二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(17-上)

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『ボタン穴から見た戦争』――白ロシアの子供たちの証言』(岩波書店:刊、三浦みどり:訳)「はじめに」から

(ベラルーシ、1948~)の著作に触れ、深く心を打たれた。彼女は2015年度ノーベル文学賞を受けている。授賞理由は「我々の時代における苦難と勇気の記念と言える、多声的な叙述に対して」。その著作『ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言』(岩波書店:刊、三浦みどり:訳)の「はじめに」の一部を私なりに紹介したい。

戦争が殺してしまう子供の数を誰が数えられるでしょうか?
戦争は子供たちをしらみつぶしに殺してしまいます。この世に生まれた者たちも。生まれる筈だった者たちも。殺された兵士たちの横たわる戦場をうたった白ロシアの詩人、アナトーリイ・ヴェルチンスキイの「レクイエムか」では子供たちの合唱の声が響きます。生まれ出ることの出来なかった子供たちが泣き叫ぶ声です。その子たちはあちこちの共同墓地で泣き叫んでいます。

戦争の惨禍を経験した幼児は幼児と言えるでしょうか?
子供の日々を誰が返してくれるでしょうか?
かつて、ドストエフスキイは、「たった一人の子供といえども、その子の苦しみを代償にして社会全体の幸せを得ていいのだろうか?」と問いました。

ところが、その苦しんだ子供が一九四一年から一九四五年の間には何十万といたのです。

彼らが憶えていることとは何でしょうか?
何を語ることができるでしょうか?
語ってもらわなければなりません。なぜなら、今でもどこかで爆弾が炸裂し、弾丸がうなりを上げ、家々が木っ端みじんに爆破され、吹き飛ばされた子供用ベッドが破片と一緒に空から落ちてくるのですから。なぜなら、大戦争を起こしたい、ヒロシマ・ナガサキの惨劇を世界中で起こしたいと望む者が、原子力の炎の中で、子供たちを水滴のように蒸発させ,花のように無惨に干からびさせることを又もや欲する者がいるのですから。

五歳や十歳、いや十二歳で戦争を経験することのどこが英雄的なのか、そんな子供たちが何を理解し、眼にし、憶えていることができるのか、と問うこともできるでしょう。

実に沢山のことを子供たちは憶えています。

母親のことは何を憶えているのか?
父親のことは?
憶えているのは死んだということだけ。「燃え残りの火の中にお母さんのブラウスのボタンが一個残ってた。ペチカには未だ温かな丸パンが二切れ載っていた」(アーニャ・トチーツカヤ、当時五歳)。ドイツ軍のシェパードに八つ裂きにされかけながら、父は叫んでいた。「息子をどこかへ連れていってくれ、こんなことを眼にしないように、息子を連れ出して……」(サーシャ・フヴァレイ、当時七歳)。

飢餓や恐怖で死んでいった者のことも子供たちは話してくれます。家出して前線へ行こうとしたことも。「僕の手を借りずに戦争が終わってしまうのではないか心配だった。ところが、戦争はとても長く続いた。戦争が始まったのはピオネール(少年団:十~十五歳の児童組織)に入った時だったのに、終わったのはもうコムソモール(青年同盟:十四歳以上の青年組織)員になってからだった」(コースチャ・イリケーヴィチ、当時十歳)。

「お母さん、戦争に行かせて」「だめだよ」「それじゃ勝手に行くよ」

タンボフのスヴォーロフ専門学校に入れられた。戦前の教育は小学校三年まで受けただけなのでスヴォーロフ校の書き取りで一を取ってしまった。これはたまらないと学校を逃げ出し、前線へ行ってしまった」(連隊の息子<実戦部隊と共に行動した子供>、ワーリャ・ドンチック、当時十歳)。

一九四一年の九月一日、新学期になっても学校に行かなくてよかった時、どんなに学校が恋しかったことか。小さな兵士になっていった様子も憶えている。「君じゃどうにもならないな。君の背丈は銃の長さの半分じゃないか、と隊長は言った」(連隊の息子、ペーチャ・フィロネンコ、当時十一歳)。「ただ一つ残念だったのは、未だ大人になっていなくて飛行士になれなかったこと」(クララ・ゴンチャローワ、当時十四歳)。箱を踏台にして、やっと工作機械に背が届くくらいで、十歳や十二歳で、一日十二時間も働いたこと。父親の戦死公報をもらった時のこと。戦争が終わって初めてパンを丸ごと見た時、食べていいのかどうか判らなかったこと。「……四年間の戦争の間に白パンってどういうものか、忘れていた」(サーシャ・ノヴィコフ、当時十歳)。孤児院の女の先生を戦線に見送る時、子供たちは声をそろえて、「パパを捜してきて!」と言ったこと。その子供たちをよその人たちが養子にしたこと。そんな子供だった人たちに、母親のことを尋ねるのは今でもとても難しいことです。

子供の記憶というのは不思議なものです。レフ・トルストイもくるまれていたオムツの清潔で冷やっとした感触を憶えている、と主張しています。

当時三歳だったヴォロージャ・シャポヴァ―ロフの最も遠い記憶では、家族みんなが刑場へ引かれて行った時、誰よりも大きな声で泣き叫んでいたのは母だった気がします。「……お母さんが僕を抱いて、僕は首にかじりついていたから。お母さんの喉から出る声を両手で聴いていた」

一九四一年に六歳だったフェリクス・クラスは、今でも暖房貨車の負傷兵が投げ与えてくれた一切れのパンを忘れることができません。

「僕たちは一週間というもの、ひもじい旅を続けていた。お母さんが僕たちに乾パンの最後のかけらをくれて、自分は僕たちを見ていただけ。その負傷兵は、この様子を見たんだ……」。連隊の息子になったトーリャ・モローゾフは飢えて凍えきっている自分が森の中で戦車兵に拾われ、衛生係の女の人が長靴用の毛の硬いブラシでこすってくれたこと、「大きな石鹸の塊があればねえ」と言ったことを、自分は「石より黒かった」と話してくれました。

子供たちの運命はお互いに似ています。ロシアのスモレンスクと白ロシアの少年たち、ウクライナとリトアニアの少女たちの運命が。戦争は戦中世代共通の履歴です。子供たちが銃後にあったとしても、それも戦争の中の子供たちです。彼らの語ることもやはり戦争の初めから終わりまでの長さのものです。

初出:「リベラル21」2025.09.18より許可を得て転載
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