フランスの作家カミユはこの作品を始め小説『異邦人』やエッセー『シーシュポスの神話』などの著作が高く評価され、1957年に43歳の若さでノーベル文学賞を受けている。日本人で同文学賞を受賞した川端康成は69歳、大江健三郎は59歳の時だったから、カミユがいかに早熟の天才だったか、分かる。そして、カミユは受賞の二年後、パリ近郊で自動車事故の巻き添えに遭い、急死してしまう。カミユの作品はよく「不条理の文学」と言われるが、死に方も不条理そのものだった。
私はカミユの作品では『シーシュポスの神話』(新潮文庫、清水徹・訳)を最初に読んだ。三十代半ばの頃で、訳者が学生当時の先輩だった縁に基づく。強い感銘を受け、またとない人生訓を得た、と感じたのが忘れられない。
――シーシュポスはギリシャ神話に登場する人物だ。彼は巨大な岩を麓から山頂まで押し上げる刑罰を神々から課される。やっとの思いで頂上に近づくが、大岩は突如跳ね返り、真っ逆様に麓へ転げ落ちてしまう。逆戻りし、再び苦役に耐えるが、またまた岩は転げ落ちていく。果てしない不毛な苦役を、彼は宿命として引き受けざるをえない。
シーシュポスに課された定めは不条理そのもの、と言っていい。作者カミユは植民地アルジェに育ち、様々な社会的矛盾や桎梏と直面。皮膚感覚で人生の不条理さを感得したのでは、と感じる。当時の私は新聞社の社会部記者として多忙な日々に明け暮れていた。雑多で些末な出来事に振り回され、こんな生き様で果たしていいのだろうか、と懐疑的になったりもした。そんな折、この神話に接し、目から鱗が落ちる思いの啓示を受けた。報いを何も求めぬ奉仕の精神にひたすら徹すれば、くよくよ思い煩うことなど何もない、と。
カミユは1913年、北アフリカ・アルジェリアの小さな農村で生まれた。父はアルザス地方から植民地へ出稼ぎに来た農夫で、翌年秋に始まった第一次世界大戦に出征し、直後のマルヌの会戦で34歳で戦死した。スペイン系の母は未だ赤ん坊のカミユを連れて首都アルジェ市に引っ越し、場末の貧民街の狭いアパートで暮らし始める。彼は公立の小・中学に通い、様々な国籍や民族の貧しい人々の中で育ち、そんな境遇を通じて人生の意味を学んでいく。
中学ではジャン・グルニエという思想家に教わり、アルジェ大学でもその指導を受け、哲学を専攻。傍ら、マルローやモンテルランの作品を愛読し、文学にも親しんでいく。二十歳の時にアルジェの医師の娘と最初の結婚をするが、すぐに別れている。大学時代は生活のため色々な職業に就き、貿易商の手代や自動車部品のセールスマンに測候所員などを務めた。34年にはファシズムの風潮に反対して共産党に入党するが、ソ連の身勝手な外交政策に納得がいかず、じきに脱党する。
翌年、アルジェで劇団を旗揚げし、演出家・俳優として演劇活動に励む。38年、ジャーナリズムを志し、アルジェの地方紙に入社。この頃から小説やエッセーなど創作への構想を抱き始める。明くる年秋、ドイツ軍がポーランドに侵入して第二次大戦が勃発。彼はすぐパリに赴いて夕刊紙の記者となるが、ドイツ軍のフランス侵入に伴い南東部の大都市リヨンに疎開し、そこで二度目の結婚をする。
41年1月に『シーシュポスの神話』を書き上げ、アルジェリアに戻って夫人の実家があるオランに一時暮らす。が、ドイツ軍の占領地帯での抵抗運動に加わるためリヨンに戻り、秘密出版を行う。この間に発表された小説『異邦人』やエッセーなどで文名を挙げ、マルローらとの交際が始まる。戦争の非人間性に対しての怒りを込めた『ドイツの友への手紙』を一通二通・・・と書き継ぎ、秘密裡に出版した。彼は戦場での破壊や殺人より、もっと残酷で非人間的な、人間の魂を引き裂き、尊厳を奪う収容所の拷問に対して憤りをあらわにしている。
44年8月のパリ解放後、カミユは地下出版から公然出版に衣替えした新聞の主筆に就く。多くの社説を書き、戦後の政治的・思想的混乱の中にあって、時代に対する文学者の責任を明確にした。一方、戦中から戦後にかけて彼が著した戯曲『誤解』や『カリギュラ』が度々上演され、「不条理」の作家・思想家として揺るぎない地歩を固める。
47年、マダガスカルに反乱が起き、当局が弾圧したことから、フランスの植民政策に強く反対した。当時発表した重要なエッセーに『犠牲者も否、死刑執行人も否』がある。殺人を合法化する革命的手段を排し、人類に対話の精神を回復させ、世界的デモクラシーの実現を願ったものだ。カミユの反抗的理論や政治的立場の根本を物語っている。
51年には自身の反抗的理論を歴史的に裏付ける論文『反抗的人間』を発表。左翼の知識人との間に一年も続く論争を起こし、サルトルとは訣別することとなる。当時フランス国内だけでなく、欧州や東洋で様々な政治的事件が起こり、平和を脅かし、恐怖を振りまき、自由を束縛するような状況が生じた。カミユはそうした問題を取り上げてよく検討し、左翼とは異なる立場から論文や演説・声明書で抗議した。
彼は「社会参加」の文学者らしく活発な社会的・政治的活動をしているが、いかなる政党にも属さず、イデオロギーにもとらわれず、正義と自由を守るヒューマニストとして活動している。56年のハンガリー事件の際は、ソ連軍の介入とカダル政権の弾圧に抗議した。が、左翼知識人たちとは異なる立場を示し、左右の全体主義思想にはっきりと反対した。
60年正月早々、自動車事故の奇禍に遭い、彼は四十代半ばの若さで急死する。その死に当たり、敵も味方もその弔文の中で、この控えめで良心的な作家の誠実さを疑う者はいなかった。
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