尖閣諸島をめぐる日中対立は次第に抜き差しならぬ事態になりつつあるように見えます。しかし、この問題に対して多くの日本人は「中国はけしからん」と漠然と思いつつ、しかし、中国の国内問題はあるにしても、なぜかくも強硬なのか、どうしてこういうことになってしまったのか、問題の核心、事の経緯がわからないと感じているのではないでしょうか。本書はそうした疑問に正面から答えてくれ良書といえます。
日本は1885(明治18)年以来調査を続けた結果、この地は無主地であるとして、無主地先取の原則から1895年1月14日に領土に編入する閣議決定を行いました。そもそも、明治政府では維新後、早い時期から尖閣の領有化が問題になっていましたが、当時の中国(清朝)は日本に比べてとてつもない軍事大国で、難癖をつけて戦争でもしかけられたら大変だと国土編入が遅れ、日清戦争が日本の勝利で終わりそうになったところで領土編入の閣議決定をしました。しかし、そのことは当時、公表されませんでした。したがって、この時の国土編入をもって尖閣は日本の領土だと主張しても中国(および台湾)は、ハイそうですか、とは言わないわけです。
このほかにも論点はいろいろあり、尖閣をめぐる問題は大変複雑なのです。中でも問題なのは、本書がテーマとしている、沖縄返還時にアメリカが極めて重要な決定をしていることです。日本はこれに抗議をして取り消させるとか、台湾政府と話し合って、この段階で解決しようとしていれば話は変わっていたかもしれませんが、その双方をしなかったことが今日の問題を生みだしたと言えます。本書はこの問題を日米の資料を中心に徹底的に調べ上げており、尖閣問題の核心をこれほど緻密に、かつ見事に分析した本は他にないと言えます。
さて、1971年6月に沖縄返還協定が日米両国政府によって調印され、翌72年5月に沖縄の本土復帰が実現したわけですが、沖縄が日本に返還されることになると知った台湾政府は、それに先立つ1970年9月に米国務省に口上書を提出し、以降、琉球列島に対する米軍による占領が終了するなら、「本来、台湾の領土である尖閣諸島は中華民国に返還せよ」と繰り返し要求をしています。
これに先立つジョンソン政権の時代に、アメリカはベトナム戦争の泥沼化から激しいインフレと国際収支の悪化に見舞われ、その結果、波状的なドル危機の発生に悩まされていました。ニクソン政権になってからは、ベトナム戦争を終わらせることに力を注ぐとともに、日本や韓国、台湾に対して対米繊維製品輸出の自主規制を要求していました。日本は沖縄返還の代償としてこれを飲みましたが、台湾はこれに頑強に抵抗していました。当時のロジャース国務長官は愛知揆一外相に対して(尖閣問題について)「日本政府がその法的立場を害することなく、何らかの方法で、われわれを助けていただければありがたい」「本件につきなるべくすみやかに話合を行うというような意志表示を国民政府に対して行っていただけないか」と述べています。
日本は、1951年9月にサンフランシスコで対日講和条約が調印され、独立を獲得しましたが、このときアメリカは、沖縄について日本の残存主権を認めるが、当面、施政権はアメリカが握ることとしました。この時の沖縄には当然尖閣も含まれていたはずです。それが沖縄の日本復帰に際して、台湾政府が横やりを入れたことでおかしくなってきたわけです。
このジレンマから抜け出る策としてニクソン政権が考え出したのは、施政権は尖閣も含めて日本に返還するが、尖閣の領有権については日本と台湾で話し合ってほしい、アメリカは中立を保つという逃げの手を打つことでした。日本政府は尖閣については施政権と領有権を切り離すというメリカの要求に対して一片の抗議もすることなく飲んでいますが、沖縄復帰前に台湾と話し合って問題を解決してほしいというアメリカの強い希望には応えなかったのです。
ところで、1971年6月7日(つまり沖縄返還協定の調印の直前)には、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は尖閣諸島を沖縄の一部とみなし、日本の「残存主権」が及ぶことを確認していました。それが急変したのはその直後に国際情勢が急変したからです。
この年の4月に日本に来ていたアメリカの卓球チームが突然北京に招かれるという「ピンポン外交」が行われ、その2か月後には米有力紙2紙の幹部夫妻が周恩来に招かれて訪中。そして7月9日にはキッシンジャーが秘密裏に訪中して周恩来と会談し、72年5月までにニクソンが訪中することを決めました。これが、アメリカが尖閣についての態度を急変させた主因だと著者はいいます。
アメリカが、尖閣の施政権は日本に返還するが領有権については中立だとの立場に急変したのは、表向きは蒋介石の意向を尊重したものですが、アメリカが「中国は一つであり台湾は中国の領土」だとする北京政府と国交正常化交渉を始めるために、キッシンジャーが中国に持って行った手土産であったと言えます。1968年には国連アジア極東委員会(エカフェ)が東シナ海と黄海で共同調査を行い、この地域に膨大な石油資源が存在する可能性のあることを発表していたことも、キッシンジャーのこの手土産の価値をより高めていたと言えます。
その後、田中角栄首相が1972年に訪中し、日中国交正常化が実現します。田中と大平外相が、毛沢東、周恩来と会談した時、田中は尖閣問題を取り上げようとしますが、周恩来は、この問題は複雑で話し合いには時間がかかる。だから、この問題は後世の人たちに将来ゆっくり話し合ってももらいましょうと、取り合わなかった。
こうしたことから、多くの日本の識者は尖閣の今後を心配し、日本の国会でも幾度となく取り上げられ、政府に質問し、追求しましたが、政府・外務省はのらりくらりとかわし、尖閣には何ら問題はないとの態度を表明し続けました。この経緯も本書では詳しく取り上げています。
現在日本は尖閣諸島の施政権を持ち、実効支配しています。これは日本の強みです。そこで日本は、尖閣諸島は日本のものであり、この列島をめぐっては何の問題も存在していないという立場を取っています。これに対して中国は、日本は尖閣問題について中国との話し合いの席につけと要求しています。尖閣をめぐっては何の問題もないとの日本の主張はあまりに現実とかけ離れていますが、話し合いの席につけば日本はとても勝ち目がないと日本の外務省は考えているのでしょう。
この問題の発端は、日本が徹底した対米追随外交をとっていたことにあると言えます。しかも、日本の外務省は国際政治の状況が大転換始めていることにも気づかず、盲目的にアメリカの後をついて歩き、台湾などはいつでも黙らせることができると高を括っていたのではないでしょうか。このため、近年、外務官僚はこの問題への言い訳や、自分は知らなかったなどのおとぼけ、責任逃れの発言を繰り広げています。著者は『チャイメリカ』や『尖閣問題の核心』でもその種の本や言説を取り上げて批判していますが、本書では中島敏次郎著『日米安保・沖縄返還・天安門事件――外交証言録』(岩波書店、2012年)を取り上げ、「認知症患者への問診にも似た虚偽答弁が繰り返されている」と徹底批判をしています。是非ご一読をお勧めします。
(花伝社刊、A5判、238ページ、2013年8月15日発行、2500円+税)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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