ネルーダは詩人にして外交官、かつ後半生では政治家に転じ、上院議員として大統領候補(共産党)にまでなった。波乱万丈の人生で、指名手配~地下生活を送ったこともある。が、本業はあくまで詩作。伝統詩、ヘルメス主義(神秘主義的な思想)、シュールレアリスモなど多彩な主張とスタイルが混在する豊穣な作品群により、20世紀最大の詩人と称えられる。
彼は1904年、南米チリ中部のパラルに生まれた。生後間もなく、両親と共にチリ南部の、湿っぽい密林の中の小村テムコに移り、少年時代~思春期を過ごす。生後二か月の頃に母が結核で死に、父親はまもなく後妻を娶る。ネルーダはこの継母を「我が守護神」と呼んで、敬愛した。鉄道員の父親は鉄道敷設現場の工場長のような役も務め、留守がちだった。
ネルーダには二人の叔父がいて、彼らはカウボーイに近く、辺境の荒々しい暮らしを幼い甥っ子に手ほどきした。その感化が少年の心に刻み込まれ、後々の詩作に野性味をもたらす。
<チリの森を知らない者は、この惑星を知らない。/あの奥地、あのぬかるみ、あの静寂から、私は歩き回り、世界のために歌を歌いに出て来たのだ。>(『ネルーダ回想録』)
20年、十六歳の時、彼はサンチアゴに出てきて大学に入る。建築とフランス語を学ぶはずが、建築の勉強はそっちのけ、ボードレールやランボーの詩に熱中する。同時に中米ニカラグアの詩人ルベン・ダーリオのモダニスム詩にも傾倒した。翌年、春祭りの詩のコンクールで首尾よく一等に入選。賞金で23~26年にかけ、五冊の詩集を著す。『二〇の愛の詩と一つの絶望の歌』(24年)には、既にネルーダ独特のスタイルや調子の萌芽が見出される。
27年、ラングーン(ビルマ)駐在領事を振り出しに外交官生活に入り、こう回想する。
――チリでは、みんなが外国へ行きたがる。私は外務省に出かけ、領事のポストを頼み込んだ。(高官の)ある人がOKを出し、(空席だった)ラングーン行きがあっさり決まった。
翌28年、コロンボ(セイロン)~30年、バタヴィア(現ジャカルタ:インドネシア首都)と駐在し、32年に一旦帰国する。このアジア体験について、ネルーダはこう歌っている。<(前略)人民の湿った喘ぎの上に/貧しい職人たちの血と汗を絞り取って/総督や王侯たちは豪勢に暮らしていた/(中略)/彼らはアルミニウムの教会を建て/どぎまぎした黄色人種をこき使い/新しい血の搾取を打ち立てているのだ>(『大いなる歌』)
33年ブエノスアイレス(アルゼンチン)~34年バルセロナ(スペイン)と駐在を務め、35年にマドリード(同)駐在へ転じる。詩集『地上の住処』第二巻を刊行。スペインの詩人たちを網羅した詩誌を編集刊行する。36年、ファシスト・フランコがヒトラーとムッソリーニの支援の下にスペイン共和国に対する反乱を起こし、流血の内戦が始まる。八月には親友の詩人ガルシア・ロルカがファシストの手に落ち、銃殺される。
ファシズムの暴虐を目前にし、彼は下記のような詩編「そのわけを話そう」を同年に記し、抗議の叫びを上げる。<(前略)悪党どもは空の高みからやって来て 子供たちを殺した/街中に子供たちの血が/子供の血として素朴に流れた/(中略)来て見てくれ 街々に流れてる血を/来て見てくれ/街々に流れてる血を/来て見てくれ 街々に流れてる/この血を!>
37年、バレンシアとマドリードで開かれた文化擁護国際作家会議に参加。パリでのスペイン人民戦線支援集会でアピールを行なう。こうした行動が本国政府の忌諱に触れ、本国に召還される。が、一年後にチリには人民戦線政府が新たに成立。三十四歳のネルーダはパリに赴き、数千に上るスペインからの亡命者を首尾よく南米へ避難させる任務を果たす。
39年に第二次世界大戦が勃発。ネルーダはチリに帰国し、メキシコ駐在総領事として赴任する。42年にはスターリングラードでのソヴィエト赤軍の英雄的な抵抗を称える詩を書き上げる。この詩は印刷され、メキシコ市内の至る処に張り出された。
45年の総選挙で彼はチリ共産党の公認の下に立候補し、上院議員に当選する。続いて行われた大統領選挙で、ゴンザレス・ビデーラがチリ民主勢力の支持を取り付け、当選。しかし、ビデーラはすぐさま仮面をかなぐり捨て、人民の信頼と祖国の利益を裏切る。アメリカ帝国主義への奉仕政策を取って民主的な自由を踏みにじり、共産党を非合法化し、共産主義者に対する弾圧を強めた。48年1月、ネルーダは上院でビデーラの裏切りを告発し、弾劾。ビデーラは逮捕令状を以て答え、以後ネルーダは長い地下生活と亡命を余儀なくされる。
<果てしもない夜の中を この世界の中を/あの暗い日々 私は歩き続けた/涙を紙に書き連ねて 身をやつし姿を変えて/私は 警察に追われる おたずね者だった/(中略)/戸口から戸口へと/人の手から手へと 渡り歩いた/夜は辛いものだ しかし人々は/きょうだいの合図を送ってくれた・・・>(『大いなる歌』――『逃亡者』)
「きょうだいの合図」と支持に支えられ、足かけ四年に及ぶこの地下生活の中でネルーダは『大いなる歌』を書き続ける。雪の野のあばら家で、アンデスの樵小屋で、追及の目を逃れた民家の穴倉の中で、この詩集は書き継がれた。こうして、この膨大な詩集は、この世のあらゆる光と影を歌い上げ、きわめて多様な生活と現実を反映することになる。
51年8月、彼はイタリア~南仏ニース経由で祖国へ帰る。チリでは既にビデーラが打倒されていて、サンチアゴ空港にはこの詩人を歓迎する群衆が詰めかけていた。時が移り、70年の大統領選挙で、六十六歳の彼は初め共産党の大統領候補だったが、「人民連合」の統一候補として社会党のサルバドール・アジェンデ支持に回る。首尾よく人民連合政府が成立し、ネルーダは駐仏大使としてパリに赴任。かつて親交を結んだピカソやアラゴンらと会い、旧交を温める。そして、71年度のノーベル文学賞は彼の頭上に輝いた。授賞理由は「一国の大陸の運命と、多くの人々の夢に生気を与える源となった、力強い詩的作品に対して」。
長い亡命生活と苦難に満ちた長い闘いの末に、ようやくネルーダとチリの上に春が訪れたのだった。が、あのスペイン共和国の春と同じように、この春もファシストたちの銃剣の下に踏みにじられ、潰え去る。ネルーダは病気のため、72年に駐仏大使を辞任。マチルデ夫人と共に帰国していた。73年、彼は再びチリ人民の闘争に参加し、『ニクソン殺しの勧めとチリ革命への賛歌』を刊行する。その一節に、彼はこう記した。
<ワシントンで奴の鼻が呼吸している限り/人々は 地上で 幸せになれない/誰も この地球で 快適には働けない/(中略)/この男は月への旅行もやったが/地球上で あまりに大勢を殺したので/この悪党の名前を書こうとすると/紙は逃げ出し ペンは壊れる/ホワイト・ハウスのジェノサイド実行犯(以下略)>
この年、チリでは右翼の暴動反乱、軍事冒険が頻々と起こった。五月、ネルーダはチリの知識人や世界に向かってチリ人民連合政府の防衛を訴える。が、七月に人民連合政府に反対する資本家たちのトラック・ストが再開され、右翼の攻撃が激化。九月十一日、三軍の司令官、国家警察長官が軍事政権を設立。アジェンデ大統領の辞職を要求し、モネダ宮を包囲~爆撃。アジェンデは英雄的に闘って、斃れる。
同日以来、ネルーダの家は軍部ファシストの監視下に置かれ、医師の治療が受けられなかった彼の病状は悪化。二十四日、六十九歳の生涯を閉じる。二日後に行われた葬儀は、銃剣の監視下にも拘らず盛大に行われ、参列者の間から「インターナショナル」の歌声が沸き起こり、ファシズム反対の最初の大デモンストレーションとなった。
ネルーダの死因については、軍部による謀殺説が根強くあり、2011年に告発を受けて裁判所が調査を開始。墓地から遺体を発掘~国際研究機関による医学的調査が開始されるが、明確な結論が出ぬまま16年に再び埋葬されている。
ネルーダは死亡する直前までエッセイ風の自伝『ネルーダ回想録――わが生涯の告白』を書き継いでいた。四百頁近い大冊の最終部分は「あの栄光の死せる大人物(アジェンデを指す)は、またもやチリを裏切ったチリの兵士たちの機関銃の弾丸で、穴だらけにされ、ずだずだにされたのだ。」と結ばれる。私は三日近くかけて同書を精読し、強い感銘を受けた。
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