イギリスの作家ラドヤード・キプリング(1865~1936)は1907年、ノーベル文学賞を四十一歳の史上最年少で、英国人としては最初に受賞した。授賞理由は「その創作を特徴づける、観察力、想像力、独創性、発想の意欲と叙情の非凡な才能に対して」。かのディズニー映画でも有名な代表作『ジャングル・ブック』(新潮文庫・田口俊樹:訳)の核心部分を私なりに紹介しよう。
ここはインド。シオニー山の一角の洞穴に、狼の一家が暮らす。ある温かい夕方、茶色い裸の赤ん坊が洞穴に迷い込み、追跡する片脚の悪い虎シア・カーンが引き渡せと脅す。母狼ラングリは「この子は私のもの。誰にも殺させない!」と一喝。虎は不承不承、姿を消す。
ジャングルの掟では、狼の仔は自分の肢で立てるようになったら、月に一度の群れの集会でお披露目をする決まりだ。当の集会に特別参加のヒグマのバルーと黒豹のバギーラが後ろ盾として名乗りを上げ、群れのリーダーのアケイラは赤ん坊モウグリに仲間入りを許す。
十年が過ぎる。父狼はモウグリに自分たちの仕事を教えた。草のざわつき、温かい夜の空気の気配、頭上の梟のあらゆる鳴き声、蝙蝠の鉤爪の跡・・・。それらジャングルにおける物事が全てモウグリに意味を持つまで教える。木登りはバギーラに教わった。この黒豹は、いつかシア・カーンがお前を殺そうとするだろう、と諭す。そして、こうも言った。
――齢老いたアケイラが次の狩りに失敗したら、群れが彼に刃向かう時が来る。急いで谷を降り、人間の小屋まで行くんだ。そこで人間が育ててる赤い花を取ってこい!
バギーラが“赤い花”と言ったのは火のことだ。獣は皆、火を死ぬほど恐れており、そのため火を呼ぶ呼び方は百通りにも及ぶ。モウグリは「夕方になると、小屋の外に生えるやつだね」と確かめ、森の中を懸命に走った。村人たちの住む耕作地に入り、小屋の窓に顔を押し付け、炉の火を見た、朝が来、農夫の男の子供が内側に泥を塗った枝編みの籠に真っ赤になった炭を入れた。それを毛布にくるみ、牛小屋の牛の世話をしに、外へ出て来る。
モウグリは小屋の角を回り、少年の前に立ち、籠を攫み取った。恐れをなした少年の叫び声が響く中、彼は霧の中に姿を消す。
(彼らは僕にすごく似てた)農夫の妻がやっていたように、彼は籠に息を吹きかけながら言った。(何か食べる物をやらないと、こいつは死んでしまう)そう言って、赤い花の上に小枝や乾いた木の皮を落とす。丘の途中でバギーラに会った。彼は言った。
――アケイラは狩りに失敗した。夕べのうちに殺されていてもおかしくなかった。が、彼らはお前が必要だったから、ずっと丘の上でお前を探してた。
その日は一日中、モウグリは洞穴の中で火の籠の世話をした。乾いた小枝をくべてやり、様子を見た。夜になり、岩場で群れの集会が開かれる。アケイラがリーダーの席を外れ、シア・カーンが(モウグリを指し)「そいつは人間だ、人間だ!」と騒いだ。遮るように、モウグリが火の籠を手に起立し、口を開く。「いかにも僕は人間だ。だから、ここに赤い花をちょっとばかり持ってきた。お前たち、犬どもが恐れるものを」
モウグリは火の籠を地面に投げつけ、赤い炭の火が乾いた苔に燃え移り、炎が立った。怯える狼たちの真ん中に立ち、彼は燃える枝を頭上で振り回す。そして、枝でシア・カーンの頭を叩き、虎は恐怖に哀れな鳴き声を上げる。狼たちは吠えながら、みんな逃げ出した。
何かがモウグリの中で激しく痛み始める。彼は息をつき、咽び泣いた。「僕はジャングルを離れたくない。僕は死ぬの?」バギーラは言った。「いや、死なないよ。それは人間が使うただの涙だ」「お前はもう人間の大人だ。子供じゃない。だから、ジャングルはお前を拒んだんだ」。モウグリはその場に座り込み、心臓が張り裂けそうなほど泣いた。彼は泣き止むと言った。「人間のところに行くよ。母さんにさよならを言わなくちゃ」。彼はみんなが暮らす洞穴まで行くと、母狼の毛皮に顔を埋めて泣いた。四匹の兄弟狼も悲しげに鳴いた。
モウグリは丘を降り、村人が住む開墾地まで行った。ジャングルが近過ぎるから、さらに三十㌔は進んで、知らない土地までやって来た。谷が開けて、広大な平原に繋がっている。平原のあちこちで牛と水牛が草を食んでおり、小さな男の子がその番をしていた。その子がモウグリに気付いて騒ぎだし、百人ほどの村人たちが姿を現す。目を真ん丸にした女がモウグリの手足に残る咬み傷(狼の仔によるもの)に気付き、声を上げた。
――なんて可哀そうなの!メスワ、虎に攫われたあんたの子に似ていない?
村一番の金持ちの妻メスワがモウグリを自分の家に連れ帰り、我が子のように世話をした。メスワが言葉を発すると、モウグリはそれを完璧に真似ることができ、暗くなる頃には既に小屋の中の多くの物の名前を言えるようになっていた。
それから三か月。モウグリは人間のやり方や習わしを覚えるのに忙しかった。体に布を巻くこと、金を使うこと、土地を耕すこと・・・。イギリス軍のマスケット銃を持つ村の老ハンター、ブルデオが次々と珍しい話(「幽霊虎がメスワの倅をさらった」とか)を披露する。
何人かの少年が朝早く牛や水牛を村から連れ出して草を食べさせ、夜、また連れて帰るのがインドの村の習慣だ。明け方、モウグリは大きなボス牛の背にまたがり、村の通りを進んだ。後ろに湾曲した長い角と凶暴な目をした、濃い鼠色の水牛たちが次々、モウグリの後に従う。彼は牧草地のある平原まで群れを追い立て、対面した狼の兄弟からこんな情報を得る。
――シア・カーンは一月姿を消してた。お前を油断させようとしたんだろう。それが夕べ、ジャッカルのタバキを連れて戻ってきた。お前の後を付け狙っているぞ。タバキに背骨を折るぞと脅したら、全部しゃべった。今日の夕方、お前を待ち伏せるという計略をな。
虎は夜明けに豚を一頭仕留め、水も飲んでいる、という。モウグリは小躍りして言った。「なんて馬鹿な奴だ!それじゃ赤ん坊と一緒だよ!たらふく食べて、たらふく飲んで!」
モウグリの計画は至って単純なものだった。大きな弧を描いて丘を登り、谷の高い方の入り口に辿り着く。そこから雄の水牛を一気に駆け降りさせ、谷の裾にいる雌の水牛たちとの間で、シア・カーンを挟み撃ちにするというものだ。獲物を食べ、水もたらふく飲んだシア・カーンには、闘うことも崖を登ることも出来まいというのがモウグリの目論見なのだ。
彼は水牛たちに声をかけて落ち着かせ、狼の兄弟たちも群れの最後部で軽く吠え、遅れている水牛を急かせた。水牛を追い立て、谷の入り口までなんとか辿り着く。モウグリは両側の崖に目をやり、大いに満足する。ほとんど垂直に切り立ち、その崖にあるのは垂れ下がった植物の蔓や匍匐植物だけで、虎が登れるような足掛かりはどこにもなかったからだ。
「もう、あいつはどこにも逃げられない」。モウグリは手を口に当て、谷底に向けて呼ばわった。彼の声が岩から岩へと撥ね、木霊した。かなり経ってから、腹を満たし、今眼を覚ましたばかりの虎の眠そうな、音を引きずるような吠え声が返ってきた。「誰だ?!」シア・カーンは言った。「僕だ、モウグリだ。兄弟、水牛を谷底に走らせろ!」
水牛の群れは一瞬、斜面の縁で躊躇いはしたものの、狼が狩りの時の吠え声を腹の底から響かせると、船が急流を乗り切る時の勢いで次々に駆け出した。土煙が舞い上がり、石が飛び散った。一旦走り出した水牛を止めるなど誰にも出来ることではない。水牛の群れの凄まじい突撃。シア・カーンは慌てて涸れ谷の裾の方に走り出した。どこかに逃げ道はないかと、しきりに左右に眼を配りながら。が、崖は両側とも垂直に切り立ち、前に逃げるしかない。
シア・カーンは獲物の肉と水とで腹が重たく、とても闘えるような状態ではなかった。水牛の群れは虎が今過ぎたばかりの水溜まりを越え、その鳴き声が小さな谷に響き渡った。谷の裾の方から応答の吠え声が聞こえて来る。シア・カーンが振り向いたのがモウグリにも見えた。次の瞬間、モウグリの跨る水牛が何かに躓きよろけ、何か柔らかいものの上を踏み越えた。頃合いを見て、モウグリは水牛の群れを落ち着かせ、泥沼の方へ向かわせた。
シア・カーンは既に死んでいた。その死を嗅ぎ付けた鳶たちが既に集まり始めている。「兄弟たち、これが腰抜け野郎の死にざまだ」とモウグリは言って、首から下げた鞘に差しているナイフに手をやった。「どっちみち闘おうともしなかっただろうけどね。それでも、こいつの毛皮は集会の岩場に置くと見栄えが良さそうだ。早いところ片付けよう」
村人たちはモウグリが狼たちを後ろに従え、頭上に虎の毛皮を載せて平原を横切っていくのを見届ける。モウグリたちが集会の岩場に到着すると、少年は宣言した。「人間の群れも狼の群れも、僕を追い出した。これから僕は、ジャングルで独りで狩りをするよ」
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