1974年にベルが発表した作品『カタリーナの失われた名誉』は120万部を超える空前のベストセラーとなった。ヘルマン・ヘッセ以来、四半世紀余ぶりのドイツ人ノーベル文学賞作家が意を決し対峙しようとしたものは何だったのか。情報化時代におけるマス・メディアの在り方について、粛然とする思いに囚われる。
ハインリヒ・ベルは1917年、ドイツの大都市ケルンで町工場を営む家具職人の家に生まれた。33年にナチスが政権に就き、ギムナジウム(高校)の同級生の大半がヒトラー・ユーゲントに加わる中、彼は不参加を守り続けた。高校を卒業し、本屋に弟子入りし、その後ケルン大学でドイツ語を研究する。
39年にドイツ国防軍に召集され、第二次大戦中はフランス~ルーマニア~ベルギー~ソ連と転戦。それらの戦地で三度の負傷をし、45年4月にアメリカ軍に捕えられ、捕虜収容所に送られる。彼は凍傷で足の指を全て失い、生涯病院への通院を余儀なくされた。休暇中の42年に結婚し、長男が生まれるが、45年に亡くしている。
45年中に帰国。兄の家具工場などで働きながら、49年に最初の小説『列車は定時に発着した』を世に問う。休暇から戦場に戻る若い兵士の暗い心象に、彼の目に映じる車内風景を絡ませた佳作だ。翌年には短編集『旅人よ、もし来りなばスパ・・・』を発表。戦時下の兵士や庶民の生態をスケッチした二十五編には、ベルの短編作家としての力量が既に十分発揮されている。
51年、初めて参加した「グルッペ四七」の会合で、『黒い羊たち』を朗読。賞金千㍆を獲得する。彼はその少し前から失職しており、賞金のうち百㍆を彼と票を争ったブダペスト(ハンガリーの首都)生まれの作家ミロ・ドールに先ず貸し与えた。次いで郵便局へ駆けつけ、残り全額を家族へ送金した、と伝えられる。この年、九編の戦場物語を連ねて長編とした『どこにいたのだアーダム?』が公刊され、この頃から執筆に専念することが可能になる。
彼の作品世界へのネガティブな評価を込め「廃墟の文学」と言われた時、彼は受けて立ち、「廃墟こそ自分の文学の場なのだ」と誇らかに宣言した。社会的な弱者への同情、彼らが生きようとする努力への温かい眼差しは、描写力に富む簡潔な筆致と相俟ち、ベルの文学の本質的特徴の一つと讃えられる。長編『そして一言も言わなかった』(53年)や『保護者なき家』(54年)では、戦後の混乱期を生き抜こうとする小市民たちの健気な姿が描かれる。
経済復興の波に乗る世相を批判的に捉えた『若かったころのパン』(55年)を経て、長編『九時半の玉突き』(59年)を著す。第一次世界大戦から第二次大戦後に至る建築家三代の歴史を、初代の誕生日に当たる58年9月の一日の経過の中に畳み込むという、構成にも一工夫した野心作だ。戦後社会にも姿を変えて生き続けているプロイセン的かつナチ的要素の摘発が常に問題意識となっているのがベル文学の特徴の一つ。
長編『ある道化に意見』(63年)では、カトリック教徒たるベルがカトリック世界に仮借ない批判を浴びせている。ヒトラーの軍隊から脱走した男の物語『舞台からの離脱』(64年)や、連邦国防軍のスキャンダルを扱う『ある公用旅行の結果』(66年)では、機能化され規格化されていく社会から脱落していく存在の中に人間的なものの可能性を探ろうとする傾向が強まってきている。
60年代後半からは、内には非常事態法の成立や学生運動の爆発があり、外ではヴェトナム戦争のエスカレート、東欧軍のプラハ進駐が起こる。引き続いて西独にブラント政権が成立し、対東欧宥和外交が推進される一方、それを阻害しようとする動きも激しく、また東ドイツの詩人フーベルがイタリアに移住したり、旧ソ連の反体制作家ソルジェニーツィンの国外追放事件も発生。彼は追放後、西ドイツでベルの家に最初に避難した。
彼の作品は発表の度に国内で大きな反響を呼ぶばかりか、英米や、ことにソ連や東欧圏に広い読者層を持つようになっていた。冷戦体制を批判し、政治や社会の危険な兆候に対しては臆するところなく警告を発するその姿勢が、そこに作用していたのかも知れない。
71年に『婦人のいる群像』を発表。これは量的にも最大の長編で、作者自身もある意味で「これまでの作品の集大成」と認める力作だった。この作品により翌年、彼はノーベル文学賞を受賞するが、授賞理由は「同時代への幅広い眺望と鋭い描写によってドイツ文学の刷新に貢献した」。(ドイツ人作家では46年のヘルマン・ヘッセ以来のノーベル文学賞受賞者)
彼は69年から西ドイツペンクラブ会長、71年からは国際ペンクラブ会長を務めた。新しいドイツの代表として、頻繁に旅行し、その物腰はヒトラー政権下で悪評が高まったドイツ人の尊大さとは対照的な謙虚なものだった。
70年代に西ドイツで過激派によるテロが活発化した際、ベルは72年1月の雑誌『シュピーゲル』誌上でテロに対する冷静な対応をアピール。大衆ジャーナリズムから袋叩きに遭い、テロリスト同調者とまで呼ばれた。
彼は反撃に転じ、74年に大衆紙のあくどさを描いた『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』を発表。百二十万部を超える空前のベストセラーとなる。同作は三十を超える言語に翻訳され、彼はドイツで最も広く読まれた作家の一人となった。
83年にケルンの名誉市民に選出され、85年に六十七歳で死去する。報じた新聞等では「民族の良心」「判断の機関」などと称えた。
(「二十世紀世界文学名作に触れる」シリーズ完)
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