二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(16-中)

パトリック・モディアノの『パリ環状通り』続き

パリ・オーステルリッツ駅。彼(父)はタクシーの運転手に行く先を告げる前、少し躊躇した。(その後、実際はアレルマン大通りに住んでいるのに、グルネル河岸に乗りつけたこともある。あまりに頻繁に住所を変えるものだから、こんからかってしまい、勘違いに気づくのは、いつも失敗の後だった。)その時、彼の告げた行く先はヴィラレ・ジョワイユーズ辻公園。私は噴水の優しい水音に小鳥のさえずる小さな公園を想像した。

が、予想は外れた。そこは、大きな建物で囲まれた袋小路。私たちのアパルトマンは、一番天辺にあり、いびつな円形をした奇妙な窓が通りに面している。部屋数は三つ。天井は恐ろしく低い。<サロン>には大きなテーブルが一つと傷みきった皮製の肘掛椅子が二つ。桃色の勝った壁紙。有名なジュイの織物のイミテーションだ。それに青銅の大きな釣燭台(こう記しながら、もう一つ記憶に自信が持てない。というのは、このヴィラレ・ド・ジョワイユーズ辻公園のアパルトマンと、年金生活者の夫妻に又借りしたフェリックス・フォール通りのそれと、はっきり区別がつかない。どちらにも、同じ褪せたような色が漂っていた)。
父は、私に一番小さな部屋を与えた。床に、マットレスがじかに敷いてある。「あんまり快適じゃないだろうが、勘弁してくれ。まあ、そう長くここに居るわけでもないし、ぐっすりお休み」。彼はそう言った。その夜、何時間もの間、行ったり来たりする父の足音が耳についた。こうして、私たちの共同生活が始まったのである。

最初のうち、彼は、通常父子の間では例を見ないほどの慇懃さで、私に接した。言葉を注意して選びながら話しているように、感じられた。が、その成果はあまりパッとしない。極端に凝った表現や婉曲な言い回しを使うものだから、しばしば何を言っているのか判らなくなる。そして、絶えず弁解したり、非難を見越して先手を打つように見えた。
私のベッドまで朝食を運んできてくれたが、まるでホテルのボーイみたいに威儀を正してやるから、およそこの薄汚いアパルトマンには似つかわしくない。寝室の壁紙は所々破れ、天井には裸電球がぶら下がっているだけ。また、彼が窓のカーテンを開ける度に、間違いなくレールが落ちてきた。

ある日、彼は私を呼び捨てにしたまでは良かったが、たちまち大いに恐縮してしまった。一体なぜ、私はこんなにも丁重に遇せられるのか?疑問は、私の大学入学資格証明書の送付を乞う手紙を彼自らしたためた折に解けた。つまり「大学入学資格者」という称号のおかげで、手厚く遇せられたのだ。
証明書が到着するや、彼はそれを額に入れ、サロンの二つの窓の間に掲げた。私は、証明書のコピーを、彼が札入れの中に入れて持っていることにも気づいていた。たまたま、夜散歩している時、身分証明書の提示を求めた二人の警官に、彼はこのコピーを見せたことがある。亡命者用パスポートを見て、けげんな顔をした警官に、彼は何度も「息子はバカロレア(大学入学資格)を持っていますが」と繰り返した。

夕食後(父はよく「エジプト風ライス」と名付けた、ゼラチン状の粥のようなものを作った)葉巻に火を付けた父は、時々不安そうな眼で額の中の免状を見、そして、がっくりと沈み込んでしまうのだ。私に語ったところによると、「事業」がうまく行かず、何度も苦い目に遭った。闘争精神は旺盛なのだが、ごく若い時から、「人生の苛酷な現実」に直面してきたので「疲労」を感じて仕方がない。「私は、落伍者なんで……」と言った時の様子が非常に印象的だった。
そして、顔を上げると、「しかし、あんたは違う。あんたの人生はこれからだ!」と言った。私は従順にうなずく。「特に、あんたはバカロレア(大学入学資格)を持っているのだから……もし、私にそんな資格を取れるチャンスがあったのなら…(喉を締めつけるような掠れた声で)どっちにしたって、身分証明にはなるんだし……」。私は。今でもその時の彼の言葉が耳に残っている。それは、懐かしいメロディーのように、私の心を揺さぶるのだ。

少なくとも最初の一週間、私は彼が一体何をしているのか判らなかった。朝早く、彼の出ていく足音を耳にすると、後はもう夕食を用意する時しか帰ってこなかった。防水した黒い布の買い物袋から、彼は様々の食料品を取り出す――ピーマン、米、香辛料、羊の肉、ラード、砂糖漬け果物、片栗粉――そして、エプロンを付け、指輪を外し、フライパンの中に買ってきたものをぶち込んで、かき混ぜる。やがて免状の入った額の前に腰を下ろすと、私にも席に着くよう誘い、二人は食べ始める。

とうとう、ある木曜日の午後、私に一緒についてくるよう彼は頼んだ。「極めて珍奇な」一枚の切手をこれから売りに行くのだ、と有頂天だった。私たちは、グランド・アルメ通り、続いてシャンゼリゼを下っていった。父は何度も私に切手を見せる(彼はそれをセロハン紙に包んでいた)。
切手はクエ―ト国のもので、「エミール・ラシッド及び諸風景」と名付けられ、「たった一枚」しか現存しないものらしい。私たちは、やがてマリニイ広場に到着した。劇場と通りに挟まれた狭い空間で切手市が立っている。小人数のグループが幾つかでき、彼らは小声を潜めて話し、小さなトランクを開け、身をかがめて中身を吟味。帳簿をめくり、虫眼鏡やピンセットを振りかざす。その何やら陰険そうな表情やら、まるで外科医や陰謀者のような挙動を見て、私は、激しい胸騒ぎを覚えた。

気が付くと、一番人の密集したグループの中に父が居た。十人ばかりの者が、彼を詰問する。父の所持する切手が本物なのかどうか口論しているのだ。四方八方から矢継ぎ早に詰め寄られ、父は口を開くことさえ出来ない。父は「ペテン師」とか「食わせ者」呼ばわりされる。私は我慢し切れなくなり、割って入った。切手商の一味から父をもぎ取り、私たちはフォーブール・サントノレまで夢中で走って逃げたのである。

初出:「リベラル21」2025.09.08より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6860.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14420:250909〕