二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(22-上)

莫言(中国―1955~)の著書『赤い高粱』(岩波現代文庫:刊、井口晃:訳)

本書を読み、著者独特の強烈な個性に感じ入った。私が特に感銘を受けたくだりを以下に紹介しよう。

第一章 赤い高粱

一九三九年旧暦八月九日、わたしの父――盗賊のせがれは未だ十四歳になったばかり。父は、伝奇的な英雄として後の世に名を轟かす余占青司令の遊撃隊と共に、膠県・平度県間の公路で日本人の自動車隊を待ち伏せ攻撃しに出かけたのだった。祖母はあわせの上着を羽織って、村外れまで彼らを見送った。

「もういい」 余司令に言われて、祖母は立ち止まった。祖母は父に言った。 「豆官(トウクアン)、義父(とう)さんの言うことを聞くんだよ」 父は黙って、祖母の大柄な身体を眺め、祖母の袷(注:裏付きの着物)の内側から広がる温かい香りを嗅いでいたが、突然ゾッとするような寒気に襲われた。父は一つ身震いした。腹がグルグルと音を立てる。余司令は父の頭を軽く叩いて言った。「さあ、行くぞ」

天と地の見極めは付かず、周囲の風景はぼんやりと霞み、隊伍の乱れた足音はもう遥か彼方へ遠ざかっていた。行く手には青みがかった白い霧のとばりがかかって、視線を阻んでいる。足音は聞こえるが、隊伍の姿はまるで見えない。余司令의服の端を掴んで、父は駆けるように両足を動かした。祖母の姿は岸のように遠ざかり、霧は近づくにつれて海水湧きたった。父は船べりを掴むように、余司令に掴まっていた。

こうして、私の父は故郷の真っ赤な高粱畑に聳え立つ黒石の無銘墓碑、彼自身の墓(注:死地の意)へと向かったのだった。枯れ草が風に震える頃、その墓に、尻を丸出しにした一人の男の子が一頭の真っ白な山羊を引いてやってきた。山羊はゆっくりと墓の上の草をはむ。男の子は墓碑の上に立ち、怒りに任せて地べたに放尿してから、声張り上げて歌った。(^^♪) 高粱が赤い――日本人がやって来る――同胞よいざ――銃と砲とをブッ放せ――。

この山羊を連れた男の子が私だと言う者もいるが、それが私だったのかどうか私は知らない。かつて私は高密県東北郷に惚れ込んでいた。高密県東北郷を憎み切っていた。(注:愛憎相半ばする意)大人になってからマルクス主義を懸命に学んで、私は悟った。高密県東北郷は地球上で最も美しくて醜く、最も超俗的で俗っぽく、最も清らかで汚らわしく、最も雄々しくて、人の道に外れ、最もよく酒をくらい、愛し合うのに相応しい処だったのだ。

この地に生きる我が同郷の人々は高粱を好み、毎年大量の高粱を植え育てた。秋深い八月、果てしなく広がる高粱は広大な紅い血の海となる。高粱は生い茂って輝き、高粱は悲しさを人に伝え、高粱は愛の心を揺さぶる。秋風はもの淋しく、日の光は強く、瑠璃色の空には次々に大きな綿雲が流れ、赤紫色の影が高粱の上を滑っていく。数十年変わることなく、獲物を目指す暗赤色の男の群れは高粱の茎を縫って行き来し、網を仕掛けた。彼らは殺し、奪い、国のために身命をなげうった。彼らが次々に演じた壮烈な舞劇は、今を生きる我ら不肖の子孫の無様さを際立たせる。進歩の傍らで、私は種の退化を痛切に感じるのだ。

村を出た隊伍は、狭い田舎道を進んだ。人の足音に路傍の雑草が微かに触れ合う音が混じる。霧は異様に濃く、目まぐるしく変化した。父の顔に、無数の小さな水滴が集まって大粒の水玉となり、僅かな髪が頭皮に粘り着く。道の両側の高粱畑から漂ってくる淡い薄荷の香気と熟し切った高粱のほろ苦い香りは馴染み深く、珍しくもない。霧の中を行軍しているうちに、父は初めて、得体の知れない生臭い臭いを嗅ぎ付けた。薄荷と高粱の香りの中を透過してくる微かな臭いが、父の胸の奥にある、遥か遠くの思い出を呼び覚ます。

七日後の八月十五日、中秋節。明るい月がゆったりと昇った。一面の高粱はひっそりと立ち、月の光に浸る高粱の穂は、水銀にまぶしたようにきらきらと輝いていた。切り絵のようにくっきりとした月影の下で、父は今時とは比べ物にならぬほど強烈な生臭い臭いを嗅ぎつけた。余司令に手を引かれて高粱畑を往くと、身を縮め、うつ伏せになった三百余の村人の死体が、無秩序に転がっていた。流れ出た鮮血は広い高粱畑に注いで地上の黒土に染み、二人は血と泥のぬかるみに足を取られた。息が詰まるような生臭さ。人肉を喰らいにきた犬の群れが高粱畑に座って、ぎらぎらと目を光らせながら父と余司令を見つめた。余司令が自動拳銃を取り出し、腕を一振りして一発ぶっ放すと、犬の目が二つ消えた。そしてまた一発、犬の目が二つ消えた。犬どもはどっと逃げ散り、ずっと離れた処でウーウーと吠えたてながら、貪欲に死体を眺めている。臭気は一段と強烈になり、余司令が大声で叫んだ。「日本の犬野郎! 雌犬のガキども!」

彼が犬の群れめがけてありったけの弾を撃ち終えると、犬どもは雲を霞と逃げ失せた。 「行くぞ、お前!」 余司令が父に向かって言い、二人は月の光を浴びて、高粱の茂みの奥へと歩み去った。田野にみなぎっていた、その生臭い臭いは私の父の魂に沁み通り、その後の最も激しく、最も残酷な歳月の中で、いつまでも彼に付きまとうことになる。 霧の中で高粱の茎と葉がざわざわと叫び、低湿地を貫く墨水河の明るいざわめきが、強く弱く、遠く近く、ゆったりと流れていた。

初出:「リベラル21」2026.02.27より許可を得て転送
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6992.html

〈出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net// 
 [opinion14701:260227]