下は1月30日の『毎日新聞』である。見出しは「1人の役人、登山界を軍事化」とある。
この記事は、太平洋戦争が始まる直前の1941年11月、日本山岳連盟の役員らに率いられた437人が丹沢の大山中腹から東京の神宮外苑までの約70キロを一昼夜かけて行軍、明治神宮国民体育大会満場の拍手で迎えられたという場面から始まる。1941年1月に、全国の登山家たちを束ねた日本山岳連盟(岳連)を結成、国策に添った活動に積極的に取り組んだ、中心的な人物、内閣情報部に情報官として1939年10月に民間から任用された井上司朗に焦点をあてた記事であった。彼は、情報局第五部第三課、文芸課長として戦時下の言論統制の一翼を担い、文学報国会の創立にも関わった人である。
井上司朗(1903~1991))は、安田銀行の行員であったが、逗子八郎のペンネームで、山岳もののエッセイや短歌を数多く発表、『こころの山』(朋文堂 1938年11月)、『山岳歌集雲烟』河出書房 1941年7月)『山征かば』(中央公論社 1941年9月)などの単行本も出版している。『山征かば』においては「あらたなる登山精神」」なるものを唱え、「巻末記」では、出版の動機を「従来の<登山のための登山><享楽のための登山>といふ意識を<民族のための登山><錬成のための登山>の方向」へと切り換えるためと明言し、登山団体の岳連への結集の強行や官僚の地位を利用しての活動をうかがわせる。「1人役人、登山界を軍事化」という見出しの所以でもある。
さらに、今回の記事は、情報局の文芸課長として、作家や編集者、出版社への強権的な言動による統制や振る舞いは、戦後、多くの批判を浴びたことにも言及しているが、歌人であったことには、一行だけ触れてはいるが、その歌歴や作品については書かれていなかった。
ところが、逗子八郎には、この記事では触れていない歌人としての前歴があった。40年ほど前になるが、その前歴と記事にあるような経歴を短歌と散文や言動を情報統制組織の推移とともに検証したことがある(「ある歌人のたどった道―逗子八郎はひとりか」(『風景』1~6号 1982年4月~1983年7月。『短歌と天皇制』風媒社 1988年10月、所収)。
彼は、中学時代から作歌をはじめ、『アララギ』の古泉千樫に師事し、文語定型短歌から出発していたが、千樫没後は、宇都野研主宰の『勁草』(1929年2月創刊)に拠り、つぎのようなプロレタリア短歌的な作品も残している(田中綾「歌人・逗子八郎研究・文芸エリート及び厚生運動の視点から(一)(二)」『北海学園大学人文論集』41号、43号 2008年11月、2009年7月)。
・その巨大な大理石の建物の下を通ると踏みつぶされた人々のうめきが聞こえるといふ(『勁草』1929年6月)
・疲れて、見上げる壁に貼り付けた山宣の死面(デスマスク)、不屈のいかりをまた俺の胸に鎔(とろ)かし込む(『勁草』1930年3月)
彼の短歌論、ポエジー論は、伝統的な文語定型短歌打破の方法論を探り、口語自由律短歌の主張する。1932年3月に創刊した『短歌と方法』やそれ以前にさまざまなメディアにおいて展開、それらを『主知的短歌論』(短歌と方法社 1933年2月)としてまとめている。その短歌史上の位置づけは、中野嘉一『新短歌の歴史』(昭森社1967年5月)に詳しい。
・書くそばから逃げださうとする真実にせまる文字を僕は索(たづ)ねる(「黒きノート」『短歌年鑑(昭和八年版)』 短歌新聞編輯局編 立命館出版部 1933年5月)
・肉体の午後。寂しい血が流れ始める 戦(そよ)がない石像のやうに私は戦(そよ)がない(「ホテル・ニューグランドの午後」『短歌研究』 1934年6月)
ところが、井上司朗が前述のように、銀行員から官僚に転身すると、つぎのような短歌に変わる。
・すめらぎにささげたるみぞしましくもわたくしごとに傷(やぶ)るべからず(「飛鳥路」『日本短歌』1940年11月)
・みひかりに大き亜細亜は一つとぞ諸邦人(もろくにびと)の今ぞぬかづく(「亜細亜の花」『短歌研究』1942年12月)
・押しなべて山をうづみし濃緑(こみどり)の楠の若葉ぞもりあがりたる(「楠の若葉」『言論報國』1944年6月)
「飛鳥路」17首の歌の前には、9行にわたる「解説」が付されているが、以下はその後半部分である。
「この一篇は定型歌である。作家と雖も定型をつくることがあるに不思議はない。自分についていへば定型歌のみならず、小説の書けば寄稿文も詩もかく。但し定型歌をつくるのは飽迄も日記としてであり、述懐としてである。芸術の上の積極的な意図を打ち出す場合は必ず新短歌によるか、或はその外の芸術形式による」
そして、捨てぜりふのように「判り切ったか事だが、歌壇にはこれだけの理屈もわからぬ人々が多いので付記しておく」と結んでいる。
さらに、戦後は、しばらくメディアに登場することも少なかったが、後楽園スタジアム取締役、日本放送創立などにかかわり、富士銀行の嘱託になっている。1970年代後半あたりから、短歌雑誌に登場するようになり、井上司朗としての執筆も多くなり、『証言・戦時文壇史~情報局文芸課長のつぶやき』(人間の科学社 1984年8月)としてまとめられた。戦後の多くの文壇人からの批判にこたえる形であったが、情報局の組織変遷や内部事情にも及び陸海軍の軍人介入により文芸課長としての権限は限られたものだったなどの弁明も多い。
「戦争」「戦時」を挟んで、積極的に立ち位置を変えた人、変えていった人、変えなかった人、変えたふりをした人、変えずに潜んでいた人・・・。<転向>という視点で検証されることが多い。「戦争」という要素がなくても、人は自らの言動を律する力が、日常的に問われているのではないか。とくに、表現にかかわる者たちにとっては、なおさらのことではないかと思う。
そして、井上司朗=逗子八郎のような道をたどった人は、決して一人にとどまらず、多くの人がたどった道でもあり、現代にも、思い当たる人たちがいる。人間の一生は、どういう道をたどって来たのか、トータルに評価されるべきで、亡くなると、みんな「いい人」にしてしまう風潮、その軽々しさに、マスメディアも加担しているのではないかと。
なお、前述の田中綾による論考は、歌人逗子八郎が新短歌運動にかかわる前の旧制一高時代、大正末期の井上司朗の校友関係とその人脈の多彩と『校友会雑誌』に発表した多数の定型短歌を紹介するとともに、『勁草』に拠るまでの過程を検証する、貴重な文献である。ただ、発掘した資料によって、彼の「青春の瑞々しさ」のようなものを、過度に評価する危惧も感じたのである。
初出:「内野光子のブログ」2024.2.2より許可を得て転載
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