二十世紀世界文学の名作に触れる(21) W・チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』――未曾有の酷い惨禍はなぜ発生したのか?

 イギリスの宰相として第二次大戦を指導~勝利に導いたウィンストン・チャーチル(1874~1965)は著作『第二次世界大戦回顧録』によって1953年、ノーベル文学賞を受けている。彼は第一次大戦も閣僚の一員として経験しており、軍人上がりの戦略家にして名文家でもあった。この回顧録は英文で六巻、日本語版は全二十四巻(毎日新聞社刊)から成る。私は到底全部は読み切れず、『回顧録 抄』(2001年刊、毎日新聞社翻訳)を参照し、いかにもチャーチルらしい触りのごく一部分を以下のように抜粋してみた。

 ▼二十年間の休戦
 第一次大戦が終結した後、平和への希望が全世界にみなぎり、アメリカの大統領ウィルソンは国際連盟という概念を提起した。侵略の主犯で大惨劇の元凶と目されたドイツは、征服者の思いのままになる立場にあった。が、ベルサイユ条約は、事実上ドイツをそのまま手を付けずに残した。フォッシュ元帥(マルヌの会戦での奇跡的勝利に貢献したフランス軍の総指揮官)は「これは平和(条約)ではない。ただ二十年間の休戦だ」と断言した。

 平和条約の経済条項は有害愚劣で、ドイツは無法な賠償支払いを宣告された。しかし、実際には条項は遂に履行されず、逆に主として米英両国から十五億ポンド余が貸与され、ドイツは急速に復興する。特にアメリカは大まかな金の貸し方をし、ドイツは当時あらゆる方面から借金をし、提供される全てのクレジットは貪るように飲み込んだ。

 ワイマール共和国(ワイマール憲法に基づく1919~33年のドイツの政体)は、あらゆる自由主義的な装いと祝福にも拘らず、敵に強制されたものと見做された。その空虚の中に、凶暴な天才――かつて人間の心を蝕んだものの中で最も害毒の激しい憎悪の集積と表現――陸軍伍長ヒトラーが踏み込んできたのだった。
 ドイツの財政的、政治的混乱と19~23年の賠償支払いの結果として、マルクは急激に崩落した。中産階級の貯蓄は根こそぎなくなり、国家社会主義の旗に対する自然の追従者ができた。ドイツの苦悩と憤怒は推し進められた。

 21年のワシントン会議で海軍の軍備縮小案が提案され、英米両国は決意を以て自国の戦艦を沈め、軍事施設を破壊した。アメリカは日英同盟の継続は英米関係の侵害になるとイギリスに告げ、この同盟は消滅せざるを得なくなった。この同盟廃棄は日本に深刻な印象を与え、西欧世界のアジア国排斥と見做された。

 ドイツとロシアの没落により、日本は世界海軍国中の第三位になっていた。ワシントン海軍協定は、日本に対する主力艦保有量割り当てを英米より低く規定(五・五・三)した。日本は事態の進行を注意深く見守った。かくして、欧州でもアジアでも平和の名において戦争再発の道を開く条件が、戦勝連合国によって急速に作られた。

 ▼揺らぐヨーロッパ文明
 ファシズムはコミュニズムの影であり、その醜い子である。ヒトラー伍長がミュンヘンでドイツ敗北の責めをユダヤ人とコミュニストに負わせ、彼らに対する兵士や労働者の憎悪を猛烈にかき立てた。もう一人の山師ムッソリーニはイタリアに新しい政治方式を持ち込み、イタリア国民を共産主義から救うのだと叫びながら独裁権力を握った。ファシズムがコミュニズムから生まれたように、ナチズムはファシズムから発展したのだ。この二つの運動は、やがて世界をさらに恐るべき闘争へ投げ込む運命を約束したのだった。

 31年まで勝利者たち、特にアメリカはドイツから年次賠償を取り立てるのに専念した。この支払いが、それより遥かに多額なアメリカからの借款によって履行された事実は、全てをバカげたものにした。その収穫は、悪意以外の何物でもなかったのだ。
 しかし、もし平和条約の非武装条項が34年まで厳格に守られていたなら、暴力や流血の惨事もなく、人類の平和と安全は保たれたであろう。しかし事実は、条項違反が小さい場合は問題にされず、違反が重大になるに従って敬遠される傾向があった。
 こうして、長期平和の防壁は捨て去られた。敗者はその犯罪の釈明と背景を、勝者の愚行の中に求めた。これらの愚行がもしなかったら、犯罪は誘惑も機会も見出さなかっただろう。

 本書は、人類の波乱多き歴史において、最悪の悲劇が人類の上に襲来した物語である。第一次大戦では兵員の恐るべき殺害が行われ、各国の蓄積された財産の多くが消費された。しかしロシア革命の行き過ぎを別にすれば、ヨーロッパ文明の主要構造は戦争終結時もなお立派に残っていた。戦争法規は大体尊重され、敗者も勝者も文明国の外観を保っていた。

 第二次大戦では、人と人との一切の結びつきは消滅しなければならなかった。ヒトラーに征服を許したドイツ国民は、彼の支配下で罪を犯した。それは規模と邪悪さにおいて、人類の記録を比類がないほど暗黒なものにした。ドイツの処刑所において、六~七百万人の男女・子供が組織的方法によって大量虐殺されたことは、ジンギスカンの無法な虐殺の恐怖をも遥かに超越するものだった。

 空からの無防備都市爆撃という恐るべき方法が、一度ドイツ人によって開始されるや、連合国の高まりゆく力によって、それらは二十倍にも増幅される。遂には、広島と長崎を壊滅させた原子爆弾の使用となった。過去幾世紀における人類のいかなる想像をも超えて、これほど全世界を暗くさせたものはなかった。

 誇り高き敗戦国民が、できるだけ早く再軍備しようと努めるのは自然の理である。戦勝国は自分自身十分の軍備を維持しつつ、常に監視を怠らず、権威を以て旧敵国の再軍備を禁止する条項を強制すること。また、あらゆる手段によって真の友情と共通利害の基礎を作るよう努力し、相手が再び武器に訴えようとする衝動を絶えず減らすことである。
 (以下「大戦勃発」~「枢軸軍の運命」の個所はスペースの関係でカットする。)

 ▼日本に対しての言及
 41年2月、私はロンドンの日本大使館と在留日本人が、そわそわして落ち着かないのに気づいた。彼らは興奮状態で、軽率にぺらぺら喋り合っていた。いろいろの報告から推して、
日本がイギリスに対して、突如として戦争行為に出ることが迫っているのを私は感じた。日本は松岡外相を現地に派遣して、ドイツのヨーロッパ支配の実情と、特にイギリス侵入の真実性を探らせようとした。

 松岡はアメリカで教育を受けたが、痛烈な反米論者だった。彼はナチ運動と戦前のドイツの力から強い印象を受けていた。彼はヒトラーの魔術にかかっていた。日本政府は陸、海軍司令部が真珠湾の米基地やフィリピン、オランダ領東インド、マレーに対する作戦計画に自由裁量を持つべきことを決定した。
 松岡は3月12日に使いの途につき、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニに会った。彼はスターリンと日ソ中立条約を結んだ。松岡が日本へ出発する時、スターリンとモロトフが停車場に見送って、この上ない親密なジェスチャーを示した。松岡は大得意だった。

 松岡は4月末に東京に帰った。彼はドイツの究極の勝利を信じていた。彼は三國(日・独・伊)協約と日ソ中立条約がある以上、特にアメリカのご機嫌を取るべき必要を認めなかった。日本軍隊の強化は急速に増大され、南インドシナに基地が設けられることになった。それは東南アジアに向け、イギリスとオランダの植民地を攻撃するための前奏曲であった。
(以下略)

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