ヘルタ・ミュラー(ドイツ、1953~)は2011年、ノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「凝縮した詩と率直な散文によって、収奪された人々の風景を描いた」
その代表作『狙われたキツネ』(三修社刊、山本浩司:訳)の一部を私なりに紹介しよう。ルーマニア革命の発端となったバナート地方の中核都市ティミショアラを舞台として1989年夏から革命までの状況を描いている。
男が道端を馬を連れて歩いている。何か曲を口笛で吹いているが、その曲のテンポは彼の足取りよりも間延びしている。といっても、その拍子が馬の蹄の音につられて狂うこともない。男は歩きながら地面を見ている。夜の間に地面に積もった埃は、始まったばかりの一日よりも歳をとっている。
たまたま男を街中で見かけた小学校女教師アディ―ナの足は知らず知らずのうちに男の口笛に歩調を合わせてしまう。頭の中では、まるで男が実際に歌っているみたいに、歌詞がこだまする。
ああいったい どうすりゃいいのか
家や田畑 売るほかないが
これじゃあ お先が真っ暗だ
小男に、細いロープと図体のでかい馬という取り合わせだ。
だから馬には細いロープでも、男にとっては太いロープなのだ。ところでロープを持つ男といえば、首吊り死体と相場が決まっている。とうに忘れられた昔に下町に住んでいた例のブリキ職人が丁度そうであったように・・・・・・
ある日のこと、あの男は首吊り死体になっていた。その日も、いつもと変わらず市電がストーブの煙突やらジョウロやら墓の十字架などで飾りたてた店のショーウィンドーの前をゴトゴトいいながら通過していた。
復活祭間近のことで、市電の窓ガラスの向こうに立つ乗客たちはみな腕に羊肉を抱えていた。
火が鍋底に食らいつくことはもうなかった。しかしブリキ職人がいつも言っていたのとは違って、死神は「ケツに噛みついた」わけではなかった。彼が発見された時、死神はその首を絞めていたのだ。
何本も欠けた彼の指がロープで輪を作ったのだ。死体を最初に見つけたのは食肉工場勤めの男だった。床屋の猫を扉に放り投げたあの男だ。彼はストーブの煙突を注文していて、それを引き取りにきたのだった。途中で床屋の処に寄って散髪したばかりで、顎にもきれいに剃刀が当てられ、青草のような油の臭いを発散させていた。この香料のことを床屋はラヴェンダーなどと嘯いていたが、彼に髭を剃ってもらった男は、そろいもそろって顔中艶々させ、青草の臭いを発散させていたのだった。
首吊り死体を発見した時、<青草の臭いをさせた男>は、「腕のいい職人だったが、最後の最後になって随分雑な仕事をしたもんだ」と言った。
事実、ブリキ職人の死体は真っ直ぐにぶら下がらずに傾いていたし、しかもドアの傍の床すれすれの処をゆらゆらしていたのだ。だから、もし彼にその気がありさえすれば、爪先立ちして、体をロープから外すことだってできた筈だ。
<青草の臭いをさせた男>は、首吊り死体の頭の上まで脊が届いた。「嫌なことだが、あの役に立つロープの分だけ俺の方が脊が高かったわけだ」と彼は後で皮肉な調子で言っていた。男がロープを切らずに、輪を緩めると、ブリキ職人は輪から外れて下に落ちた。その時、革の前掛けがたわんだが、首吊り死体そのものは少しも曲がることなく落下し、肩から地面に打ち付けられた。その反動で頭が真っ直ぐに宙に浮いた。<青草の臭いをさせた男>はロープの結び目を解き、親指と人差し指の間から掌を通したロープを肘の処で回転させて巻き取った。そうして最後に少し残したロープで結び目を作りながら、「ロープって奴は、うちの工場でも何かと使い道があるからな」と言うのだった。
仕立て屋の小母さんはペンチと真新しいピカピカの針を何本かネコババして前掛けのポケットにしまい込んだ。彼女は頭を垂れ、机の上にあった目覚まし時計の上にぽたぽた涙を落とした。その目覚ましの文字盤の上を針に付いた機関車がコチコチと言いながら動いていた。仕立て屋の小母さんはその時計の針を見ながら、ジョウロに手を伸ばした。
「故人のお墓に入れるから、これは私が持っていくわ」と彼女は言った。
「お好きなように」と<青草の臭いをさせた男>が答えた。彼はストーブの煙突を探していたのだ。
「ほんの一時間前にはブリキ屋はうちに居たんだよ」と床屋は言った。「俺がこの手で剃刀を当てたんだ。剃り跡も髪も未だ乾き切ってはいなかった筈だ。なのに、どうして首をくくったりしたんだろう」
それから床屋もヤスリを失敬して、上っ張りのポケットにしまい込んだ。そして、<青草の臭いをさせた男>をじっと見ながら、「首くくりのロープを切ってやったヤツは、今度は自分のためにそのロープを繋ぎ合わせるって言うぞ」と言った。小脇に三本も煙突を抱えた<青草の臭いをさせた男>はロープを指差して言った。「よく見てみろよ、ロープは切れてなんかいないぜ」
アディ―ナは死体の横の鋳掛けた鍋の山を見ていた。鍋の内側のホーローは変色し、ひび割れして粉々になっていた。変色した部分には、パセリ、セリ、玉ねぎ、ニンニク、トマトにキュウリなど、ありとあらゆる夏野菜の鱗茎やらスライスした破片やら、あるいは葉っぱなどがこびり付いていた。下町の菜園や郊外の畑でよく見かけるこうした野菜類ばかりではなく、食肉工場や畜舎で飼っている家畜の肉の残骸もそこにはくっついているのだった。
初出:「リベラル21」2025.7.17より許可を得て転載
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