二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(20-中)

マリオ・バルガス・リョサ(ペルー/スペイン語 1936~2025)の著作『街と犬たち』(光文社:刊 寺尾隆吉:訳)続き

それまでの間、アルベルトは土曜日の外出について思案する。

<十人位の奴があの映画を夢に見て、下着姿の女、その脚や腹にとりつかれることになれば、またエロ小説を書いてくれと頼んでくるかも知れない。けれど、前金を取るにしたって、明日が化学のテストじゃ、そんな時間もないし、おまけに、ジャガーに金を払って問題をバラしてもらわないといけない。手紙の代筆と引き換えに、バジャーノが教えてくれればいいが、あの黒んぼは信用できない。代筆を頼んでくるにしたって、水曜日にみんなラ・ペルリータか博打ですっからかんになった後だから、現金で払える奴なんかいるわけがない。居残りの連中がタバコを注文してくれるか、代筆やエロ小説が転がり込んでくれば、二十ソル位なんとか、いや、食堂とか教室とかトイレとかに二十ソル入った財布が落ちているとか、そんな幸運はないかな。それとも、犬たちの宿舎へ忍び込んでロッカーを開ければ、二十ソル位見つかるかな。一人五十センターボ(一センターボは一ソルの百分の一)ずつ四十人から盗れば、気づかれずに済むかも知れない。しかし、誰か目を覚まさないとも限らないし、四十センターボしか持っていない奴だっているかも。そんな手より、下士官か中尉の処へ行って、二十ソル貸して下さい、僕はもう一人前の男なんです、誰が何と言おうと、僕も黄金の足姫の処へ行きたいんです、と直訴した方が……>

声の主が誰か判り、自分が歩哨の持ち場を離れていることに気づくまでアルベルトは少し時間がかかる。もっと大きな声でもう一度「何をしている、そこの士官候補生?」の言葉が聞こえて、今度はようやく体も心も反応。顔を上げたところで彼の眼に、留置場の壁、ベンチに腰を下ろした兵士数名、鞘から抜いた剣を霧と影に突き付ける英雄像が次々と殺到してくる。懲罰リストに載った自分の名前が頭をよぎると共に、狂ったように心臓が脈打ち、パニックで僅かに舌と唇が震えるのを感じながら、英雄の銅像と自分の間、僅か五メートル先で、レミヒオ・ワリナ中尉がじっと自分に視線を注いでいることが判る。

「ここで何をしている?」

(中略)

「私は病気なのだと思います、中尉。体ではなく、頭です。毎晩、悪夢に悩まされます」

へりくだった姿を見せるためにアルベルトは腰を下ろし、頭が真っ白になったまま、唇と舌が勝手に動いて、蜘蛛の巣を張り巡らせる。その勢いに身を任せて、ゆっくり話しながら、迷宮に蛙を迷い込ませようとする。「恐ろしい夢です。中尉、人殺しをすることもあれば、人の顔をした動物に追い回されることもあります。目を覚ますと、汗まみれで震えています。恐ろしい夢です、本当なんです」。士官は生徒の顔をじろじろ眺め回す。蛙の目に生気が宿ってきたことがアルベルトに判ってくる。死にかけた星のような瞳に不安と驚きの色が宿る。<笑い出すだろうか、泣き出すのだろうか、叫び出すのだろうか、駆け出すのだろうか>

ワリナ中尉は観察を終え、出し抜けに一歩後ろへ下がりながら大声で言う。

「道徳上の問題だと!間抜けな奴だな」。アルベルトは息を止める。レミヒオ・ワリナ中尉の眉が緩み、口が開くと共に目が横に伸びて、額に皺が寄る。笑い声が聞こえる。「間抜けな奴だな、こん畜生め。持ち場へ戻れ。見逃してもらって有難いと思え」

「はい、中尉」

アルベルトは敬礼と共に反転し、次の瞬間、ベンチで体を丸めた留置場付き兵士数名の姿が目に入る。背後から声が聞こえてくる。(中略)五年生宿舎の中庭へ続く通路へ出ると、海のさざめきがじめじめした夜を揺さぶっている。コンクリート壁の向こうに宿舎の闇、ベッドに体を丸めた生徒の存在が感じられる。<宿舎に居るのか、トイレか、草むらか、それとも死んでるのか、どこへ行ったんだ、ジャガーの野郎>ぼんやりと明かりに照らされた人気のない中庭が、寒村の広場のように見える。他の歩哨は見当たらない。

<どこかで博打をやってる筈だ、ビタ銭の一つもあれば。二十ソル勝てるかも知れない。あいつも博打の最中だろう、見せてくれるといいがな。代筆でもエロ小説書きでもする。だから見せてくれ。この三年間、あいつから何か頼まれたことは一度もない。ああ、このままじゃ化学のテストは落第だ>

通路を抜けたが、誰とも出会わない。一組と二組の部屋に入ると、トイレが二つあり、その一つから悪臭が漂っている。わざと音を立てて歩きながら他のトイレも調べてみるが、生徒たちの落ち着いた寝息、熱い寝息しか聞こえない。五組まで来て、トイレのドアに手を掛ける前に立ち止まる。誰かが譫言を発している。混乱した言葉の流れから、辛うじて女の名前だけ聞き取れる。

<リディア。リディア? アレキバ出身の奴の恋人が確かリディアだった、手紙や写真を見せてくれたことがあって、辛い胸の内を話していたな。愛してるとかなんとか、甘い言葉でも勝手に書いていろ、俺は司祭じゃないぞ、畜生め、間抜けな奴だな。リディアだと?>

七組のトイレでは、便器の列の脇に人の輪が出来ている。緑色のジャケットを着て体を丸めた姿はせむしも同然だ。床に放り出された銃が八丁、もう一丁は壁に立て掛けられている。トイレのドアが開いており、部屋の入口からアルベルトが彼等の姿を認める。前へ進むと、影が行く手を遮る。

「誰だ? 何の用だ?」

「大佐だ。誰に断って賭博をしている? 死んでも持ち場を離れるなと言われてるだろう」

アルベルトがトイレに入ると、十人ほどの疲れた顔が彼を見つめる。歩哨たちの頭上にテントのような煙の幕が出来上がっている。知った顔はない。どれも似たりよったりの浅黒く野暮ったい顔。(中略)

悪態の声が聞こえる。また中庭へ出て、一瞬迷った後、空き地に向かう。

<草むらで寝てるのか、俺が当番の時にテストを盗んでいたら、あの野郎め、それともバックレたのか>

空き地を横切って、学校の奥の壁に突き当たる。バックレるとすればここからで、ここなら、向こう側は平らな地面だから、飛び越えた時に脚の骨を折る心配もない。一時は毎晩のように壁を飛び越えていく影が見えて、夜明け頃また戻ってきた。

「リベラル21」2025.12.26より許可を得て転載
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