二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(18-中)

カズオ・イシグロ(イギリス、1954~)の代表作『日の名残り』(早川書房:刊、土屋政雄:訳)の続き

いずれにせよ、登って本当に良かったと思っております。確かに、なかなか骨の折れる道ではありましたが、丘を百ヤードほどジグザグに登るだけのことで、私には特に無理という道ではありません。登り終わった処に、ちょっとした空間があります。そこが男の言っていた場所であることは、容易に察しがつきました。ベンチがありましたし、何よりも、その丘を何マイル四方にも渡って取り巻いている、それはそれは素晴らしい田園風景が目に飛び込んでまいりましたから。

(中略)

宿からソールズベリーの街中に出てみたのは、四時を少し回ってからだと思います。どの通りも広々として風がよく通り、町全体に素晴らしくゆったりした感じを与えていました。そのため、暑めの陽射しではありましたが、私は何時間散歩しても少しも苦になりませんでした。それに、この町には見所も多いのです。あちこちで見かけた古い木造の家並みは、眺めるだけで十分楽しいものでしたし、町を流れる幾つもの川には小さな石橋が架かっていて、これを渡るのも楽しい経験でした。勿論、サイモンズ夫人が御本の中で絶賛しておられた、あの大聖堂を訪れることも忘れませんでした。この荘厳な建物は、ソールズベリーのどこからでも見える尖塔のお陰で、捜し当てるのが少しも難しくありません。夕方、宿へ帰る道々、何度も肩越しに振り返ってみましたが、どこで振り返っても、そびえ立つ大尖塔の背後に夕日が沈んでいくさまが見えました。

しかし、旅行の第一日が終わろうとしている今、この静かな部屋で私の心に甦ってくるのは、その大聖堂でも、ソールズベリーの名所の数々でもなく、やはり、今朝丘の上で見たあの素晴らしい光景、うねりながらどこまでも続くイギリスの田園風景のことです。勿論、見た目にもっと華やかな景観を誇る国々があることは、私も認めるにやぶさかではありません。私自身、百科事典や<ナショナル・ジオグラフィック・マガジン>で、壮大な渓谷や大瀑布、険しい山脈など、地球の隅々から送られてきた、息を呑むような写真を見たことがあります。そうした景観に直接触れたこともないのに、こんなことを申し上げるのはおこがましいかも知れませんが、私はあえて、多少の自信をもって申し上げたいと存じます。今朝のように、イギリスの風景がその最良の装いで立ち現れてくる時、そこには、外国の風景が――例え表面的にどれほどドラマチックであろうとも――決して持ち得ない品格がある。そしてその品格が、見る者に非常に深い満足感を与えるのだ、と。

この品格は、恐らく「偉大さ」という言葉で表現するのが最も適切でしょう。今朝、あの丘に立ち、眼下にあの大地を見た時、私ははっきりと偉大さの中に居ることを感じました。実に稀ながら、まがいようのない感覚でした。この国土はグレート・ブリテン、「偉大なるブリテン」と呼ばれております。少し厚かましい呼び名ではないかという疑義があるやにも聞いておりますが、風景一つを取り上げてみましても、この堂々たる形容詞の使用は全く正当であると申せましょう。

では、「偉大さ」とは、厳密に何を指すのでしょうか。それはどこに、何の中に見出されるものなのでしょう。この疑問に答えるには、私などよりずっと賢い頭が必要であるのは承知しております。しかし、敢て当て推量をお許し頂くなら、私は、表面的なドラマやアクションの無さが、我が国の美しさを一味も二味も違うものにしているのだと思います。問題は、美しさの持つ落ち着きであり、慎ましさではありますまいか。イギリスの国土は、自分の美しさと偉大さをよく知っていて、大声で叫ぶ必要を認めません。これに比べ、アフリカやアメリカで見られる景観というものは、疑いもなく心を躍らせは致しますが、その騒がしいほど声高な主張のため、見る者には、いささか劣るという感じを抱かせるのだと存じます。

いま申し上げたようなことは、実は、私どもの間で昔から論議されてきた一つの問題に、大変深い関わりがあります。それは、偉大な執事とは何か、ということです。一日の仕事が終わった後、召使部屋の火を囲みながら、この問題を飽きずに何時間でも論じ合ったことを思い出します。お気づきでしょうが、私は今、偉大な執事とは「誰か」ではなく、「何か」と申し上げました。実は、私どもの世代では、執事のあるべき姿を定めたのは誰であるかについては、ほとんど異論がありません。勿論、それはチャーチルビル・ハウスのミスター・マーシャルであり、ブライドウッドのミスター・レーンであったわけです。この二人には品格がありました。実際にこの二人に会われた方々には、私が「品格」という言葉で何を言わんとしているかがお判りでしょう。が、同時に、その品格の中身を定義することが決して容易ではないことも、すぐにお判りいただけると存じます。

ところで、よく考えてみますと、誰が偉大な執事であるかについて異論がないと申し上げたのは、実は必ずしも正しくありません。正確には、この種の問題に高い見識を持つ一流の同業者の間では異論がない、と申し上げるべきでした。ダーリントン・ホールに限りませんが、お屋敷の召使部屋という処は、知性も眼力も様々なレベルの者が出入り致します。(中略)私どもが毎晩でも論じ合って――勿論、基本的理解に欠ける輩の、つまらないおしゃべりで邪魔されなければ、の話ですが――飽きなかった問題、則ち「偉大大な執事とは何か」です。(中略)偉大な執事だと誰もが認める人々、例えばミスター・マーシャルやミスター・レーンを見るにつけ、この二人と単なる有能な執事との違いは、私には「品格」という言葉で最もよく表現されるように思われるのです。(中略)醜いご婦人がいくら努力しても美しくはなれないように、初めから品格を持っていない人は、いくらそれを身につけようと努力しても、結局は無駄ということになってしまいます。

確かに執事の大半は、いろいろやってみても、結局自分は駄目だったと悟らざるを得ないのかも知れません。が、それはそれとして、生涯かけて品格を追求することは、決して無意味だとは思われません。

「リベラル21」2025.11.10より許可を得て転載
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