我より法を為(つく)り、我より之に循う
─中江兆民『民約訳解』を読む・その1
「此の約に因りて得るところ、更に一あり。何の謂いぞ。曰く、心の自由、是なり。夫れ形気の駆るところと為りて自から克脩することを知らざる者、是れ亦た奴隷の類のみ。我より法を為(つく)り、而して我より之に循う者に至りては、其の心胸綽として余裕あり。然りと雖も、心の自由を論ずるは理学の事、是の書の旨に非ず。議論の序、偶たま此に及ぶと云うのみ。」[1]
中江兆民『民約訳解』「人世」
1 制度論的次章
私は先に「国体の創出」を論じるに際して「制度論的序章」という文章を最初に置いた。それは「国体」をいま論じるにあたって制度論(制作論)という視点が不可欠だと考えたからである。国家を人為の制度的体系とすることは、国家を制作物と見ることである。それゆえ制度論を制作論とも私はいうのである。明治国家の創出にあたって新たな国家理念が求められた。この要請に応えていったのはわれわれが後期水戸学と呼ぶ19世紀初頭の水戸藩に形成された学派の知識的武士たちであった。しかしなぜ国家理念なのか。それは先の「制度論的序章」でいったように、19世紀日本が直面する国際的な危機に当たって国家的、国民(住民)的統合が強く求められるにいたったからである。この国家的危機に当たっての要請を最初に自覚したのが水戸学派の知識的武士たちであった。彼らは祭祀的統一体としての日本の国家的創成の古代に溯りながら、日本の「国体」という国家理念を語り出していったのである。
ところで19世紀水戸藩の知識的武士たちに「国体」の語り出しを促し、「国体」の言説的構成を可能にしたものは何か。それは先の「制度論的序章」でのべたように先王・聖人を制作者とし、彼らによる道の制作をいう荻生徂徠における制作論の成立とその水戸学派における受容と影響とである。祭祀的共同体に人間の社会的集団形成の始まりを見、それを新たな人間的統合体(国家)へと整え、導いたのが古代中国の王たち、すなわち先王だと徂徠は解した。その意味で先王とは制作者であり、聖人である(「聖とは制なり」)。この徂徠の制作論を日本に移し、天皇朝国家日本の体制的始原の語りとして見事に翻案・再構成していったのが水戸学の「国体」論である。それは徂徠の制作論にしたがって19世紀の水戸学派において再制作された国家的言説である。その代表的な一節を会沢正志斎の『新論』から引いておこう。
「天祖は天にましまして、下土を照臨したまひ、天孫は誠敬を下に尽くして、以て天祖に報じたまふ。祭政維れ一、治むる所の天職、代る所の天工、一として天祖に事へ奉る所以に非るもの無し。山稜を秩(ただ)し、祀典を崇び、其の誠敬を尽くしたまふ所以のもの、体制大いに備はれり。而して其の本に報い祖を尊ぶの義は、大嘗に至りて極まれり。夫れ嘗とは始めて新穀を嘗(な)め、而して天神に饗するなり。天祖、嘉穀の種を得たまひ、思へらく以て蒼生を生活すべしと。」[2]
「天祖」を中心的崇敬対象とした祭政一致的な国家体制(国体)を語る言語は漢文体のものである。19世紀日本の書記言語が漢文体であることは当然であるが、いま来たるべき新国家のための「国体」理念をいう制作論的言説が水戸藩士であり、水戸学を代表する儒家知識人である会沢正志斎の〈漢文〉体言語をもって語り出されたことに注意しよう。この国体論的言語は1945年までの日本を理念的に、同時に言語的に規定し続けるのである。
ところで聖人を制作者として定義した徂徠は、その制作には〈秋(とき)〉があることをいっている。『論語』の先進篇に孔子が四人の弟子たちからその志を聴く長文の章がある。子路・冉有(ぜんゆう)・公西華(こうせいか)がそれぞれに国に仕えて果たしたい志を述べた後に、瑟を弾いていた曾晳にもその志を語ることを孔子は求めた。曾晳は瑟を置いて答えていった。「暮春には、春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう)に風して、詠じて帰らん(晩春の頃合い、春服もすでに整い、冠を着け終えた若者五、六人と、まだ冠せぬ童子六、七人とともに沂水に浴し、舞雩に登り、風に吹かれ、歌を詠じて帰りたいものです)」と。この曾晳の言葉に孔子は頷き、「私もお前と同じ思いだ」といったというのである。
これは一篇の詩を思わせる文章である。この曾晳の言葉を「微言」だといったのは徂徠である。徂徠は『孟子』によりながら曾晳を古えに志をもった人物だとみなした。「其の志極めて大にして、礼楽を制作し、天下を陶冶するに志有り。何となれば、所謂古えなる者は、豈に三代の盛時に非ずや。古えの人とは、あに文武周公に非ずや」といった後に徂徠はこういうのである。「大とは、あに天下を治むるに非ずや。此れを外にして大を語るは、老荘に非ざれば則ち理学なり。然れども礼楽を制作するは、天子の事、革命の秋(とき)なり。ゆえに君子は之れを諱(い)む」[3]と。古えに向けられたのは大なる志である。大とは天下を治めることだ。これ以外に大をいうのは老荘でなければ窮理の学である。だが礼楽を制作するのは天子の事であり、革命の秋のことだ。それゆえ君子は制作の大を口にするのを憚るのだと徂徠はいうのである。曾晳は舞雩に遊ぶ微言をもって孔子の問いに答え、孔子はそれに頷き、曾晳と同じ思いであることを伝えたのである。
私は徂徠の『論語』解釈の独自性を示すためにこの章をここに引いたわけではない。「礼楽を制作するは、天子の事、革命の秋なり」という徂徠の言のゆえである。制作には時があるのである。それは「革命の秋(天命が革(あらた)まる時)」である。従来の体制を一新し、天命に順い、民意に応える時、新たに制作する時があるのである。19世紀東アジアの国際的危機に体制的脆弱をさらけ出した日本とは、まさに「革命の秋」にあったであろう。だがこの時に、だれがこの「秋(とき)」を自覚したのだろうか。19世紀初頭の日本でこの「秋」を自覚する士は、朝廷に代わって『大日本史』の編纂作業を進めていた水戸藩の学者的武士集団から生まれた。水戸学によって育てられたこの士は救国の秋を深く自覚し、国家再生の理念と方策とを記していった。それが『新論』である。会沢は一箇の臣にして国家の制作(復古的再生)の大事を記したゆえんをその書の末尾でこう記している。
「故に必ず国体を明らかにし、形勢を審かにし、虜情を察し、守禦を脩め、而して長計を立つるの五つは、実に聖子・神孫の皇祖・天神に奉ずる所以の大孝にして、而して幕府・邦君の天下を済ひ無窮に施す所以の大忠なり。臣謹みて五論を著すは、臣の私言に非るなり。天地・鬼神、将に之を与り聴かんとす。」
ここで述べてきたことは決して私言ではない、天命を知るものの公言だと会沢はいうのである。会沢とはこの〈秋〉に鬼神も聴く〈公言〉を語る〈士〉であるのだ。
2 もう一つの制作
なぜ私は先に「制度論的序章」と題して、今ここでは「制度論的次章」などと題して会沢における「国体」論的な制作の次第を語ったりしたのか。明治維新に半世紀先立つ時期に、「制作の秋」を深く自覚しながらわが国体論的始原史を語り出していく『新論』の先駆性に驚きながら、人は必ずやこれに対抗する制作論的言辞を明治に見出そうとするはずだと思ったからである。事実私は会沢による「国体」の創出を語りながら、中江兆民の名を思い起こしていた。兆民が私の執筆計画の中に予め存在していたわけではない。むしろ今回の水戸学における「国体」論的制作の次第の語り出しが、明治における対抗的な制作、すなわち中江兆民と「民約」論的制作を呼び起こしたのである。
明治維新をはさんで二つの制作論があるのだ。一つは明治維新に先立つ時期、国家的危機の進行を目前にして書かれた制作論『新論』(1825)であり、もう一つは明治政治史の大きな節目である明治14年の政変の翌年から、すなわち自由民権運動の高揚期を迎えた明治15年から発表され始めた兆民の『民約訳解』である。明治政治史を、あるいは明治国家史をこの二つの制作論の間で見るべきだと私は考えるようになった。
「篤介はすでにルソーを懐(ふところ)に日本へ帰り着き、帰国の年に早くもルソー翻訳という思想的活動を開始していた」と飛鳥井雅道はいっている[4]。兆民がフランス留学から帰ったのは明治7年(1874)6月であった。8月には仏蘭西学舎(のちの仏学塾)のための開業願を東京府知事に提出している。兆民の思想的・学問的活動基盤になる学舎設立の時期には兆民訳『民約論』はすでになり、塾生たちの間で筆写・回覧され、やがて巷間にも広まったとされている。この漢字カナ交じり文の翻訳『民約論』(原著第二巻第六章まで)は刊行されなかった。その「巻之二」の訳稿原本だけが戦後に発見され、『兆民全集』第一巻に収められている。「巻之一」は未発見である。だが「もう一つの制作」として私が問おうとするのはこの『民約論』ではない、のちの漢訳『民約訳解』である。
明治15年(1882)2月、兆民の仏学塾は『政理叢談』という雑誌の刊行を始める。後にそれは『欧米政理叢談』とあらためられる。その第一号に載る「叢談刊行之旨意」はこういっている。これは兆民の筆になるものとされている。
「甚キ哉、人民自由権ノ以テ貴尚セザル可ラザルヤ。欧米諸国ノ能ク一方ニ雄張シテ各々其盛ヲ鳴ラス所以ノ者ハ他無シ、其民能ク此権ヲ貴尚シテ務テ之ヲ亢張スルヲ以テナリ。・・・茲ニ乃チ先輩ニ従フテ業ヲ問ヒ、欧米諸国ノ書策ニ就テ苟モ議論政理ニ益ナル者ハ随フテ訳述シ、号ヲ逐フテ之ヲ刊行セントス。冀クバ四方君子時ニ繙閲ヲ賜ヒ、取ル可キ有ラバ之ヲ採リ、其未ダ至ラザル所ハ之ヲ誨ヘテ以テ鄙志ニ副スル有ランコトヲ。」[5]
明らかにこれは国会の開設を前にして自由民権派の理論的装備を呼びかけたものである。その前年明治14年3月、兆民を主筆として創刊された『東洋自由新聞』は、社長西園寺公望が内勅によって退社するという打撃もあって翌月には廃刊という事態に立ちいたった。『政理叢談』の創刊は、『東洋自由新聞』の廃刊という事態からの反転攻勢を呼びかけるものであった。兆民はその反転攻勢を徹底した理論的装備をもってすることを声高く説くのである。かくて兆民の『民約訳解』は最高の理論的備えとして『政理叢談』の第二号から連載されるのである。だが兆民には翻訳『民約論』がすでにあるのに、なぜ兆民はこの時あらためて漢訳による『民約論』すなわち『民約訳解』を自由民権派の士に提供しようとするのか。
飛鳥井雅道は「『欧米政理叢談』の名を不朽のものとしたのは、第二号から連載されたルソー作・兆民訳の漢訳『社会契約論』すなわち『民約訳解』であった」といっている。これは『民約訳解』の連載という事態をただいっているのではない。兆民の漢訳『民約訳解』の連載こそが、自由民権派の理論化の役割をもつ『欧米政理叢談』の名を不朽ならしめたといっているのである。だから飛鳥井のこの言葉は、上にのべた私の疑問、すなわち「なぜ兆民はこの時あらためて漢訳による『民約論』すなわち『民約訳解』を自由民権派の士に提示しようとするのか」という疑問に答えてしまっている。すなわち「漢訳『社会契約論』すなわち『民約訳解』こそが『欧米政理叢談』を不朽ならしめた」と。『民約訳解』の不朽の価値はルソー『社会契約論』の漢訳であることにあると飛鳥井はいっているのである。
ところで私がもった疑問への答えをこのように早く知ってしまうことは、私の立論に不都合なことではないかと人はいうかも知れない。だが中江兆民のようなすでに詳密な研究や評伝で蔽われてしまっている人物についての後進の問いには、ほとんどすでに答は与えられているといっていい。ではどうするか。もし頬被りも鈍感さも装わないとすれば、人はその答えを有り難く受け入れ、その先を見ていくようにすればよい。飛鳥井は漢訳『社会契約論』すなわち『民約訳解』の成立とその意義についてこういっている。これは彼が出した答えだ。
「一字一句の訳語の検討をも含むルソー理論体系の再検討が、民権運動が政治的高揚期を迎えた明治十五年に発表され始めたということが、兆民の生涯の性格を語っていた。/兆民がルソー理解を深めるためには、そして正確なルソー像を日本国民に提起し、真の「自主の国」を建設するためには、「共和」という訳語の訂正をも含めて、漢文訳が必要だった。また、当時の仏学塾周辺の書生たちは、漢文熱のなかで、兆民の意図を理解することができたのである。/『民約訳解』が兆民の最も重要な作品であり、明治思想史の金字塔であることは、この兆民の厳密さが、発揮され、成功したからにほかならない。」
飛鳥井がここでいう、「正確なルソー像を日本国民に提示し、真の「自主の国」を建設するためには、漢文訳が必要だった」という答えは、他のだれよりもすぐれた兆民と漢訳『民約訳解』の意義の理解だと私は思う。私はここから兆民の『民約訳解』こそが近代日本のもう一つの制作、真正の国家制作の提起であったことを、あらためて『民約訳解』を読み直しつつ考えてみたい。
3 漢訳『民約訳解』とは何か
兆民はルソーの『社会契約論』を漢文訳『民約訳解』として明治の国民に提示した。漢訳とはかりそめの企てではない。兆民はこのことのために漢文の師を求めたとさえいえるのである。兆民は自分にとっても、明治の若き学徒にとっても漢学的学習と教養とを不可欠としていた。仏学塾は和漢書についてのカリキュラムをはじめから備えていた。幸徳秋水は兆民についてこういう言葉を残している。
「先生予等に誨へて曰く、日本の文字は漢字に非ずや、日本の文学は漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可からず、且つ世間洋書を訳する者、適当の熟語なきに苦しみ、妄りに疎率の文字を製して紙上に相踵く、拙悪見るに堪えざるのみならず、実に読で解するを得ざらしむ、是れ実は適当の熟語なきに非ずして、彼等の素養足らざるに坐するのみ、思はざる可けんやと。」[6]
これは兆民が日本の書記言語あるいは思想言語として「漢文・漢語文的言語」を考えていたことを伝えるものである。兆民がわれわれの原理的な、本質的な思考を「哲学」という翻訳語を排して、「理学」という漢語概念をもっていい、漢語的思惟言語をもってする日本における「理学」の自立的成立を説き続けたのも、この言語観に立ってである。自由民権派の理論武装が急務であることを誰よりも知る兆民は、だからこそ漢語的思惟言語による翻訳(漢訳)『社会契約論』の提供を決意したのである。それはなみなみならぬ決意であった。兆民はあらためて漢文の師を求めた。彼は三島中洲の二松学舎に学び、また岡松甕谷の紹成学院に学んだ。かくて漢訳『社会契約論』すなわち『民約訳解』は『政理叢談』の第二号(明治15年3月10日発行)から第四六号(明治16年9月5日発行)まで、都合26回連載された。『民約訳解巻之一』は仏学塾出版局から明治15年10月に刊行された。
漢訳『社会契約論』すなわち『民約訳解』とは『政理叢談』を不朽にしただけではない。『民約訳解』とはわれわれの政治史的、国家史的な事件である。それだけではない。それはわれわれの哲学史的な事件であり、文明論的な事件でもあるだろう。そうであるゆえんを『民約訳解』の本文の直接的な解読を通じて考えよう。
3−1 『社会契約論』の主旨
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている」とはルソー『社会契約論』第一章の冒頭を飾る有名な言葉である。この言葉で始まる第一章は本書第一編の趣旨をのべたものである。私の『民約訳解』の読解もまたこの第一章から始めよう。だがそのことは私の読解はそこから始まって、全編に及ぶことを意味しない。私はここでルソー『社会契約論』の主旨をどうとらえ、彼の漢文言語をもってどう語り出したかを見たいと思っている。後はそこでとらえられた主旨を敷衍し、展開する章を見ればよいと考えている。
まず『社会契約論』の現代語訳(井上幸治訳、世界の名著)をあげ、次いで『民約訳解』の漢語本文の島田虔次によるよみくだし文(『全集』第一巻)をあげた。
「人間は生まれながらにして自由であるが、しかもいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。どうしてこういう変化が起こったのか、私にはわからない。しかし、この変化を何が正当化するのか、といえば、この問題なら解くことができると思う。」(『社会契約論』)
「昔在(むかし)人の初めて生まるるや、皆な趣舎(しゅしゃ)己れに由り、人の処分を仰がず、是れを之れ自由の権と謂う。今や天下ことごとく徽纆(きぼく)の困(くるしみ)を免れず。王公大人の属、自(みず)からを人上に托するも、詳らかに之を察すれば、其の羈束(きそく)を蒙ること或は庸人よりも甚しき者あり。顧(おも)うに自由権は、天の我に与えて自立を得しむる所以なり。しかも今かくの如し。此れ其の故、何ぞや。吾れ得て之を知らざるなり。ただ、其の自由権を棄つるの道に於いて、おのずから正を得ると否(しからざる)とあり。此れ、余の之を論ぜんと欲するところなり。」
兆民の訳はルソーの原文の踏み込んだ理解からなるものである。人が生まれながらにもつ自由を兆民は「自由権」とし、それを「天の我に与えて自立を得しむる所以」と敷衍していくのである。さらにルソーが「私にはわからない」といっているのを著者の韜晦的言辞とし、実際は『人間不平等起源論』で詳細にのべていることを兆民は「解」でいう。そして最後の「しかし、この変化を何が正当化するのか、といえば、この問題なら解くことができると思う」という、不明瞭な言葉の意味を明確化して兆民は、「ただ、其の自由権を棄つるの道に於いて、おのずから正を得ると否(しからざる)とあり。此れ、余の之を論ぜんと欲するところなり」というのである。兆民は一気にルソーのこの書における主題とは何かを顕わにしてみせるのである。
これだけ見ても兆民の『民約訳解』とはただの翻訳ではない、まさしくただものではないことを知るだろう。しかも兆民は自立的な言語をもってルソーの原書に対している。ここで私が自立的というのは、原書の言語に従属するような翻訳的言語でない言語をいう。だが明治15年(1882)というときに翻訳的言語を批判的にいうのは早過ぎると人はいうかもしれない。それは違う。圧倒的に優越する西洋文化・学術の導入が国家的に方向づけられたときから、わが知識的言語は翻訳的言語に変質していったのである。「哲学」とは翻訳語である。「哲学」が帝国大学の中心的な学科を構成して以来、われわれは自立的言語による自立的思考を喪失したといえるかもしれないのだ。兆民は「哲学」を嫌い、漢語概念としての「理学」を用い続けた。いま兆民はルソーを、すでに成立する翻訳語を排して、自立的な漢語をもって訳し、その本意を広く有志の士に伝えようとするのである。
自立的な言語をもってする兆民の『民約訳解』はすでに第一章のルソーの韜晦的な言葉によって『社会契約論』の主意を明確にとらえていた。それゆえ兆民はこの第一章に本文に倍する「解」を付しているのである。以下はその「解」の後半部である。
「然りと雖も、自由権も亦た二あり。上古の人、意を肆(ほしいまま)にして生を為し、絶えて検束を被ること無きは、天に純なるものなり。故に之を天命の自由と謂う。本章の云うところ即ち是れなり。民あい共に約し、邦国を建て法度を設け、自治の制を興し、斯くて以て各おの其の生を遂げ其の利を長ずるを得るは、人を雑(まじ)うるものなり。故に之を人義の自由と謂う。第六章以下の云うところ即ち是れなり。天命の自由はもと限極なし。而して其の弊や、交(こも)ごも侵し互に奪うの患(うれ)いを免れず。是に於いて、咸(み)な自(みず)から其の天命の自由を棄て、相い約して邦国を建て制度を作り、以て自から治め、而して人義の自由うまる。かくの如きものは所謂る自由権を棄つるの正道なり。他なし、其の一を棄てて其の二を取り、究竟して喪(うしな)うところあること無ければなり。若し然らざれば、豪猾(ごうかつ)の徒、我の相い争うて已まず、自から其の生を懐(やすん)ずること能わざるを見、因りて其の詐力を逞しうして我を脅制し、我れ従いて之を奉じ之を君とし、就きて命を聴かん。かくの如きものは、所謂る自由権を棄つるの正道に非ざるなり。他なし、天命の自由と人義の自由と、幷せて之を失えばなり。此の二者の得失を論究せんこと、正に本巻の旨趣なり。」
「解」の末尾で「正に本巻の旨趣なり」というように、兆民は第一章の「本巻の旨趣」のタイトルにしたがうようにして、兆民の言葉による「本巻の旨趣」を「解」でいってしまっている。すなわち「是に於いて、咸(み)な自(みず)から其の天命の自由を棄て、相い約して邦国を建て制度を作り、以て自から治め、而して人義の自由うまる。かくの如きものは所謂る自由権を棄つるの正道なり」と。ここで「天命の自由」「人義の自由」という二種の自由の概念構成をもって言われる契約的国家形成と人義的自由の主体としての臣民の再構成については第六章の解読とともに考えたい。ただここでは、「革命の秋」を明治15年の今と知る兆民の抑えがたい発言の意欲が「相い約して邦国を建て制度を作り、以て自から治め、而して人義の自由うまる」という邦国制作の主旨を何よりも早く伝えたいという衝動をもたらしていることをいっておきたい。
[1]中江兆民『民約訳解』からの引用は島田虔次の「よみくだし文」(『中江兆民全集』
第一巻、岩波書店)によっている。なお島田の「よむくだし文」は『中江兆民の研究』(桑原武夫編、岩波書店、一九六八)にも収められている。
[2]会沢安『新論・迪彝篇』岩波文庫。書き下し文は同文庫によっている。
[3]荻生徂徠『論語徴』2、小川環樹訳注、東洋文庫、平凡社。
[4]飛鳥井雅道『中江兆民』人物叢書、吉川弘文館、1999.
[6]幸徳秋水「兆民先生」『幸徳秋水全集』第八巻、明治文献、1972.
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.12.12より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/78429556.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1008:181214〕