旧ソ連の作家ショーロホフ(1905年生まれ~84年没)は65年、長編小説『静かなドン』などが高く評価され、ノーベル文学賞を受けた。旧ソ連では58年のパステルナーク(作品は『ドクトル・ジバゴ』)に次ぎ、70年のソルジェニーツィン(同『収容所群島』)に先んじている。『静かなドン』は岩波文庫版(横田瑞穂・訳)で全八冊にも上る大河小説だ。私の家の書架に長らく眠っていたが、コロナ禍最中の今春、メモを取りながら十日近くを費やしてなんとか読了。内容を私なりに紹介しようと思い立った。
『静かなドン』はロシア革命の一大叙事詩と言っていい。南ロシアのドン地方に焦点を合わせ、そこに生きるコサックたちの波乱万丈な人生を多方面にわたって描き、彼らの運命を賭けて奔流する革命の大河を映し出す。モスクワ中央に重点を置く革命の鳥瞰図ではなく、逆に革命に抵抗するドン反乱軍ないし白衛軍の勇敢かつ無知な行動とその没落過程を生き生きと描き出した絵巻物である。
当時の首都ペテルブルクやモスクワなど中枢部でのソヴィエト権力の樹立は一時的な武力衝突を除き、ほぼ平和裏に行われた。が、旧ロシア帝国の外周部や諸民族地域ではソヴィエト政権樹立は血で血を洗う激しい武力衝突を伴った。物語には史実に残る実在の人物の名前が数多登場する。「ソ連建国の父」レーニンは本より、反革命軍側ではコルニーロフ最高司令官や後継のデニキンにウラル方面で一時覇を唱えたコルチャークらの各将軍たち。
だが、主人公はそうしたお歴々ではなく、無名のコサックの平民だ。コサックとは、手元の広辞苑を引くと、
――もとトルコ語で「自由人」の意。15~17世紀のロシアで、領主の過酷な収奪から逃れるため南方の辺境に移住した農民とその子孫。のち半独立の軍事共同体を形成。騎兵として中央政府に奉仕し、ロシアのシベリア征服・辺境防衛に重要な役割を果たした。
本編の主人公、グリゴーリー・メレホフは、ドン・コサックの運命を代表する存在として登場する。彼は集落の中農層に、コサック軍曹の次男として生まれる。長身で頑健な肉体と優しく強烈な心情を持つ彼は、安穏な時代なら模範的なコサック農民として安らかな生涯を終えたはずだ。が、戦争と革命が彼を悲劇のどん底に突き落とす。
1914年に勃発した第一次世界大戦に騎兵として召集された彼は、初めて人をあやめる。逃げてゆく無抵抗の敵兵に一太刀斬りつけた彼は、
――(相手と)目を見あわせた。死の恐怖をたたえた目が、じっと動かずにグリゴーリーを見つめていた。やがてそろそろと膝を折った。(中略)ぜいぜいという嗄れ声がきこえてきた。グリゴーリーは目をつぶるようにしてもう一度軍刀を振りかざした。思いきり振りあげて打ちおろした一刀は、頭蓋骨を真っ二つにした。
彼は後々までこの初体験が忘れられず、「こうなっちゃ、人間より狼の方がまだましだ」と、うめく。そして、ドン地方赤衛軍の組織者ポドチョールコフが白軍の士官たちを虐殺するのを見て、いきなりピストルを構える。これが彼の赤軍を離れる動機の一つとなるが、こうした衝動的な正義感が戦争ないし革命のさなかにずっと保たれるはずはない。
グリゴーリーは優れた戦闘技術と見事な指揮能力によってコサック部隊の中で頭角を現し、やがて反乱軍コサック部隊の師団長にまでのし上がる。が、戦闘すなわち殺人を重ねる度、心は荒んでいく。血と酒と女の荒々しい暮らしの中、彼の心は空っぽで真っ暗になっていく。貴族出身の白軍司令官と感情的な衝突を起こし、一挙に中隊長に降等され、以後自滅
の道をひたすらたどっていく。
哀しいかな、彼は学識と理知に欠け、組織に不可欠な統制とか秩序に対しコサック農民としての本能的反感が強すぎた。歴史への眼力を持ち得ない彼は状況の変化につれ、それに対する感情のおもむくまま、流動する。皇帝の軍から赤軍へ、赤軍から白軍へ、そして遂には匪団へと移りゆく。
彼は未だ独身の応召前、隣家の人妻で美貌のコサック女アクシーニャに魅せられ、情交を結ぶ。宿命的恋愛は、戦乱を経ても消滅しない。戦火の中、彼は度々故郷を捨てるが、常にまた己の集落に舞い戻ってくる。コサックの野性的な美の象徴たる彼女が故郷に生きているからだろう。
巻末、アクシーニャとの絶望的な逃避行の中、彼女は敵弾を浴びて息絶える。グリゴーリーは断罪が待つのを承知で単身、幼子が独り残された郷里の村へ舞い戻る。今や集落を取り仕切るのは革命委員会議長に就く幼友達ミシカだ。彼は共産主義の教えを忠実に学び、あらゆる苦難に堪えて革命への道を進み、ソヴィエト時代を迎えて栄光を手にした男だ。
が、このミシカは抵抗力のない老爺に対し旧悪を咎めて無残に射殺するなど、非人間的冷酷さを剥き出しにする。それにひきかえ、グリゴーリーの心の動きは人間的に自然であり、ミシカより豊かで、より高い次元にあるように映る。反逆者と模範党員の両者を、表面に張られたレッテル通りに割り切ってではなく、より高次に描き出している。人はいかにあるべきか、人間の本性への深い省察が影を落とし、この作品を深めているように感じる。
見落とせないのが自然描写の素晴らしさだ。例えば、第一巻の後半に綴られるこんな文章。
――夏は乾ききって、ぶすぶす燃えるように暑かった。ドンも部落のわきのあたりでは水量が減り、夏まえまでは激流をなして、滔々とながれていたあたりも今では浅瀬になって、子どもは背中をぬらさずに向こう岸までわたれた。(中略)牧場では枯れたブリヤン草が燃え、甘いにおいのするもやが目にみえない帷をなしてドンの岸辺にかかっていた。
二十世紀の小説としては珍しく詩的な風景描写が多い。コサックは自然の子であり、ショーロホフにもコサックの血が半分(母方)流れている。自然描写が得手なのも、無理はなかろう。
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