ヘルタ・ミュラー(ドイツ、1953~)の『狙われたキツネ』(山本浩司:訳、三修社:刊)の続き
医者がやってくると、誰もが一歩ずつブリキ職人から離れた。まるで今にしてようやくショックを受けたかのようだった。そうして医者が死神を連れてきたとでもいうかのように、みんなは黙り込んで沈痛な表情を浮かべた。
医者はブリキ職人の服を脱がして裸にしたが、そのとき鍋の山に目がとまった。そして無理やり死人の両手を引っ張りながら、「両手併せて三本しか指がないのに、どうして鋳掛けなんかできたんだ?」と言った。医者がブリキ職人のズボンを床に投げた時、そのズボンのポケットからアンズが二個転げ落ちた。丸くてすべすべしたアンズは黄色く色づいていて、その色がもう鍋底に食らいつくことのない火の色を思い出させた。アンズはきらめきながらそのまま机の下に転がっていった。
ブリキ職人の首にはいつも通り紐がかけられていたが、結婚指輪がなくなっていた。
その後数日の間、小学校女教師のアディ―ナは、街路樹の下で息をする度に、口の中が苦くなったものだった。彼女は、壁の漆喰にできた亀裂を見ても、ひび割れたアスファルトを見ても、指輪のなくなった紐を見るような思いがした。最初の午後は犯人は仕立屋のおばさんだと、晩には<青草の臭いをさせた男>だと思い。翌日の昼間には床屋を疑った。そして薄暮の前触れもなくあっという間に闇夜が訪れたその夜には、医者が怪しいと思ったのだった。
ブリキ職人の死後二日たって、アディ―ナの母は、ニンジン畑の間を抜けて近在の村に出かけていった。下町から白壁が小さく光って見えるあの村だ。復活祭が迫っていたので、彼女は羊の肉を買おうと思ったのだ。羊を沢山飼っているその村で、アディ―ナの母が聞かされたところによると、首をくくった男の処には子供が一人居たらしかった。
「どこの馬の骨かも判らないガキよ」と村の女たちは口々に言っていた。「ブリキ職人の首から指輪を盗んだのはそのガキに決まってる」
指輪は金で出来ていたから、それを売れば、ブリキ職人の棺を包む布くらい買ってやることもできただろうに。けれども作業机の引き出しにあったお金では、板が剥き出しになった窮屈な箱をなんとか調達するのが精いっぱいのところだった。
「あんなものはとても棺桶と呼べるような代物じゃない。板の背広と言った方がましな位」と村の女たちは口をそろえた・・・・・・
馬を連れた男は相変わらず道端に立っているが、一台のバスが通りかかって、男の姿をかき消してしまう。バスが通り過ぎた後には、男は砂煙に包まれ、その周りを馬がうろうろする。男はロープを飛び越えてからロープを立ち木の幹に回し、しっかりと輪を結ぶ。そしてパン屋のドアを通って、パンを買おうと並んで待っている人々の行列に割り込んでいく。
みんなに怒鳴られながらその列に紛れこむ前に、男は馬の方を一度振り向くのだが、それに答えるように馬は片脚の蹄を上げる。次のバスが通過しても、未だ馬は三本脚で立ったまま、幹に腹をこすり付けている。
アディ―ナの目に埃が入った。鼻を鳴らして樹皮を嗅ぎ回る馬の頭がぼやけて見えなくなる。目の隅に入った埃を指先にとってみると、その正体はとても小さな蠅だった。馬はアカシアの木の枝をむしゃむしゃと食べだし、馬の口に当たった葉がかさこそ鳴る。アカシアの細い枝にはトゲがあって、馬の喉からはバリバリッという音がする。
男が姿をくらましたパン屋の店先からは暖かい空気が外に流れ出ている。バスがお尻から次々と大きな粉塵の輪を吹き上げている。どのバスにも太陽がしがみ付いてタダ乗りしているが、曲がり角にくると、ボタンを留めていないシャツのように、その光がはためく。この朝はガソリン、埃、それにボロ靴の臭いが混じった複雑な臭いをさせている。誰かがパンを手にして傍を通りかかると、歩道に今度は空腹の匂いが立ち込める。
パン屋の中で盛んに喚き立てている客たちに取り付いた空腹は、透き通るような耳、硬い肘、そして、物を噛むには役立たないが、喚き立てるには十分に用をなす歯を我が物にしている。ここには無数の肘がひしめき合っているというのに、焼き立てのパンは数えるほどしか並んでいない。
埃が一番高く舞い上がるのは、道幅が狭くなっている処で、その辺りの建て込んだ公営アパート団地はひしゃげたようになっている。道端の雑草は伸び放題だし、例え花を咲かしたところで、けばけばしくどぎつい色の花が咲くばかりだ。しかしその花もすぐに強風にずたずたにされてしまう。こんなけばけばしい花が咲いている処に限って、ひどく貧しい地域なのである。夏は自らを脱穀する仕事に精を出すが、この辺りの住人たちのみすぼらしい服を脱穀殻と勘違いして仕事の出来に独り満足している。窓ガラスがどんなに輝いていても、それを見つめてくれる人の目は家の中にも外の通りにもない。窓ガラスの輝きにとって人の目というのは、草にとって飛散する種子が欠かせないものであるように必要不可欠なものだというのに。
その辺りの子供たちは、遊び半分に草を地面から引っこ抜いては、茎を折ってその乳液を吸う。遊びとはいっても、そんなことをするくらい腹を減らしているのだ。そんなだから子供たちの肺の成長は止まっている。草の乳液を栄養として増殖するのは、汚い指先のイボ位のものだ。歯の栄養にもならないものだから、子供たちの乳歯はすぐに抜け落ちてしまう。しかもぐらつき出したら最後、しぶとく頑張ることさえなくて、ごく普通に話している最中にあっさり手の上に落ちるのだ。子供たちは抜けた乳歯を、今日は一本、明日また一本といった調子で、肩越しに後ろの草むらめがけて投げる。そうして歯が地面に落ちるまでの間に、こんな呪文を唱えるのだ。<ネズミさんネズミさんちゃんと新しい歯持ってきてよその代り古いのはあげるから>
草むらのどこかに歯が行方をくらませてしまうと、子供らは振り返る。そしてそれを幼年時代と名付けるのだ。
初出:「リベラル21」2025.7.18より許可を得て転載
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