オルガ・トカルチュク(ポーランド、1962~)の著作『逃亡派』(白水社:刊、小椋彩;訳)を一読し、文芸作品の奥深さを味わおう
彼女は2018年度のノーベル文学賞受賞者で、授賞理由は「博学的な情熱によって、生き方としての越境を象徴する物語の想像力に対して」。その代表作『逃亡派』の一部を私なりに紹介したい。
ばたんと音を立てながら、夏がクニツキの後ろで閉じた。そしてクニツキも、秋にそなえていた。サンダルを靴に、ショートパンツを長ズボンに履き替えた。机の鉛筆を削り、領収書を整理した。過去は存在するのをやめた。それは唯の生の欠片。もう惜しむには当たらない。だって彼の感じているのは、きっと、幻の痛みに違いないから。非現実の痛み、それぞれの不完全の、かつての全体を懐かしむ、失われた形の痛み。他に説明しようがない。
近頃、彼は眠れなかった。つまり、夜、眠る。疲れてベッドに倒れ込む。ところが、三時、あるいは四時には目が覚める。何年も前、洪水があった時みたいに。でもその時は、この不眠がどこから来るのか知っていた。天変地異が怖かったのだ。今は違う。災害なんて、何一つない。でも、何らかの穴、隙間が開いた。クニツキには判っていた。あるいはそれを言葉で縫い繕うことができるだろう、と。何が起きたか説明するために必要なだけの、相応しい、適切な言葉を見つけられたら、穴はきっと繕えるだろう。もしかしたら、跡形もなく。そして彼も、八時までぐっすり眠れる。時々、滅多にないが、頭の中である声が聞こえる気がした。一言二言、鋭い声。言葉は眠れない夜からも、せわしない昼からも、ぱつんと切り離されていた。神経単位(ニューロン)で何かが閃き、衝撃があちこちへ交差する。思考とは多分、こんなふうにして起こるんじゃないか。
これは理性の戸口に立つ幽霊だ。注文であつらえるオーダーメイドではなくて、まるで既製服。全然怖くない。聖書の洪水も、ダンテの一幕も、関係ない。ただ、水が動かないのが怖いのだ。それがどこにでもあることが。水は壁から浸み入り、部屋に侵入してくる。クニツキは指で、ふやけた、病的なモルタルを調べてみた。湿った染料が皮膚に付いた。シミは壁に、どこかの国の地図を描いていた。クニツキはそれらの国を知らない。どんな国の名前で呼ぶのも、適当ではない気がする。しずくが窓枠を伝い、カーペットに滴っていた。壁に釘を打ち込めば、水が細く吹き出すだろう。引き出しを開ければ、水がぴちゃぴちゃ音を立てるだろう。石を持ち上げてみて。私はそこに居るから、と水が囁く。水はコンピュータのキーボードに流れ込み、スクリーンの画像を消した。クニツキはアパートの建物から脱出した。そして、砂場や、花壇や、低い生け垣が消えていくのを見た。くるぶしまで水に浸かりながら、車まで歩く。もっと高台に移動しよう、と。でも、もう手遅れだった。水が取り囲み、罠にはまってしまった。
喜べよ、全て無事に済んで良かった、と。暗闇の中、トイレに起きて、クニツキは自分に向かって言ってみる。ああ、すごく嬉しいさ。彼は自分で自分に答える。でも、本当は、全然喜んでいなかった。彼は暖かいベッドに戻り、今度は、朝まで目を開けている。彼の足は不安がっている。どこかに行きたがっている。足は自分の意思だけで、着ているもののひだを伝って、非現実の散歩に出かける。内側から蟻が這ってくるようにむずがゆい。明け方、エレベーターが動き、絶望的な、軋むような泣き声が聞こえる。二次元空間に捉えられた存在の泣き声、そこにあるのは、上か下だけ。斜めも、脇も、絶対に無い。世界は前に動き始める。修復できない綻びと共に、世界は片脚を損ない、引きずっている。
クニツキも世界と一緒に片脚を引きずり、トイレまで行き、それからキッチンのカウンターでコーヒーを飲む。そして妻を起こす。寝ぼけたように、彼女は黙って洗面所に消える。
眠れないことには利点もあった。妻の寝言が聞こえたのだ。こうして、大きな秘密が幾つか明らかになった。それは不意に、まるで煙のリボンのように立ち上り、あっという間に消えてしまう。だから唇のすぐ傍で、捕まえなくてはならなかった。だからクニツキは、思いを巡らせ、耳をすませた。彼女は静かに眠っていた。お腹で、ほとんど聞こえない位の寝息をたてながら、時々、ただ溜め息をつく。でも、その息の中にも言葉はない。寝返りを打つ時、彼女の片手は本能的に別の身体を探していた。彼を抱こうとし、彼の腹に足を乗せる。そんな時は、一瞬、凍り付く。一体、これはどういう意味だ。そして結局思うのは、この動きはただ機械的なものに過ぎなくて、放っておけばいいということだった。
何も変わっていない気がした。彼女の髪が陽に焼けて色褪せたことと、鼻に幾つかそばかすができたこと以外は。でも、いつか彼女に触れた時、その裸の背中に手を這わせた時、彼には何かを見つけた気がした。でも、彼自身にも判らない。今の肌には引っ掛かりがあった。防水布のように目が詰まり、前より硬くなっていた。
それ以上、探ることは許されなかった。彼は畏れて、手を引っ込めた。半ば夢の中で、彼の掌は他人の領土を発見した。それは結婚生活の七年のうちに、気がつかなかった何かだ。恥ずべき何か、痣みたいなもの。体毛で覆われた部分、魚の鱗、鳥の羽毛、異常な構造、変則。
だから彼はベッドの反対の端に身を寄せて、その地点から、彼の妻を成すかたちを見ていた。窓から入る微かな外の灯りの中で、彼女の顔の青い輪郭だけが見えた。彼はこのシミを見ながら眠りに落ち、眼が覚めた時には、寝室はすっかり明るくなっていた。射しこむ光は金属的で、部屋全体を銀色に染めた。しばらくして、彼はぎょっとした。彼女が死んでいるような気がしたのだ。彼女の胴体と、乾いた空っぽの身体を見た。もう随分前に、そこから魂が飛び去ってしまったような。怖くはない、ただ驚いただけだ。そしてこのイメージを追い払おうと、彼は彼女の頬に触れた。彼女は息をつき、こちらを向いて、手を彼の胸に置いた。魂が戻ってきた。それ以降、彼女は規則正しく呼吸していた。でも彼自身は動けなかった。この居心地の悪い状況を、目覚まし時計が壊す時をひたすら待った。
「リベラル21」2025.12.02より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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