著作『第二次大戦回顧録』によって1953年にノーベル文学賞を受けたイギリスの保守党政治家ウィンストン・チャーチルは「ヒトラーから世界を救った男」として通る。人心の機微に触れる巧みな弁舌で国民を鼓舞し、ナチスに対する徹底的な対抗を指導。大戦後に東西冷戦が始まると、「鉄のカーテン」演説で旧ソ連の体制を非難した稀代の政略家でもあった。
ウィンストン・チャーチルは1874年、英国オックスフォード県にある祖父マールボロ公爵家のプレネム宮殿で生まれた。父ランドルフは公爵の三男でソールズベリー内閣の蔵相を務め、母ジェニーはニューヨーク・タイムズ紙の大株主レナード・ジェロームの娘だった。
少年時代は暴れん坊で成績はさっぱり。パブリック・スクールでは最も落ちこぼれのクラスで、校長や上級生から度々鞭打ちの刑に遭った。士官学校の入試には二度も失敗。スペイン従軍の21歳、少尉の時に文才を生かして戦記物を書き始め、インド派遣軍やスーダン遠征軍でも活躍。南ア戦争ではボーア軍の捕虜となったが、脱走に成功して一躍英雄視される。
この人気に乗じて政界へ転進する。弱冠26歳で保守党から下院に当選。33歳で結婚し、保護関税に反対して自由党に移る。1909年、三十代半ばの若さで重要閣僚の内相に抜擢される。次いで海相に任じた1914年、第一次世界大戦が始まる。
敵国トルコのダーダネルス海峡突破作戦を強行して失敗し、その責任をとって辞任。一中佐としてフランス戦線に出征する。しかし、二年後に帰国し、軍需相など閣僚を歴任するが、22年の選挙で落選。以後、補選も含め二度の落選を味わい、自由党を離れる。南仏カンヌに別宅を構え、第一次大戦に関する著述に励んだり、好きな絵の制作にふけった。
再び保守党に戻り、24年の総選挙で下院に復帰する。重要閣僚の蔵相となり、金本位制を復活させる。このため、輸出産業とりわけ石炭産業が打撃を受け、労組はゼネストに突入。チャーチルは「ゼネストは違法」と主張し、力ずくで抑え込み、スト終結へ持ち込んだ。しかし、29年、マクドナルド労働党内閣成立とともに彼は野に下る。
以後十年にわたって閣僚職に就くことなく、鳴かず飛ばずの一時期を過ごす。彼は帝国主義者として頑迷な一面も持ち合わせた。例えば、インドの独立問題。29年にロンドンで円卓会議が開かれ、インドの自治領化を諮問する。時の首相や保守党党首は賛成の宣言を支持したが、チャーチルは時期尚早として反対。独立を唱えるガンジーをとりわけ嫌悪した。
彼は得意の文筆と画筆の生活を送りながら、西ヨーロッパの政治情勢を観察。ドイツで台頭し、33年に政権を握ったヒトラーへの不信を強め、対独戦準備の必要性を説き続けた。39年9月、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次大戦が勃発する。
イギリスの対独宣戦布告と共に、チャーチルは時の首相チェンバレンから海相に迎えられる。二十四年ぶりの海相復帰であり、彼は全艦隊に「ウィンストン帰る」と打電した。翌年5月、チェンバレンを継いで首相となり、以後五年間イギリスの最も苦しい時代を最高責任者として担う。就任時の彼は65歳、対するヒトラーは51歳だった。
ドイツ軍はベルギーやオランダへ侵攻し、戦車などによる電撃戦でフランスを圧倒する。増援のイギリス陸軍部隊やフランス軍の一部など約四十万人がダンケルクに集結し、五日間にわたるイギリス本土への撤退作戦に成功。イギリス国内は勝利したかのように喜びに沸いた。が、破竹の勢いのドイツ軍は6月14日にパリに無血入城し、フランス敗北が決定。戦後、チャーチルは「猛スピードで進軍する重装甲部隊の侵略が、どれほど先の大戦の大革新であったか、私は全く理解できていなかった」と、『回顧録』の中で正直に吐露している。
40年夏のイギリスは破滅の一歩手前だった。西欧諸国や北欧諸国はほとんどがドイツに占領されるか、その衛星国家になっていた。アメリカ参戦だけがイギリスの唯一の希望だったが、アメリカの国民世論はモンロー主義が根強く、チャーチルの思惑には簡単に応じそうになかった。ヒトラーはイギリスに和平を提唱したが、チャーチルは拒絶する。
ドイツ空軍は8月10日から空襲を開始。イギリス軍機が迎撃し、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリス本土上空での激闘が始まる。戦いは消耗戦の様相を呈したが、イギリス空軍は最後まで敵に制空権を渡すことはなかった。チャーチルは爆撃を受けたところを視察して回り、葉巻をくゆらせながら、勝利のVictoryを意味するVサインをして見せ、これはやがて彼のトレードマークとなっていく。
41年6月には独ソ戦が勃発。翌々月、チャーチルはアメリカ大統領ルーズベルトと会談。後に国際連合憲章の原型になった米英の共同文書として知られる「大西洋憲章」を締結する。
同年12月、日本が真珠湾を奇襲して太平洋戦争が始まり、独・伊も対米宣戦を布告する。
以後、主としてヨーロッパ・アフリカ方面に絞って戦況を概括すると――▼42年8月:ドイツ軍、スターリングラード総攻撃▼同年11月:連合軍、モロッコ、アルジェリア上陸▼43年2月:スターリングラードのドイツ軍降伏▼同年5月:北アフリカ戦線でドイツ軍降伏▼44年6月:連合軍、ノルマンディー上陸▼同年8月:連合軍、パリ入城、ドゴール凱旋▼45年2月:米英ソの三国首脳が戦争政策・戦後処理を話し合うヤルタ会談開催▼同年4月 イタリア敗戦でムソリーニが処刑される▼同年5月:ドイツが無条件降伏(ヒトラーは自殺)▼同年7月:米英ソ首脳による対日ポツダム宣言を発表▼8月15日:日本が無条件降伏し、第二次世界大戦が終わる。
チャーチルは強気とユーモアの宰相として厳しい戦局を最終的に乗り切り、得意のVサインに示した通り、遂に45年の勝利へと導いた。同年、総選挙で労働党に敗れて下野してからは、もっぱら畢生の大著『第二次大戦回顧録』(原著は全六巻)の著述に全力を傾注。これによって53年、ノーベル文学賞を得た。また、保守党党首としても頑張り続け、51年の総選挙で再び首相に返り咲いている。
55年4月、八十歳で後を外相イーデンに譲って引退。公爵に叙されようとするが辞退し続け、64年10月まで下院議員であることを止めなかった。引退後は南仏海岸の陽光を愛し、別宅で自適の生活を送っていた。
政治家・軍人として功成り名遂げたチャーチルは、また当代稀な文筆家であり、玄人はだしの日曜画家でもあった。「鉄のカーテン」という言葉も彼の造語で、その警句とユーモアはよく人に愛され、危急存亡の時に幾度か世界の人々を力づけた。また、非常な美食家でブランデーを欠かさず、日に十五本の葉巻をくゆらせたこともよく知られている。
65年、ロンドン市内の自宅で九十歳で亡くなった。その栄光を偲び、セントポール寺院でエリザベス女王が主宰(異例)する盛大な国葬が営まれ、弔問には三十万人にも上る大勢の人々が参列した。
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