今回取り上げる小説『魔の山』は岩波文庫版(訳:関泰裕・望月市恵)で(上)(下)二巻、計千百余頁にも及ぶ大冊だ。おどろおどろしい表題が祟ってか、長い間、私の家の書架で積ん読状態のままだった。1929年にノーベル文学賞を受けたドイツの文豪トーマス・マンの代表作で、日本でも数多の読書人が「最も衝撃を受けた作品」に挙げている。この機会に、私なりに読み解こうと試みてみた。
アルプス山中のスイス、海抜1600mの高地ダヴォスにサナトリウム(国際結核療養所)「ベルクホーフ」がある。1907年、ハンブルクに住む23歳の若者ハンスがここで療養中の従兄弟ヨーアヒムを見舞いに、三週間の期限付きで訪れる。ハンスは幼い頃に両親を亡くし、兄弟もない身の上で、世間知らずの初心な青年だ。が、亡父の遺産と後見人の配慮に恵まれ、地元の工科大を卒業~造船会社にエンジニアとして入社する段取りになっていた。
ハンスは療養所側から、滞在中は従兄弟と行動を共にするよう勧められ、食事や散歩など行動の一切を患者並みに振る舞う。ここには国際色豊かな多国籍の人々が暮らす。決まりの散歩中、彼は三十代半ばのイタリア人セテムブリーニと知り合う。この男は学識に富み、ラテン語の詩句を吟じたり、古今東西の思想を熱っぽく論じて、ハンスを煙に巻く。
ハンスは下界に居た当時から続く異様な悪寒と発熱で結核罹患者と判定され、滞在延長を通告される。食堂で彼は婀娜(あだ)っぽいロシア人女性のクラウディア夫人を見初め、秘かに恋焦がれる。夫人に接近を図り、たまたま謝肉祭の夜、熱烈な告白に及ぶ。が、彼女は「明日、療養所を立ち去る予定になっています」と告げて姿を消し、二人の仲はそれっきりになる。
一方、セテムブリーニは自身の活動拡充のため施設を離れ、ダヴォスの街中の民家に引っ越す。同宿の住人に同年配のナフタという瘦せた小男がいた。彼はハンスに対し「セテムブリーニはフリーメイスン(秘密結社)の団員」と耳打ちし、ハンスやヨーアヒムを前に両者は激しい応酬を交わす。セテムブリーニの発言を――で、ナフタの分を「」で示すと、
――私は西欧人で、あなたの序列は純然たる東洋です。東洋は行動を嫌悪します。老子は、無為は天地間のあらゆるものよりも有益であると教え、全ての人間が行動することを辞めたら、地上には完全な平和と幸福が訪れるだろうと説いています。
「では、ヨーロッパの神秘主義は? 神のみが行動せんと欲するのだから、人間が行動しようとするのは、常に神の不興を買い、悪であると教えた静寂主義は? 幸福を静寂の中に見出そうとする精神的傾向は、洋の東西を問わず人間に共通のものらしいですね」
――あなたは理想社会を建設しようとする人類の憧憬を嘲笑すべきではない。人類のその努力を阻害する民族は、道徳的腐敗を経験せずにはいないでしょう!
「政治は道徳的に腐敗する機会を与え合うほかに、どういう存在理由を持っているのでしょう! 求められているのは常に運命だけです。資本主義的ヨーロッパも自らの運命を求めています。」
――あなたは神と世界との二元論に基づくキリスト教的個人主義を説明して下さろうとし、数分後には社会主義を唱道され、独裁とテロルまでを賛美なさる。
「対立するものは調和し合います。あなたの個人主義は、中途半端で妥協的なものです。本当の個人主義は、どれほど拘束の多い共同体とも調和します・・・」
ここで口を挟もうとしたハンスはナフタから「黙らっしゃい! あなたは学ぼうとなさい、そして、説を成すのはやめなさい!」と、一喝される。
その直後、ハンスは危険な雪山で単独のスキー行を敢行。危うく命を落としかけるが、その最中に閃く。(両者とも、ただの饒舌家に過ぎない。一人は淫蕩で悪意的だし、もう一人はいつも理性の角笛を吹き続け、うぬぼれているが悪趣味だ。人間は頭脳の自由を持ち、心の中に敬虔さを保つが故に、高貴なのでは)と。
時が過ぎ、季節は冬を迎えた。この施設を、一人の偉丈夫がハンスの想い人ショーシャ夫人に伴われて訪れる。中年のオランダ人ペーペルコルンで、大柄な体に波うつ白髪と赤い怪異な顔、茫漠とした王者的雰囲気を漂わす。ハーグに広壮な邸宅を構えるコーヒー王だとかで、滞在者一同はすっかり惹きつけられる。両人は二階の隣り合う特別室に納まった。ハンスは夫人にヨーアヒムの消息を問われ、「下界で軍務に就き、死んでしまった」と答える。
ひと月近くが経った一夜、王者はハンスら滞在者十人ほどを酒宴に招いて歓待する。ハンスは恋敵のはずの彼に、畏敬の念さえ覚える。酔っ払った王者はハンスに対し、「気に入った」と好意を示す。王者は実はマラリア熱を患い、四日おきに発熱~発汗する身だった。ハンスは病床の彼を見舞い、何時間も話し込む。二人は友情を感じ合う仲になり、王者はキニーネを例に薬物と毒物に関する深い見識(毒をうんと薄めると薬になる)を披歴したりする。
王者の堂々たる風格の前には、セテムブリーニやナフタは所詮口説の徒に過ぎず、「小人のような存在」とハンスは思い知る。件の王者をバカ扱いするセテムブリーニに対し、ハンスは「バカですか、バカにも様々な種類のバカがあって、小悧巧なのもバカのうちのあまり感心しない一種であるようです」と応酬する。
数週間が過ぎ、王者はごく親しい仲間を誘い、馬車を二台仕立てて近くの瀑布見物に出かけた。翌日、毒物を注射して自殺した彼の姿が居室で発見される。前述したように、彼は熱帯地方でマラリア熱に罹り、脾臓と肝臓がひどく侵された身だった。
ショーシャ夫人が施設から去り、ハンスは孤独をかこつ身となる。トランプの独り占い。談話室用に購入されたドイツ製最新型蓄音機が奏でるクラシック音楽への暫しの陶酔。交霊術めく室内遊戯「こっくりさん」に対する患者有志での耽溺・・・。いずれも束の間の充足でしかなく、永劫の安息には程遠いものだった。
ヒステリー性の不穏な空気が蔓延する冬のある日、一つの破局が訪れる。かの論敵同志セテムブリーニとナフタの仲だ。両人とも体の容態が思わしくなく、口角による鍔迫り合いが先鋭化する。遂には抜き差しならぬ決定的対立に陥り、ナフタが宿命の論敵に決闘を挑む。
三日後、例の瀑布の前でハンスらが立ち会う中、両人はそれぞれ拳銃を手に十五歩の間隔を隔てて向き合った。セテムブリーニが空に向けて何発か発射すると、ナフタは「卑怯者!」と叫び、弾丸をなんと己の頭に撃ち込んだ。凄惨な、忘れられない光景だった。「魔の山」に引き寄せられた人々を見舞う過酷な定めが胸を打つ。
そして、また時が流れ1914年7月、かの第一次世界大戦が勃発する。まずまずの健康を取り戻していたハンスはダヴォスを下山~ドイツ軍の一兵士として出征した。最前線で兵火をかいくぐる境遇に陥り、以後の消息は杳として知れない。ヨーロッパは先行きが皆目見通せない重苦しい混迷の真っ只中に置かれていた。
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