ドイツ語のRat(車輪)は有為転変をも意味し、「車輪の下」は「落ちぶれる」意を含む。1946年にノーベル文学賞を受けたドイツの作家ヘッセ(1877~1962)の自伝的小説『車輪の下』は、私には思い出深い。十代の終わり頃、何の拍子かヘッセにはまってしまい、作品を次々読み耽った。とりわけ心に残ったのがこの作品で、思春期を迎えた少年の孤独感と危うさに強い共感を覚えた。新潮文庫(訳:高橋健二)版を基に、私なりに紹介してみたい。
十四歳のハンスは南ドイツ山岳部の古くて小さな田舎町の史上、最も聡明な男児だった。仲買商の父親は平凡な男で、母親はかなり以前に亡くなっている。この地方の才能ある男児は州の試験に合格して神学校に入り、大学を経て牧師か教師になるのが習わしだ。ハンスは大好きな野遊びを控え、机にかじりついてギリシャ語やラテン語・数学の猛勉強に励む。
町から唯一人の受験生ハンスは、合格者四十人中二番の好成績でマウルブロンの神学校に入学する。国費で賄われるこのプロテスタント神学校は中世に設立された修道院の中にあり、全寮制だ。丘陵や森の背後にあり、俗世間から隔絶された環境を生徒らに保証した。
少年たちは方言や立ち居振る舞いこそ様々ながら、全体の四分の一余は眼鏡(猛勉強の証)を掛けていた。ハンスは九人の同級生と相部屋になり、寝起きを共にする。
九人のうち四人は個性的だったが、残りは凡庸な部類に属した。都会育ちのオットーは教授の息子で、才能に恵まれた自信家だ。小さな村の村長の倅カールは矛盾だらけ、無気力かと思えば情熱的ではしゃぎ屋。ヘルマンはこの地域の上流家庭の出で、詩人にして深い知性の持主と映った。小柄な少年エミールは一番の変人で、奇妙な大人っぽさを感じさせた。
善良で穏やかなハンスは学業も優れ、同室の仲間たちから尊敬されるが、独りヘルマンだけはハンスを「がり勉」と呼んで嘲った。ハンスは「僕は君が思ってるほど愚か者じゃないよ」と抗弁する。彼はヘルマンの詩作の内容に関心を抱き、あれこれ詳しく尋ねた。
ある日、ヘルマンは自信家のオットーと喧嘩を始める。猛烈に取っ組み合い、部屋中を転げ回った。ヘルマンはやがて「もうやらないよ」と言い放ち、喧嘩をやめる。すすり泣きを始め、腹立たしそうに微笑み、部屋から出ていく。ハンスは驚き怯えながら、後を追った。廊下の窓台の辺りで二人は見つめ合い、ヘルマンはハンスを引き寄せ、そっと口づけをする。
どこか軽率な「天才詩人」と優等生の「がり勉」、いささか不釣り合いなコンビがスタートする。二人の友情は特殊な関係だった。ヘルマンにとっては、友情は楽しみであり贅沢。だが、ハンスには誇るべき宝であると同時に、大きな重荷ともなった。ヘルマンが勉強に飽きると、ハンスのところにやって来る。教科書を取ってしまい、自分の相手をさせるのだった。思春期特有の苦悩からヘルマンは嘆き節を口にし、ハンスにもそれが伝染する。彼は勉強がどんどん難しく思えてくる反面、友の説く詩の世界への尊崇の念が次第に募っていく。
やがて、破局が訪れる。小柄な変人エミールが音楽の練習室で、柄にもなくヴァイオリンの練習にいつまでも没頭。順番待ちのヘルマンが業を煮やし、譜面台を蹴飛ばして引っ繰り返す。二人は激しく口論し、逃げるエミールを追うヘルマンは校長室の前で蹴りを入れた。ヘルマンは校長から重い謹慎処分を言い渡され、学内の悪疫視されて孤立していく。
優等生ハンスも悪疫を避け始め、ヘルマンは「君は臆病者だ!こん畜生!」と当たり散らす。ハンスは己の不実に対する良心の疼きを抑え切れない。時を置いて、ヘルマンはハンスを赦し、二人の友情は復活する。新たなこの友情に執着すればするほど、ハンスには学園がよそよそしいものに変わっていく。教師たちは、彼が問題児になっていくのを心配した。
校長はハンスを執務室に呼び出し、成績が落ちたことを指摘。「ヘルマンは不満分子、不穏分子だ。離れてくれたら有難い」と注文する。ハンスは気を取り直し、勉強と向き合うが、遅れ過ぎないように付いていくのが精一杯。順調だった以前とは大違いの逸れようだった。
まもなく、ラテン語の授業中、異変が起きる。ハンスが教師に指名されながら頭が朦朧として起立できず、教師を驚愕させた。神経衰弱が疑われ、校長はヘルマンとの接触を制限する。ハンスは集中力と記憶力の衰えを感じ、成績はどんどん下がり、絶望感さえ味わう。
校長はヘルマンを呼び出し、ハンスとの交友を咎め、不従順を非難した。ヘルマンが従わず反論したため謹慎処分を受け、ハンスとの外出行為を固く禁止される。翌日、ヘルマンはなんと行方不明となり、自殺を図った可能性さえ取り沙汰され、学園は恐慌状態に陥る。
ヘルマンは近隣の森や村の傍らで丸二日も身を潜め、三日目にようやく発見された。謝罪を拒んだ彼は懲戒処分で退校となり、ハンスとは握手しただけの別れが決まる。ハンスに対してもヘルマンと同類視する疑いの目が向けられ、彼は異端者の一人として孤立していく。
ハンスの学業成績はみるみる下がっていった。「優秀」から「まあまあ優秀」に。さらに「普通」から、しまいには「ゼロ」へ。定期的な頭痛に悩まされ、荒唐無稽な軽い夢を見、何時間もぼんやりしている。教師たちは頻繁に非難し、軽蔑的に居残りをさせたりした。
校長が出した便りのせいで、驚愕した父親はハンスに態度を改めるよう、手紙で訴えてくる。脆くて繊細な少年は、すっかり追い詰められてしまう。ある日の授業で教師から激しく叱責され、ハンスは泣きじゃくった。翌日の数学の授業中、黒板の前で眩暈に襲われ、朦朧となって座り込む。州の医師は休養のため長期休暇を提案し、ハンスは郷里へ送り還される。
郷里に戻ったハンスは、周囲に親しい友がいないのに改めて気づく。教会の牧師は相談相手になってくれず、父親も頼りにならなかった。自殺すら考え、森の中に静かな場所を見つけ、縄をかける木まで選定する。父への短い手紙とヘルマン宛ての長い手紙とをしたためた。
自殺の準備と覚悟は有益だった。圧迫感が消え、喜ばしい感情さえ芽生えてくる。父親がほっとしているのに気づき、ハンスは奇妙な満足感を覚えた。皮肉なことに、体調が良くなるにつれ、彼の自殺に対する強迫観念は日一日と薄れていく。
秋になり、リンゴから圧搾機で果汁を絞り取る時節が訪れる。ハンスは近所のフライク小父を訪ねて果汁絞りを手伝い、偶々遊びに来ていた小父の姪エンマと出合う。十八、九歳の活発な娘で、偶々小父が席を外し、若い二人きりになる。とたんに娘はふざけかかり、きわどい冗談を口にした。ハンスは言葉が出なくなり、ほんの少し年上の娘を急に恋してしまう。
夜になり、ハンスが小父の家の前に行くと、エンマが姿を現した。二人は家の前で束の間、濃厚なキスを交わし、ハンスはぐったりしてしまう。彼女に翌日も誘われ、密会した二人は再び熱いキスを交わす。「ほんとに初心なのね」とからかわれ、ハンスは眩暈がしてしまう。
明くる日、彼はエンマが実家に帰ったのを知る。最後に会った時、彼女はそれを口にしなかった。所詮「数多の男」の一人だったのだとハンスは思い至り、惨めな思いに苛まれる。が、気を取り直し、真新しい青い作業服に身を包み、彼は新しい職場の鍛冶工場へ向かう。
歯車に鑢をかける仕事を丸一日あてがわれて手の皮が剥け、ぐったりしたハンスは非常な疲れを覚えた。でも、労働の尊さを体で理解し、これまで味わったことのない誇りさえ感じる。二日間働いた後の日曜、彼は幼友達アウグストから職工仲間との呑み会に誘われる。
一軒目の居酒屋でビールを三杯干し、ハンスはすっかり陽気になった。次の酒場では危ないなと感じつつ、勢いの赴くままへべれけに。辺りが朦朧となり、みんなと一緒に歌い、二本目の瓶も空ける。眩暈がし、立ち居が不自由になったが、三軒目に引っ張り込まれる。
一時間後にやっとの思いで店を出て歩き出すが、外界がぐらぐら揺れ、足取りは覚束ない。野山を散々さまよい歩いた末、なんと彼は近くの川に転落~水死してしまう。寂しい葬儀に出席した靴屋のフライク小父は参列した学校の教師たちを横目に、こう呟く。
――あそこに居並ぶ紳士方も、ハンスの破滅に手を貸した口じゃないか。
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