二十一世紀ノーベル賞文学作品を読む(16-上)

パトリック・モディアノ(1945~、フランス)は「現代のマルセル・プルースト」とも評されるフランスの現代作家

彼は2014年、ノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「最も捉え難い人々の運命を召喚し、ナチス・ドイツによるフランス占領下の生活世界を明らかにした」。その代表作の一つ『パリ環状通り』(講談社:刊、野村圭介早稲田大学名誉教授:訳)の一節を私なりに紹介しよう。

私が最初に彼に会ったのは十七歳の時だった。ボルドーの聖アントワーヌ高等中学校の舎監長が、応接室で面会人が待っている、と私に知らせた。くすんだフランネルの背広を着、日焼けした見知らぬ男が、私を見ると立ち上がった。
「私が、君の父親で……」
私たちは再び外で会った。学年末の七月のある午後。
「バカロレア(大学入学資格試験)に合格したそうだが?」
彼は私を見て微笑する。私は、八年間もくすぶっていた寄宿舎の黄色い壁に最後の一瞥を与えた。
さらに遠く記憶の糸を繰ってみると、……白髪交じりの夫人の姿が思い浮かぶ。彼はその夫人に私を預けた。彼女は、大戦前はフロリックス(グラモン街のバー)の携帯品預かり係をやっていたが、その後リブ―ルヌに引き籠った。私は、そこの彼女の家で成長したのだ。

その後、ボルドーの高等中学校に入学。
雨が降っている。父と私は、一言も口を利かずシャルトロン河岸まで並んで歩く。そこに、私の保証人であるぺサック家がある(一家は、ブドウ酒とコニャックでたんまり稼ぐ特権階級だが、こんなのは早くくたばればいいのだ)。ぺサック家で過ごした午後の日々は。私の半生で最もうら侘しかった、と言えるし、それについては語る気にもなれない。

私たちは、ものものしい感じの階段を上る。女中が扉を開ける。私は、物置まで急いだ。そこに本の一杯詰まったトランクを置かせてもらっていたのだ(ブルジェや、マルセル・プレヴォや、デュヴェルノワの小説、厳しく学校で禁じられていたものばかり)。不意に、私はぺサック氏の乾いた声を聞いた。「そこで何をしておられるのでしょうか?」。彼は父に向って話しかけていた。そして、トランクを手にした私を見て眉をひそめ、「出て行くのですか?この方は一体、誰?」。私は躊躇した。が、すぐ早口で「私の父です」。明らかに、ぺサック氏は、私の言葉が信じられないようだった。
疑い深い口調で、「まるで君たちは、泥棒が逃げ出すみたいじゃないか」。この言葉は、私の記憶に焼き付いた。全く、私たちは現場を押さえられた二人の泥棒そっくりだった。
褐色のジャケットを羽織り口髭を蓄えた小柄なぺサック氏を前に、父は黙りこくったまま、平静を装うため頻りと葉巻を噛んでいる。

私には、たった一つのことしか頭になかった。即ち、できるだけ速やかにここをおさらばすること。ぺサック氏は父の方に向き直ると、しげしげとその姿を眺めた。とかくするうちに、夫人が現れ、続いて娘と長男も顔を出す。彼らは黙って、じっと私と父を見つめる。まるで、私たちは、このブルジョワ家庭に不法侵入したみたいだ。父が葉巻の灰を絨毯の上に落とした時、私は、彼らの表情に興がった侮蔑の影が差したのを認めた。
娘がプッと吹き出す。ニキビ面した青二才の長男は、<英国風の粋>を気取り(ボルドーではよく見かけることだ)乙にすました声でこう言った。「灰皿が必要なんじゃないの?」。すると、ぺサック夫人が「これこれ、フランソワにマリー、不作法はいけません」とたしなめたが、夫人は私の父を見つめながら、不作法という言葉にことさらアクセントを置いた。不作法とはあなたのことですよ、とでも言わんばかりに。

ぺサック氏は冷静を保ったまま尊大に構えている。彼らの気に障ったのは、明らかに父の着ている色褪せた緑色のワイシャツとその近東風の容貌だった、と私は思う。四人の明白な敵意を前に、父は、まるで網にかかった大きな蛾のようだ。彼は、吸いかけの葉巻をいじくり回しながら、どこで火を消したものか、と思案している。父は出口の方に後ずさりした。彼らは、じっと立ち尽くしたまま、破廉恥にも、その困惑ぶりを楽しむ。
不意に私は、知り合ったばかりのこの男に対して一種の愛情を覚えた。私はつかつかと歩み寄ると、大きな声で「失礼致します」と言って、その頬に接吻した。そして彼の指から葉巻を奪い取ると、ぺサック夫人が大切にしている、貝殻などを象嵌した大理石のテーブルで、丹念に押しつぶして火を消した。私は父の袖を引っ張った。
「これでいい。さあ、もう行きましょう」

私たちは、父の荷物が置いてあるスプランディッド・ホテルに立ち寄った後、タクシーでボルドーのサン・ジャン駅に向かった。列車の中で、私たちは少しずつ簡単な会話を交わし始める。「事業」が忙しく、自分が生きているということさえ知らせることもできなかった、しかしこれからはずっと一緒にパリで生活するのだ、と彼は説明した。
私は、感謝の言葉を口ごもりながら告げる。唐突に彼は「さぞかし、いろいろ苦労したことだろう」と言う。また、あんまりよそよそしい口の利き方をしてくれるな、と漏らした。
互いに一言も口を利くことなく、一時間が過ぎ去る。食堂車に誘われたが断り、彼が留守をしている間に座席に残された黒い折鞄を調べた。中には、亡命者用パスポートだけ。パスポートには、確かに私と同じ姓が書き込まれている。名はアンリとシャルバの二つ。生まれはアレクサンドリア、彼の生まれたのはこの町が未だ独特の光輝を放っていた頃であろう。

彼は車室に戻ると、巴旦杏〈はたんきょう)の入った菓子を差し出し――その仕草に、私はほろり、とした――私が本当に「パシュリエ(大学入学資格者)」か、と尋ねた(なんとなく畏れ多いとでもいったふうに、パシュリエと唇の先っちょで、もぐもぐ発音する)。「そうです」と答えると、うん、うん、と大きく頷く。
私は、思い切って二つ三つ質問した。何故、私を引き取りにボルドーに来たのか?どうして、そこに居るのが判ったのか?すると、彼はただ曖昧な仕草をするか、「後で説明してあげよう……」「いずれ判ることだ」「人生とはねえ……」といった決まり文句を並べるだけだった。それから彼は、溜息をつくと、物思いに沈んでいるような恰好をした。

初出:「リベラル21」2025.09.08より許可を得て転載
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〔opinion14419:250908〕