価値がその現実の不等性を捨象し価値を抽象し、かつ、その価値が現(実)存(在)する媒態になる事態に相当する。マルクス研究者の間で「使用価値視点」が強調されるが、資本主義では使用価値は価値と無関係に並存しない。労働力商品の使用価値の消費=生産的労働は、新しい使用価値の生産を媒介にして(生産手段の価値を新生産物に移転保存しつつ)価値を増殖する。使用価値は価値と重層的に媒介しあっている。その最初の媒介形態が価値形態である。

中山元は、上の引用文のボールド体の個所「この虚偽の仮象」・「この仮象」をそれぞれ「この誤った見掛け」・「この見掛け」と訳す。上の引用のように「見掛け」の原語はScheinである。マルクスはここでカントが誤謬推論を「理性の仮象」とよんだことを念頭に、ブルジョア的理性は単なる思惟上の誤謬ではなく、日々の経済生活で実践的誤謬推論=仮象を繰り返していると批判しているから、やはり「仮象」と訳したい。中山のカント『純粋理性批判』の翻訳の仕事はこのマルクス『資本論』の訳業に連結する内容上の関連がある。

[7] 無媒介のスピノザ体系とマルクス経済学批判の重層的媒介体系

価値が使用価値に憑依する重層的媒介は消失して見えない。商品と貨幣は相互に無媒介な存在であるかのように見える。事物は「使用価値と価値」「生産諸力と生産諸関係」というように平行関係に見える。マルクス経済学者も並行関係で見ている。その媒介過程=構造を暴露するのがマルクスの経済学批判である。

「ここで媒介する働き(die vermittelnde Bewegung)は、その働きの結果そのもののうちに消えてしまい、いかなる痕跡も残さない。商品たちは、みずからは何もすることなく、自分たち自身の価値の姿を自分たちの外部に自分たちと並存して(außer und neben ihnen)実存する或る商品体(Warenkörper)[貨幣]のうちに完成されたものとして見いだすのである」(Das Kapital, S.107. 中山訳第1分冊171頁)。

 マルクスは、諸商品と貨幣のこのような相互に外部的な並存関係の哲学的形態をスピノザにみたのであろう。1858年5月31日、マルクスは『要綱』を書き終わったころ、スピノザの体系は逆転していると批判した。

「この[エピクロスの]体系については、ヘラクレイトスの場合と同じように、体系はただそれ自体エピクロスの著作のなかにあるだけで、意識的な体系化のなかに存在しなかった、と僕は確信している。その仕事に体系的な形をあたえている哲学者たち、たとえばスピノザの場合でさえ、スピノザの体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に記述された形式とはまったくちがっているのだ」(Marx/Engels Werke, Bd.29, S.561. 訳437~438頁)。

 スピノザの『エチカ』の冒頭の順序は「実体→属性→様相(個物)」である。万物の究極の根拠である実体から属性が、さらに様相が導き出される。しかし実体は属性や様相に表現し尽くされることがない無限である。したがって「実体と属性・様相」は平行関係にある。スピノザの「実体」はなにものによっても説明されない超越である。しかし、カント・アンチノミーであきらかにされたように、人間の思惟は「テーゼ」に対して「アンチ・テーゼ」を対置する。無限は有限に外在的に存在するだけではない。無限は有限の内部に存在しうる(有限・内・無限)。スピノザの「実体と属性・様相との外在的平行関係」もスピノザ自身の警句「すべての定義は否定である(omnis enim negatio determinatio)」にさらされなければならない。すなわち、スピノザ体系の否定態である「個物→属性→実体」という経路で、スピノザ体系は再定義されなければならない。27歳で夭折した旧西ドイツの哲学者、ハンスーユルゲン・クラールは『意識の経験-ヘーゲル『精神現象学』前言へのコメンタール-』でつぎのように指摘する。

「[カントの]超越論的なものは、その根本でみれば、神の否定的な現象様式であると理解できる。・・・・・神は世界に存在する有限なものを超越する。神は事物の秩序の諸契機、事物がそのような仕方で関連する一つの総体性の諸契機にすぎない。スピノザの場合、総体性は絶対者の否定的な概念である」(Han-Jürgen Krahl, Erfahrung des Bewußtseins, Materialis Verlag, 1979, S.20)。

 スピノザの神は、万物を否定し総体性として編成する契機を準備した。カントはそれを人間の認識能力の根拠としての超越論的統覚に継承する。スピノザの絶対者=実体もまた自己を総体性として構成する過程で再定義されなければならない。その再定義のためのカテゴリーは、スピノザの「実体」の発現形態としての「様態(個物)」とその展開としての「諸属性」である。有限な個物を分析しその諸属性を導きだし、それらを相互否定的な関係におけば、無限の実体が現象してくる。無限の実体は有限の個物に内在する「有限・内・無限」である。

これを実行したのが『経済学批判要綱』の特に「貨幣章」である。注目すべきことに『哲学の貧困』まで頻繁に用いられた用語「使用価値」は、『要綱』「貨幣章」ではほとんど用いられない。その代わりに「自然的実体」が「社会的実体」=(交換)価値と対の用語として用いられる。『要綱』の最後の断片「1) 価値」は、経済学批判体系の始元にして終局である商品を措定した体系的断片である。そこでは商品という個物の属性は使用価値と交換価値に分析される。商品は体系的集合であり、かつその集合の要素である。これを受けて1859年の『経済学批判』から1867年の『資本論』初版以降で、[個物(商品)]→[属性(使用価値・交換価値)]→[実体(自然的実体=具体的有用労働)・(社会的実体=抽象的人間労働))という順序、スピノザ体系を転倒した順序がしめされる。マルクスからみれば、スピノザ体系の「実体と属性・様態」の外在的無媒介の平行関係は、「媒介する運動が消失した体系」なのである。マルクスの文脈でスピノザを考える場合には、スピノザを媒介された体系に再構成するマルクスを見逃してはならない。

以上、中山元の問題提起に筆者なりに答えてみた。参考になればと願う。(以上)

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〔study508:120606〕