二十世紀文学の名作に触れる(18) 『荒地』のT・S・エリオット――日本の戦後詩人たちの一大指標

 代表作『荒地』での前衛的な試みによって、トマス・スターンズ・エリオットは英詩の一大革新を果たした。その活動時期から英米の詩壇では、20世紀前半は「エリオットの時代」と呼ばれるに至る。その影響は日本にも波及し、<荒地派>と呼ばれる若い詩人たちの一群を生んだ。私はたまたまこの一派の人々と縁があり、親しく彼らの肉声に触れる機会に恵まれた。

 エリオットは1888年、米国のミズーリ州セントルイスに生まれた。祖父はキリスト教ユニテリアン派(三位<父と子と聖霊>一体の教理を否定し、神の唯一性を強調する教派)の行動的な牧師で、大学創設などに大きな貢献をした人物。父は同じくユニテリアン派の信仰篤い実業家だった。
 1906年、エリオットはハーバード大学に進み、フランス文学や古代及び近代哲学などを学ぶ。四年後、パリに留学し、デュルケームやグールモン、アナトール・フランスらと交わり、コレ―ジュ・ド・フランスでの哲学者アンリ・ベルグソンの講義に深い影響を受ける。

 11年に一旦帰米し、三年後再び欧州に戻り、英国に落ち着く。当時ロンドンに居た先輩アメリカ詩人エズラ・パウンド(1885~1972)にその才能を認められ、支援を受ける。エリオットはパウンドの勧めもあってロンドン定住を決意。四年後、バレリーナで文学的才能もあったヴィヴィアン・ヘイ=ウッドと結婚する。が、エリオットの両親はこの結婚に反対で、父からの仕送りが断たれ、彼は苦境に陥る。

 やむなく17年にロイド銀行に職を求め、一応の経済的安定は得る。同年、処女詩集を出版。翌々年に「伝統と個人の才能」論を含む評論集『聖林』を著す。しかし、妻の病気や諸々の心労などが重なり、彼自身も神経を病み、21年秋には転地療養のためスイスのローザンヌに移る。この折、既に着手済みの『荒地』の草稿が完成し、パウンドの許に送られる。

 『荒地』には、ロンドン・ブリッジを始め、<シティ>界隈の通り、テムズ河畔の土地の名前が幾つか現れる。市中の銀行に勤めるエリオットは、毎朝こんな光景を眼前にしていた。<一斉に地下鉄駅から吐き出され、暗い霧の中をオフィスに向かう勤労者の群れ。銀行や会社ではタイプライターを盛んに用い、大勢のタイピストたちが甲斐甲斐しく立ち働く。>『荒地』に現れる彼女らのテムズ河畔での逢い引きやアパートでの情事は、時代の風俗の一環と言っていい。そういう都市の情景は、エリオットが現実に観察したものだった。

 先輩詩人パウンドはエリオットの草稿に手を加え、22年秋にエリオット自身が編集する詩誌『クライティリオン』創刊号に、アメリカでは『ダイアル』11月号に発表される。この詩の出現は当時の欧米の文壇に大きな衝撃をもたらし、従来の詩の概念を大きく変えた。
 タイムズ文芸付録は「世界の混乱と美を同時に描く感動的な作品」と激賞。そこに盛り込まれた近代都市のイメージやジャズのリズムを反響させる詩句は、第一次大戦後の新しい感受性の表われとして学生や若い詩人たちの間で熱狂的に歓迎される。既刊の『聖林』による新しい批評理論とも一体となり、英詩でのモダニズムの中核を形成。英文学の歴史の二十世紀前半部分は、こうして「エリオットの時代」と呼ばれるに至る。

 『荒地』の成功以後、エリオットは25年にロイド銀行を退職し、ロンドンの出版社の編集部に勤める。翌々年にイギリスに帰化し、英国国教会の信者となった。名声はさらに高まり、32年にハーバード大学は彼を教授に招聘し、エリオットは十七年ぶりに帰米する。アメリカ滞在中はプリンストンやイェールなど多くの名門大学で講演を行った。

 イギリス帰国後の文学活動はさらに幅を広げ、野外演劇フェスティバルへの参加やケンブリッジ大学での講演など多忙を極めた。この頃に書かれたナンセンス詩(『猫の詩』)は後にミュージカル『キャッツ』に翻案され、人気を博することになる。48年にノーベル文学賞を授与され、以後は世界的知識人・文人として欧州とアメリカを往復。講演と講義を行いながら数多の評論・詩劇を発表し続け、65年に76歳で亡くなった。

 端的に言えば、戦後の日本の現代詩はエリオットの『荒地』から出発した。<荒地派>と呼ばれる若い詩人たち、中桐雅夫・鮎川信夫・北村太郎・田村隆一といった面々がグループを結成し、モダニズムを志向する。彼らにとって、『荒地』とは言葉の論理性の否定であり、現実拒否と虚無と絶望だった。エリオットの『荒地』の荒廃のイメージを、<荒地派>の詩人たちは戦後日本の「荒廃」と重ねてみていたのだろう。

 <荒地派>の戦後詩は、日本の現代詩の主流を形成した。<荒地派>の詩人たちは戦後の混迷の中で、荒廃に対する一つの倫理的態度、鮎川の言葉で言えば「遺言執行人」としての態度を示し、幻滅に対処する強い冷静さを教えた。彼らの詩には、社会派として立つ覚悟と芸術派の感性があったに違いない。

 私は新聞記者当時、北村(本名・松村文雄)と同僚だった一時期があり、年齢が一回りも上のこの先輩の温厚で誠実な人柄を深く敬愛した。この北村の手引きも預かり、三十余年前、私は鮎川や田村に親しく接する機会を得た。鮎川は無類の読書家で早大英文科卒。二等兵として南方戦線に送られ、戦病兵として帰還し、一命を拾う。「僕は少数意見の代弁者として、タブーに触れることも言うから、(発言が)よくボツになった」と苦笑していた。

 「酔いどれ詩人」こと田村は野放図で八方敗れ、真昼間から酒盃を傾けていた。が、存外まともで、こう言い放った。「いい言葉は、いい社会でしか生まれない。詩人は社会から逃げてはダメ。浮世離れは無理な相談だな」。
 そして、北村。「現代詩は難解な言葉遊びにかまけ、複雑骨折を起こしている。齢をとると、抽象性より具体性が面白くなる。詩が老年の文学になる日が来たら、成熟文化の社会と言えるんじゃないかな」と呟いた。

 彼については、後輩ねじめ正一の著書『荒地の恋』(中央公論文芸賞)が外せない。「五十三歳の男が親友の妻と恋に落ちた時、彼らの地獄は始まった。彼は家庭も職場も捨て、『言葉』を得る――」。艶福家・北村の隠れた一面に接し、私は愕然として言葉を失った。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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