1950年にノーベル文学賞を受けた英国の哲学者バートランド・ラッセル(1872~1970)は一風変わった慧眼の持主だった。革命が成就した直後のソ連を英国の左翼運動の仲間たちと訪問。レーニンと会見し、その危険な体質を見破り、ただ一人で批判した。「狂信的で蒙古的な残忍さを感じた」(渡辺一衛著『世界の知識人:20世紀を動かした人々』<講談社>)という感想は、最近のプーチンにもぴったり当てはまる。貴族の身で、かつ戦闘的な左翼運動家だった異色の哲人は、一体どのようにして出来上がったのか。
バートランド・ラッセルは1872年、ジョン・ラッセル伯爵の長男アンバーレー子爵の第三子として生まれた。ヴィクトリア女王の下のイギリス帝国最盛期で、日本では明治5年に当たる。三歳の時、ジフテリアで母と四つ上の姉を同時に喪い、そのショックもあって翌年には父も三十三歳で病没。当時十歳の兄フランクと彼は祖父の邸に引き取られた。
祖父ジョンは二度首相を務めた自由党の政治家で、ヴィクトリア朝の英国政治に重要な役割を果たした人物。兄弟が引き取られた当時は八十三歳で、まもなく亡くなり、二人に主な影響を与えたのは祖母のジョン・ラッセル夫人だった。厳格な清教徒で、日常生活の躾も非常に厳しかった。バートランドは著書『幸福論』の中で、「私は幸福に生まれつかなかった。思春期には生を厭い、いつも自殺の淵に立たされていた」とまで述べている。
だが、この祖母は政治に関しては亡夫よりずっと進歩的な自由主義者で、イギリス帝国主義を非難して民族的偏見を持たず、ドイツ人やスイス人の家庭教師をこの孫に付けた。貴族の子弟によくあるように彼は正規の初等・中等教育を受けずに90年、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学する。祖母の計らいは、彼の人間形成の上で無駄ではなかった。
四年間を過ごしたトリニティ学寮では、同年配の知的な青年たちと定期的に実のある討論を交わし、ヘーゲル哲学を信奉する。94年、ケンブリッジを卒業~同大のフェロー(特別奨学研究員)になる。ヘーゲル哲学の空しさにようやく気付き、1900年から約十年、彼は記号論理学の研究に没頭。先輩ホワイトヘッドとの共著『数学原理』を刊行する。
14年、第一次大戦が勃発。英国はドイツに宣戦を布告し、国民の多くは熱狂的にそれを支持した。ラッセルは反戦活動に献身する中、その活動を咎められ、翌々年にケンブリッジ大の教職を解雇される。18年には、反戦団体の機関紙への論文に「同盟国アメリカに対する誹謗があった」として禁固六カ月の刑に処される。彼は獄中でも執筆活動を続け、数学的論理学の一般向け解説書『数理哲学入門』を著し、後の著書『精神の分析』の準備も始めた。
20年には左翼社会主義者一派の一員として新生ソヴィエト・ロシアを訪問。約一か月、ペテルブルクやモスクワなどに滞在し、レーニンやトロツキーら政府の要人をはじめ、メンシェヴィキやアナキストら多くの人々と懇談する。訪問団の大半がソヴィエトを賛美する中、独り辛辣な批判を口にし、ラッセルは孤立していく。彼はレーニンの革命~対農民政策をめぐる口調に、「狂信的で蒙古的な残忍さを感じた」と記している。最近のプーチンのウクライナ侵攻の非行にも同種の性向が感じられ、民族的DNAの類かなと連想してしまう。
数々の著作のうち一般向けの啓蒙書では、29年に『結婚論』を刊行し、大胆な主張を展開した。「愛のような自然な欲求を束縛する貞操という考えは、男性に対しても女性に対しても馬鹿げている」とし、姦通の自由と青年たちの試験的結婚を勧めた。翌年には『幸福論』を刊行し、「はしがき」に「現在不幸な多くの人々も、周到な努力によれば幸福になり得る」と記した。31年に兄のフランクが亡くなり、彼が第三代ラッセル伯爵を継承する。
ラッセル自身は長い生涯の間に四回結婚をしている。最初は二十二歳の時で、友人の妹アリスを娶るが、十年ほどで別居。以後、彼は数々の女性と交渉を持つ。四十八歳で二番目の妻ドーラと結ばれ、子供たちに対する新しい教育の実験学校を開設したりするが、結局破綻~離婚。六十四歳の身の36年、秘書だったパトリシアと結婚。前妻との間に儲けた二人と新妻との一人の男児三人を伴い、第二次大戦勃発直前の38年、親子五人で渡米する。
シカゴ大・カリフォルニア大で教職に就き、40年にニューヨーク市立大哲学科教授に招聘されるが、教会関係者らから猛烈な反対運動(バートランド・ラッセル事件)が起きる。ラッセルは宗教と道徳に対する挑戦者で姦通の弁護者だとする主張で、最高裁は「任命撤回」と判決。ラッセルは第二次大戦中の米国保守層の進歩派に対する攻撃を身を以って受ける。
が、富豪のバーンズ博士がその財団に哲学史の講義を依頼。彼はフィラデルフィア近郊での講義を基に、大著『西洋哲学史』を完成する。この後、ケンブリッジ大トリニティ・カレッジから講師として招聘され、一家は44年にイギリスに帰国する。48年、パトリシアと離婚。50年にノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「人道的理想や思想の自由を尊重する多様で顕著な著作群を表彰して」。翌々年、八十歳で当時秘書だったエディスと四度目の結婚。
54年春、太平洋ビキニ環礁で米国が水爆実験を行い、操業中の日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばく。乗組員23名のうち無線長・久保山愛吉さん(40)が急性白血病で約半年後に亡くなり、日本国内では急速に草の根の原水爆禁止運動が盛り上がる。ラッセルは同年暮れBBC放送で「水爆による人類の危機」と題する放送を行い、イギリス国内で大きな反響を呼ぶ。彼は水爆戦争の危険を感じる著名な科学者の声明を出すべきと考え、米国のアインシュタインと諮り、翌年春に「ラッセル=アインシュタイン声明」を出す。
彼はさらにフランスのジョリオ・キュリー、米国のポーリング、日本の湯川秀樹ら九人の著名な科学者の署名を得て、この声明を発表。この折に署名した科学者を中心に57年、カナダのパグウォッシュで戦争防止のための科学者の集まり「第一回パグウォッシュ会議」が開かれた。同会議は以後の逐年の活動が評価され、95年にノーベル平和賞を受けている。
イギリス国内では60年までCND(核非武装委員会)の、62年からは「(直接行動)百人委員会」のそれぞれ会長を務めた。街頭での平和行進の先頭に立ち、終点のトラファルガー広場で大群衆を前にユーモアを交え、反戦を訴える弁舌を振るって喝采を浴びた。89歳の62年には「百人委」の街頭行動が荒れ気味となり、若者ら千三百人が逮捕される。彼自身も責任者として警察に逮捕され、一週間の入獄(実際は警察病院に収容)も経験している。
同年秋、米国のケネディ大統領がキューバ封鎖を宣言~第三次大戦の危機が迫ると、ラッセルは直ちにケネディ宛てに打電。「あなたは絶望的な一歩を踏み出した」と諫めた。また、ソ連のフルシチョフ首相には「米国の行動に挑発されぬよう」と自重を求めた。熱血と行動の哲人ラッセルは70年、97歳で亡くなった。当今のウクライナ危機でプーチン・ロシアの細菌兵器・核兵器使用が危ぶまれる中、ラッセル在りせば、とついつい思ってしまう。
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