二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(12-中)

M・バルガス・リョサ(ペルー、1936~2025)の『フリアとシナリオライター』(続き)――権力構造のからくり、優勝劣敗の構図を鮮明に描き出す

幾つもある連続ドラマの台本を書いているのは誰なのかということに、僕はかねがね興味を抱いていた。というのも。祖母は午後の放送を何より楽しみにしていたし、ラウラ叔母さん、オルガ叔母さん、ガビイ叔母さん、そして何人もの従姉妹たち(ミラフローレスのあちこちに住んでいた仲のよい親戚)の家に行く度に、ラジオ劇場の話を散々聞かされたからだ。それが国産だとは思っていなかったけれど、ヘナロ親子がシナリオをメキシコでもアルゼンチンでもなくキューバから買っていると知って驚いた。シナリオを制作していたCMQは、ゴアル・メストレが君臨するラジオ・テレビ業界の一大帝国だった。メストレは白髪の紳士で、リマを訪れた折に傘下のオーナーたちを従え、スタッフ一同の畏敬に満ちた眼差しを浴びながらラジオ・パナメリカーナの廊下をのし歩く姿を見かけたことがあった。

キューバのCMQの噂は、局のアナウンサーや司会者、技師たちから随分聞かされていたので――映画に関わる人間にとってのハリウッドと同様に彼らにとってそれは神話の部類に属するものだった――僕とハビエルも<プランサ>でコーヒーを飲みながらひとしきり空想に耽ったものだ。
ヤシの樹、楽園を思わす海岸、ギャングと観光客の遥かなるハバナ、そこにあるゴアル・メストレの要塞の冷房の利いたオフィスで、作家の軍団が消音タイプライターの前に座り、一日八時間、不倫、殺人、情熱、出会い、相続争い、献身、偶然のいたずら、犯罪の物語を洪水のごとく量産しているに違いない。そうして出来上がったシナリオがカリブの島国からラテンアメリカ全体に輸出され、それぞれの国のルシアノ・バンドやホセフィナ・サンチェスの声によって演じられ、どの国でも祖母や叔母や従姉妹、年金生活者たちの午後をときめかせているのだった。

ラジオ劇場の台本は、ヘナロ・ジュニアが電報で注文し、目方で買っていた(あるいはむしろCMQが売っていた)。僕はそれをヘナロ・ジュニアから直接聞いたのだが、放送前に彼か兄弟か父親が台本に目を通すのかどうかを尋ねると、彼は驚いてこう言った。「君なら七十キロの紙の束を読めるとでも言うのかい」。
彼は反論したが僕を見る眼差しは好意的で、慇懃さが感じられた。その眼差しはインテリである彼にふさわしいものだったが、エル・コメルシオ紙の日曜版に僕の短編小説が載っているのを知って以来、僕のことを知識階級の一員として扱ってくれていた。
「どのくらい時間がかかると思う?ひと月か、それともふた月か。ラジオドラマを一本読むのに二か月もかけられる人間なんていやしない。運を天に任すのさ。幸い、奇跡の神は今のところ我々を守ってくれている」。

うまくすれば、広告代理店や同業者、友人を通じて、配給された台本がそれまでに幾つの国で買われ、どの位の聴取率を上げたか予め調べが付くこともあった。最悪の場合は、タイトルで判断するかコインを投げて決めていた。台本が目方で売られたのは、頁数や単語数で値段を決めるより誤魔化しが少ない方法だったからだ。こちらで確認するには、その方法しかなかった。「それもそうだ」とハビエルは言っていた。「読む時間がないのなら、単語を全部数える時間なんてある訳がない」。六十八キロと三十グラムの小説の値段を牛肉やバターや卵のように秤で決めるという考えを、彼はえらく面白がった。
しかし、このシステムはヘナロ親子にとって、厄介の元でもあった。テキストはキューバ訛りだらけで、毎回放送直前に、声優のルシアノやホセフィナ自身がスタッフ共々、できるだけ(うまくいった試しがなかったが)ペルーのスペイン語らしくなるよう手直しする必要があった。

また、タイプ打ちされた紙の束が、ハバナからリマに運ばれる途中、船倉や飛行機のトランクや税関で傷んだり、何章かがそっくりなくなったり、湿気にやられて読めなくなったり。行方不明になるかと思えば、ラジオ・セントラルの倉庫で鼠にかじられることもあった。しかも、父親の方のヘナロが台本を配る時になって初めてそれが判るので、日常茶飯事のようにパニックが起きた。
そんな時は消えてしまった章を勝手に飛ばして済ませることもあったが、のっぴきならない場合には、ルシアノ・バンドかホセフィナ・サンチェスを一日だけ病気にしてしまい、浮かせた二十四時間の間に継ぎ接ぎをしたり、デッチ上げたり、傷が大きくならないようにしながら削除したりして、失われた何グラムか何キロかの穴埋めをした。おまけにCMQの台本は値が張ったから、ペドロ・カマーチョの存在とその素晴らしい才能を見つけ出した時、ヘナロ・ジュニアが有頂天になったのも当然のことだった。

ヘナロ・ジュニアがそのラジオ界切っての天才の話をしてくれた日のことはよく覚えている。フリア叔母さんに初めて会ったのが同じ日の昼だったからだ。彼女はルーチョ叔父さんの義理の妹に当たり、前の晩にボリビアからリマへやって来たところだった。
ちょっと前に離婚したばかりの彼女は、しばらくのんびりして結婚の失敗という痛手から立ち直ろうと、姉のオルガ叔母さんを訪れたのだ。「本当は新しい旦那を探しに来たのよ」身内が集まった折に、誰よりも口の悪いオルテンシア叔母さんがそう言った。
僕は、木曜日はいつもルーチョとオルガの叔父夫婦の家で昼食をとる習慣だったのだけれど、その日行ってみると、二人とも未だパジャマ姿のままで、ムール貝のチリソース
煮と冷たいビールで二日酔いを紛らせていた。着いたばかりのフリア叔母さんと明け方まで噂話に花を咲かせ、三人でウィスキーを一本空けてしまったのだ。

初出:「リベラル21」2025.5.10より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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