西欧では比較文化論的な立場から、よく「ドイツ人は耳が利き」、「フランス人は目が利く」と言う。ドイツは楽聖バッハやベートーヴェンを、フランスは画聖セザンヌやルノアールを生んでいるからだ。が、1915年にノーベル文学賞を受けたフランスの文豪ロマン・ロラン(1866~1944)は耳の方に関心が深く、著作の一つに『ベートーヴェンの生涯』がある。今回の物語『ジャン・クリストフ』は、出だしはベートーヴェンを思わせる設定だ。が、むろん架空の筋立てで、主人公がたどる運命は正しく波乱万丈。岩波文庫版(訳:豊島与志雄)で全四冊から成る長尺の物語は、真の「青春の書」と呼ぶにふさわしい起伏に富む。
クリストフはドイツ南部ライン河畔の小さな町に生まれた。代々音楽家の家柄で、父は宮廷劇場のヴァイオリニスト、祖父は指揮者だった。母は家事手伝い上がりで、それを苦にした父は酒に溺れる。クリストフは小学校で苛めを受けるが、ナポレオンやアレキサンダー大王の壮挙に想いを馳せ、その姿に自身を秘かになぞらえ、いつの日かの己の大成を夢見る。
父は息子の音楽的天稟を信じ、スパルタ式教育を思い立ち、叱責と拳骨の雨を降らす。クリストフは涙を流しながら、朝晩三時間の特訓に耐えた。祖父は「音楽こそ人間の慰藉と光栄のための最高最美の芸術」と慰め、六歳の孫が小声で歌った自作のメロディーを褒め称える。祖父や父の縁もあり、クリストフは幼児ながらピアニストとして宮廷劇場にデビュー。大公殿下の覚えもめでたく、お抱え楽師として順調に滑り出す。
十五歳のある日、クリストフは隣家の未亡人に招待されて訪問。同じ年格好の独り娘にピアノを教える運びになる。夫人は教養があり、クリストフに歴史や詩を教えた。彼は二人の美しい女性に対し、清い愛情を抱く。ピアノの稽古を介し、クリストフと娘は恋に落ちる。二人は将来を誓い合うが、それと知った夫人は娘に対し彼をくさし、微妙な影響を及ぼす。復活祭の旅行を挟んで若い二人は接触を断たれ、夫人は彼に冷たく宣告する。
――娘を引き寄せようなんて、思いもよらなかった。あなたは財産がないし、娘とは趣味が違っている。身分が違うんです。
思春期での最も恐ろしい危機だった。絶望感は深く、彼は眠れぬ夜を度々味わう。ある夜、父親が酔余、近くの川にはまって溺死する。亡き父の美点を想い起こし、彼は神の声を聴く。「往け、往け、休むことなく!」「苦しめ,死なんばかりに!」「なるべき者になれ!」と。祖父も既に逝き、奉公暮らしの弟二人は独立。成人したクリストフは家屋を処分して母と借家暮らしを始める。休日の午後、郊外の果樹園で金髪の娘アーダと知り合う。豊満な体で肉感的だった。交際を重ねた二人は親密な仲になり、一夜を共にする。が、アーダの女友達から「彼女は貴方の弟エルンストともいい仲よ」と耳打ちされ、熱が一気に冷める。
自棄気味のクリストフは飲酒にふけるようになる。いつも酒の匂いをさせ、笑い興じ、ぐったりして家に戻った。酒場からの帰路のある晩、母の兄ゴットフリートとたまたま出くわす。小柄な行商人だが、中々思慮深いところがあった。心中の苦しみを訴え、「自分は無用な人間だ」と嘆く甥っ子に対し、彼は懇々とこう訓す。「今日のことを考えるんだ。辛抱強く、信心深く、己が為しうる程度を」。クリストフは深く肯き、涙を拭った。
持ち前の誠実さから、彼は既存の音楽に虚偽を感じ取り、果敢に行動へ出る。巨匠たちの作品を公然と批判。己の新作を演奏会で問うが、余りに斬新な内容に演奏家たちは戸惑い、聴衆は茫然とした。遂にはパトロンの大公殿下までが敵に回り、彼は四面楚歌の身に陥る。秋の休日、クリストフは近くの村へ出かけ、夜分に飲食店で憩いの一刻を過ごす。兵士十人ほどが乱入し、酔いしれた頭格の下士が居合わせた美しい村娘に目を付け、しつこく追い回す。見かねたクリストフが下士を蹴り飛ばし、一座の村の男たちと兵士たちが乱闘を始める。下士ら三人が深手を負い、残りは逃げ去る大騒動に発展し、村人らは仕返しを危惧した。責任を感じたクリストフは国外逃亡を決意。夜行列車に乗り、故郷を後に一路パリを目指す。
パリに住み着いた彼は孤独だった。知人は僅か二人。その一人、若いユダヤ人コーンは大書店の店員で、パリの事情に明るく、ピアノの稽古の口を斡旋してくれた。コーンは文化方面に顔が広く、パリの大新聞の音楽批評担当のグージャールという男に引き合わす。が、この男は真の音楽には通じていず、辻褄合わせの評論で口に糊する手合いだった。
しかしながら、クリストフにはやがてオリヴィエという心の通う同年配の友ができる。二人は恋人同士のように安アパートで暮らしを共にし始める。クリストフはパリで精神的に孤立するフランス人を多々見出したが、オリヴィエもその一人だった。彼は学校の教師という職を自分で返上し、経済的に困窮していた。「闘う方がいい」とけしかけるクリストフに対し、「勝利より精神の安静の方がいい」と抗弁するオリヴィエはこう付け足した。
――君らドイツは我々をひどく苦しめた(注:1870~71年の普仏戦争を指す)。が、我々の意識を覚醒させたのも君らドイツだ。君たちのお陰で、わが民族の意識は覚醒したのだ。
クリストフは、なおも追い打ちをかける。
――腰抜けが多すぎる。誠実でありながら、卑怯である者が多すぎるのだ。君には血が不足している。先ずは、意欲しなければ。君たちは余りにも謙譲だ。我が祖国ヨーロッパ、就中君らの祖国フランスが危機に瀕している。奮起し給え。不足しているのは、病衰しているのは、精神でも心でもない。それは生命なんだ。生命が逃げ去りかけてるんだ。
二人は陰鬱な思想に対する反動から、ラブレー風の叙事詩を一緒に制作し始める。その詩に基づき、クリストフは合唱付きの交響曲を作曲した。その総譜がパリで出版されると、イギリスで先ず非常な成功を収め、それがドイツにも伝播する。やがて、パリでも大いに称賛され、彼は世俗的な成功者に仲間入りするようになる。
オリヴィエはクリストフを見出した男として光を浴び、社交的な招待が機縁となり、ジャックリーヌという美しい金髪娘と知り合う。二人は恋に落ち、結婚した。クリストフは口実を設け、オリヴィエから遠ざかった。彼はフランソアーズという三十ちょっと前の女優と親しくなり、パリ郊外に一軒家を借り、生活を共にする。が、二人は余りにも異なっており、同じく激しい気性だったため屡々衝突し、共同生活は長くは続かなかった。
時が流れ、パリ生活十年を迎えたクリストフはオリヴィエとの親交が復活する。五月一日(メーデー)が近づき、ゼネストが有産者を脅かすという不穏な風説がパリ市内に広まった。当日、二人は人出を見物しに市中へ赴く。不慮の出来事から群集と警官隊が街頭で激しく衝突し、両人は離れ離れになってしまう。病弱なオリヴィエは阿鼻叫喚の渦中で、非運にも落命。クリストフの方は興奮する余り、警官から奪い取ったサーベルで相手を刺殺してしまう。お尋ね者となった彼は、親しい仲間たちの配慮でスイスの片田舎に匿われる身となる。
クリストフを保護したのはドイツの同郷出身の開業医ブラウン。オリヴィエの非業の死を知り、悲嘆に暮れるクリストフは一心に居間のピアノに向かった。その楽の音に心惹かれ、ブラウンの美しい妻アンナが惑い、クリストフに魅かれていく。二人は恋に落ち、やがて肌を交わす。ブラウンへの罪の意識から両人は心中を思い立つが、短銃が故障していて果たせず、クリストフは家出する。重い苦悩を抱えながら、スイス各地をあてどなく彷徨い歩いた。
十年の時が過ぎ、欧州の至る処でクリストフの作品が演奏されていた。老境を迎えた彼は髪がすっかり白くなり、パリで有名人としてもてはやされる。今や十代に成長しているオリヴィエの遺児ジョルジュと邂逅して会話を交わし、父親代わりに心を砕く。それからしばらくして、ジョルジュは花嫁と新婚旅行へ旅立ち、老衰したクリストフは静かな最期を迎えた。
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