二十世紀世界文学の名作に触れる(49) 『狭き門』のジッド――美しいもの、弱いものへの共感

 フランスの作家アンドレ・ジッドは、旧ソ連邦とローマ教皇庁から等しく忌避された珍しい文学者だ。その代表作『狭き門』の題名は、新約聖書(マタイ伝)にある「力を尽くして、狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路は広く、之より入る者多し。生命に至る門は狭く、その路は細く、之を見出す者は少なし」に由る。けだし名言だ、と感じる。ジッドが示した「美しいもの、弱いものへの共感」にも大いに賛成だ。

 アンドレ・ジッドは1869年、パリで生まれた。父はパリ大学の法学部教授。ジッドが十一歳の時に父が死んだので、教育は専ら母や伯母、かつて母の家庭教師だった女性など女手によって行われた。八歳でアルザス学院に入学するが、病的な臆病や感情の混迷のために頭脳の働きが鈍く、成績は常に不良だった。加えて生来病弱だったため、幾度か退学し、学業の習得は不規則だった。が、少年ジッドの暗い精神に光が全くなかったわけではない。

 動植物に対する愛情は、幼い魂にとって極めて自然な現象だ。自伝的な作品『一粒の麦もし死なずば』に描かれている少年ジッドのそれは、異常なまでに強かった。これは、その後ジッドの心の中に大きく発展する、美しいものや弱いものに対する共感の萌芽と見てよかろう。感受性の強い少年にありがちな神経障害が少年ジッドの心身の正常な発育に大きな妨げになったのは事実だし、また家庭の厳格な清教徒的雰囲気が少年の感じ易い心に少なからぬ掣肘を加えたことも否めないだろう。

 この揺籃状態は、二つ年上の従姉マドレーヌ・ロンド―に対する清純な愛情によって、その殻から抜け出るに至る。この従姉が自分の母の不義を知って深い悲しみと絶望に陥った時、少年ジッドは子供心に(彼女を守ることこそ、自分の義務だ)と感じた。この強い衝撃が、少年の暗い精神に一条の光を射し入れる。こうして、少年ジッドはおもむろに蛹状態を脱し、十代半ばにさしかかると読書慾も旺盛になってくる。亡き父の書斎に出入りし、ギリシャの詩を初めて知る。その頃、マドレーヌもホメーロスの詩やギリシャ悲劇を読んでいた。

 1891年、二十二歳のジッドは従姉マドレーヌに対する恋愛を中軸に精神的不安や懊悩などを日記風に綴った『アンドレ・ワレテルの手記』を発表する。小説的構成を全く欠く恐ろしく不器用な作品だったため、この作品は失敗。マドレーヌからの求婚拒絶という打撃も加わり、彼は深い絶望に陥る。この頃、ジッドは一生で一番混沌とした精神状態にあった。少年の頃からの清教徒的な克己主義と訣別~想像力の奔放自在な境地へと向かいつつあった。

 翌々93年秋、ジッドは友人の画家ローランスとアルジェリアに向かう。出発に当たり、彼は故意に荷物の中に聖書(これまで一日として手放したことのない)を入れなかった。旅行の途中、ジッドは肺を病み、一冬をビスクラで過ごす。パリの文壇の息苦しさを逃れるように明くる94年秋はスイスの寒村にこもり、書き物をするべく仕事机にかじりついた。95年、遂に宿願のマドレーヌとの結婚にこぎつける。

 彼の作品には、生涯の伴侶だった彼女の影響が色濃く滲み、『背徳者』や『狭き門』などに彼女の面影を宿す女性キャラクターが登場する。しかし、このマドレーヌを愛しながら、遂に性交渉は持たずに過ごした(白い結婚)とされる。代わりに、三十二歳年下のマルク・アレグレという青年との同性愛関係が存在した。そして、ジッドにはエリザベート・ヴァン・リセルベルグという愛人の女性が存在し、1923年にカトリーヌという娘をもうけたことも書信で明らかになっている。
 
 ジッドは97年、作品『地の糧』を発表。殆ど世評にも上らなかったが、二十年後に新しい世代に注目され、広く認められるようになった。1902年、『背徳者』(生の価値と快楽に目覚め、既成のモラルから背をそむけていく男の悲劇を描く)発表。08年、『新フランス評論(NRF)』誌の創刊に参加。『狭き門』を連載し、一般読者にも好評を得る。14年発表の『法王庁の抜け穴』では、ローマ法王やフリーメイソンを皮肉った物語を設定。動機のない殺人(無償の行為)を遂行する主人公を登場させた。

 19年、『田園交響曲』発表。ベートーヴェン作曲の交響曲第六番(『田園』)を指す。ジッドには同性愛志向があり、自分の別荘があったノルマンディーで家族ぐるみの交際をしていた牧師の息子と関係を結んだ。その結果、この上なく愛する妻マドレーヌに対し、罪の意識を持ちながら生きなければならなくなる・・・。語り手が作中で告白する喜びや苦悩は、ジッドが実人生で経験した感情と重ね合わされる。

 ジッドは『背徳者』『狭き門』『田園交響曲』など一人称の語り手による単線的な筋の作品を「レシ(物語)」と定義。『鎖を離れたプロメテ』(1899年:ギリシャ神話を引用した人を食った設定の寓話)や『法王庁の抜け穴』(1919年:三人の男たちを中心に、物語が奇妙に捩れながら繋がっていく)など批判的・諧謔的な作品を「ソチ(茶番劇)」と分類。25年発表の『贋金つくり』(作中にエドゥワールという小説家が登場。この作品と同名の小説<贋金つくり>を書くという設定)を唯一「ロマン」と認めた。この「小説の小説」という手法は、彼の次の世代の「ヌーヴォー(新しい)・ロマン」の作家たちに多大な影響を与えた。

 ジッドは1930年代に入ってからソヴィエトへの共感を口にし始め、36年にソヴィエト連邦作家同盟の招待を受け、同国を訪問する。約二カ月滞在後、『ソヴィエト紀行』を著してソ連の実態を明らかにし、スターリン体制に反対する姿勢を鮮明にする。左派から猛反発を受けるが、翌年に『ソヴィエト紀行修正』を著し、前著に対する批判に反論した。その『ソヴィエト紀行』は十万部以上を売り上げ、ソ連批判の書物としては最大の売り上げとなる。

 38年、最愛の伴侶マドレーヌが亡くなると深い孤独感に陥り、手記『今や彼女は汝の中にあり』を著す。翌年、戦禍を避けてチュニスに移住し、45年にパリに戻り、翌々年ノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「人間の問題や状況を、真の大胆不敵な愛と鋭い心理洞察力で表現した、包括的で芸術的に重要な著作に対して」。51年、パリの自宅で八十一歳で死去。その著作は死後、ローマ教皇庁により禁書に認定された。

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