表題の作品は一九九四(平成六)年にノーベル文学賞を受けた大江健三郎さんの代表作の一つだ。
明治維新から八年さかのぼる一八六〇(万延元)年に四国の山村で起きた百姓一揆と百年後の一九六〇年の安保闘争を照合。閉鎖的状況での革命的反抗を描いて強い反響を呼び、当時最年少で谷崎潤一郎賞を受けた話題作でもある。私なりに作品の核心部分を紹介したい。
僕のたった一人の親友(27歳)はこの夏、朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし、縊死した。彼は六〇年安保闘争の際、新劇団のデモに参加した妻に付き添い、巻き添いで警棒で頭を割られている。隠微な躁鬱症に罹り、療養所生活を送っていた。死の一年前にはコロンビア大学に留学していて、僕の弟・鷹四と街中で邂逅している。鷹四は六〇年安保闘争の学生運動に参加~転向して渡米。名目に掲げた演劇運動からも逃亡~放浪生活に入った人間だ。
鷹四から帰国の報せがあり、僕と妻は弟の年少の友人(星男・桃子)二人と羽田空港で出迎えた。文学部出身の僕は、野生動物関係の翻訳でささやかに生活している。家賃や頭部に先天的障害のある赤ん坊の養護施設代は、妻の父親の援助に頼っている。鷹四は僕に説いた。
――アメリカでスーパー・マーケットを視察に来た日本人旅行団の通訳をした。団の一人に我々の四国の郷里と縁がある大金持ちがいて、我々の生家の蔵屋敷を買いたがっている、と分かった。密(僕のこと)が売却に賛成なら、現地に一緒に見届けに行くべきだ、と思う。
障害児を産んだショックから、妻は安ウイスキーを口にし始めた。鷹四は年少の友人二人と谷間の村へ先行し、僕と妻は二週間遅れで彼らと合流した。蔵屋敷を買いたがっている大金持ちは我々の郷里にスーパーを営む「天皇」。朝鮮人部落の出身で、部落の土地を仲間から独占的に買い上げて己のものとし、発展に発展を重ねてスーパー経営者にのし上がった。
鷹四は谷間で最上の知識人として寺の住職を推薦した。この住職によれば、村が経済的に荒廃しているのは明らか。谷間でテレヴィを楽しんでいる裕福な家は僅か十軒に止まる、とか。彼は江戸末期の万延元年に谷間の集落を巻き込んで起きた百姓一揆に関し、こう説いた。
――高知から来た男が密ちゃんの曽祖父とその弟に工作して一揆を起こさせた、と僕の父(先代の寺の住職)は解釈していた。大庄屋たる曽祖父さんの弟が訓練していた若者組が実行部隊として目を付けられたようだ。五日五晩続いた一揆で、作物先納制度は撤廃された。
昨夜、妻は僕の脇に寝るのを厭がり、鷹四らと共に囲炉裏脇に眠った。僕には妻が鷹四の親衛隊に属したことがわかった。鷹四は僕の代理としてスーパーの天皇に、蔵屋敷のみならず土地までも全て売却。彼が結成した谷間の若者らのフットボール・チームへの寄付などを名目に、代金の過半を僕から巻き上げた。彼は僕を「鼠」呼ばわりし、軽く見ている。
鷹四は万延元年の一揆について、私にこう言う。「若者組は放火や略奪など軽々とやってのける危険分子だ、と思われていたから、一揆は成功した。百姓たちは、侍たちより若者組を恐れていたかも」。鷹四に連なる若者たちから、ざわめきが起こった。彼らは疑わしいほど単純に彼ら自身を、万延元年の一揆の若者組に重ね合わせている、と私には感じられる。
夕方、谷間の底から「ああ、ああ、ああ、ああ」と膨大な数の者らの叫び声が湧き起こる。スーパーは元日以来ずっと休業中だ。天皇の営む養鶏事業が躓き、数千羽の鶏が死亡。損失を埋めるため、彼は事業に従事する青年たちを給料無しで正月休みに酷使しようと画策。村役場前の広場で、長身の男(農協の元書記)が聴衆に何事か説明し、僕に呼びかけた。「スーパーの二重帳簿を摘発しました。税務署に提出すれば、天皇もすぐさま退位ですが!」。
スーパーの前では梱包をほどいて電機製品を略奪する作業が進行。鷹四が率いるフットボール・チームの若者らが暴徒の中心だ。鷹四は言う。「谷間の過半数が手を汚した。養鶏グループの中心人物はスーパーを村で買い取ろうと算段している。魅力的じゃないか」
若い住職が僕を待ち受け、興奮で活気づき、熱っぽくこう語りかける。
――この噂が広まれば、日本の地方の全てのスーパーが農民に襲われ始めるかも知れない。すると、日本の経済体制の歪みがたちまち明瞭になるから、これは時代が動くよ!
僕は善良な谷間の住職の思いがけぬ昂揚ぶりに、気分を滅入らせながら抗弁した。
――しかし、この谷間のスーパー襲撃が、全国的な連鎖反応を起こすことはないです。二、三日のうちに騒ぎは収まり、谷間の人たちが改めて貧乏籤を引き直すだけですよ。
スーパーの支配人は天皇の許に連絡をつけようと、危険な川を渡り、海辺に至る雪の舗道を駆け下った。崩壊した橋で鷹四に倅を救助された父親が、猟銃と霰弾を秘かに鷹四の許へ届ける。若い住職が曽祖父の弟の手紙(五種類)と祖父の署名入りの小冊子『大窪村農民騒動始末』を探し出してくれた。この『騒動』は、明治四年にここで起こった一揆を指す。曽祖父の弟は発布されようとする憲法の内容を憂え、民権の側に立つ「志」を示していた。
星男が僕に「鷹四と菜採子が姦通している」と涙ながらに訴える。顔を合わせた鷹四は「俺は菜採ちゃんと結婚するつもりだ」と叫び返す。真夜中、妻が二階へやって来て訴えた。「鷹が、谷間の女の子を強姦しようとして殺した。鷹はみんなから見棄てられ、処罰される!」
僕と妻と星男は、母屋の敷居をまたいだ。囲炉裏脇に頭をうなだれて坐った鷹四は猟銃の銃身を片手で巧みに磨いていた。妻が鷹四の口を拳で殴りつけ、僕は改めて弟が妻と寝たのだということを確認した。鷹四は朝鮮服のよく似合う肉体派の小娘を「犯そうとしたら抵抗され、石で殴り殺した」と告白。以前、農薬を嚥んで自殺した我々の白痴の妹に関しても、
――妹は醜くなかったし清潔だった。俺たちは幸福な恋人同士の気分に浸り、そのうち妹は妊娠した。俺たちの秘密を誰かに話してしまうのでは、と気が気でならなかった。妹は秘密を守ったまま堕胎手術を受け、俺のことは誰にも一切話さなかった。
鷹四は、永く嗚咽し続けた。母屋で僕と妻がウイスキーを飲んでいると、鷹四が引っ込んだ蔵屋敷の方から銃声がする。僕が向かうと、血まみれの彼が寝そべっている。仕掛けられた猟銃から霰弾がびっしり撃ち込まれていた。脇の壁に赤鉛筆でこう書きつけてある。
――オレは本当ノ事ヲイッタ
スーパー・マーケットの天皇こと大柄な朝鮮人ペク・スン・ギが屈強な若い衆を五人連れ、谷間に進入。鷹四の死に対する悔やみを述べ、蔵屋敷の解体を告げる。若者たちは玄翁を揮い、ひたすら破壊作業に勤しむ。床下から立派な石造りの倉が現れ、便所や井戸があり、古本や反古の類がいっぱい見つかる。僕は悟った。(曽祖父の弟は一揆後、新世界に出発したのではなかった。地下蔵にずっと閉じこもり、生涯転向はせず、一貫性を持続したのだ)
僕は一連の経緯を妻に伝え、「鷹は曽祖父の弟に関する限り、恥じなくてよかった」と訴えかけた。ところが、妻は「死ぬ間際、密が鷹を恥辱感の中に見棄てたのよ!」と言い返す。
僕は村の寺の住職に与えられた小冊子『大窪村農民騒動始末』のこんな一節を想起した。
――「領民総代」として官憲と交渉した人物は<何れの者とも知れず六尺有余の総髪の男><十六日、強訴徒党の解散を告げるや、彼の巨魁は恰も掻消す如くに姿を晦ました>
僕は若い住職に対し、こう語りかけた。「明治四年の一揆は、大参事を退陣させるという政治的な企画を中心目的としていた筈。地下倉に閉じこもった巨魁は、種痘や血税という言葉の曖昧さを逆手にとって民衆を扇動し、暴動を組織、遂に大参事を打ち破ったんです」
住職は「暴動」後の谷間の青年たちの状況を次のように説明した。
――鷹ちゃんのグループだった若い連中の「暴動」で谷間の人間社会の縦のパイプが掃除され、若い連中の横のパイプががっちり固められた。気の毒だったけど、役割は果たしたよ。
僕は解体された蔵屋敷の地下蔵に入り込み、瞑想した。<自分の内部の地獄に耐えている人間への想像力を僕は持とうとしなかった。死を前にした弟の心貧しい要請についても援助を拒んだ。恥ずかしい苦しみを味わいながら、(鼠の)僕は小心に生き延びる・・・>
森を越えて僕と妻と(鷹四の)胎児は出発し、窪地を再び訪れることはないだろう。汗と土埃りに汚れたアフリカ生活が待ち受け、草原で待ち伏せする動物採集隊の通訳責任者たる僕。一つの新生活の始まりだと思える瞬間があり、そこで草の家を建てることは容易だ。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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