二十世紀文学の名作に触れる(31) 『ブリキの太鼓』のギュンター・グラス――現代ドイツ最大の社会派作家

 中学一年の際に第二次世界大戦の幕開けを経験したギュンター・グラスはドイツ敗戦の直前、十七歳の少年兵として東方国境の最前線へ送られた。文字通り九死に一生を得る極限状況を体験し、戦後のドイツで良心的な社会派作家として不動の地位を築く。私は彼の自伝的な著書『玉ねぎの皮をむきながら』に接し、その運勢の強さに驚嘆。天の計らいか、と感じ入った。

 グラスは1927年、バルト海の港町ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク:当時は自由都市)に生まれた。ドイツ人の父親は食料雑貨店を営み、母はスラヴ系の少数民族カシューブ人で、『ブリキの太鼓』の主人公オスカルの人物設定そのまま。第一次大戦の敗戦国ドイツにヒトラー政権が成立するのが六年後の33年。この年、グラス少年は国民学校(今の小学校)に入学し、以後十代の青春期にかけてナチス政権の消長に境遇を左右される。

 ヒトラーは「ユーフェミズム」(わざと遠回しの言い方をすること)を活用した。「ドイツ国民を保護するための規制」を謳い、報道の自由を規制。「政治犯の再教育施設」を唱え、(ユダヤ人隔離用の)強制収容所を設立した。「官吏法」(非アーリア人は官職に就けないとの法令)を定め、「官吏団の民族的・人種的清掃と改組」と称し、ユダヤ人とは一言も名指しせずにユダヤ人の官吏・教授・裁判官などを罷免し、追放できる仕組みを作った。

 39年9月1日、ドイツ海軍の軍艦がダンツィヒ湾岸のポーランド軍事基地へ砲撃を開始。ドイツ軍はダンツィヒ自由都市に進駐し、ポーランド軍は七日間の抵抗後,降伏。これを機に第二次世界大戦が始まった。旧市街のポーランド郵便局の防衛に加わっていたグラスの母親の従兄弟は即決裁判で射殺(これも『ブリキの太鼓』での叙述そのまま)されている。

 一方、グラスの父親は36年にナチ党に入党し、グラス自身も翌年にナチスの青少年組織ヒトラー・ユーゲントの少年部に当たる「ユンクフォルク」(少年団)に加入している。グラス少年は十五歳でヒトラー・ユーゲントに入り、労働奉仕団員や空軍防空部隊補助員を務め、翌々年に応召。軍務に就くが二か月余で敗戦~米軍捕虜収容所で半年間の収容生活を送る。その後、デュッセルドルフで彫刻家・石工として生計を立てながら美術学校に通い、詩や戯曲なども書く。59年に発表した長編小説『ブリキの太鼓』で一躍有名作家となった。

 この出世作では、ドイツの戦前・戦中・戦後の在り方が故郷ダンツィヒとデュッセルドルフを舞台に、三歳で成長を止めた少年オスカルの下からの眼差しで生き生きと描かれる。雑居アパートの階段ごとに違う臭い――煮込みキャベツの匂い、洗濯物の下着や共同便所の臭いなどが漂ってくるかのように。そんな中、小市民たちはいつかナチスに迎合し、戦争に加担していく。戦後になると、自分たちの過去を忘れたかのごとく生きていく様子が示される。自分はナチという悪魔に騙されていただけだとし、厳しい反省がなされないまま。

 続いて61年に『猫と鼠』、63年に『犬の年』と同じく郷里ダンツィヒを舞台とする創作を発表。『ブリキの太鼓』と併せ「ダンツィヒ三部作」と呼ばれる。その後、フェミニズムを料理と歴史から描く『ひらめ』(79年)、『女ねずみ』(86年)、『鈴蛙の呼び声』(92年)と話題作を次々と刊行。99年には『私の一世紀』と題し、二十世紀の百年をそれぞれ一話ずつの短編を連ねて描き出す意欲的な趣向を試みている。

 グラスは60年代の頃からブラント旧西ドイツ首相(ドイツ社会民主党<SPD>党首)を支持し、社会民主党の選挙応援に奔走。「大連立」「小連立」と西ドイツの政権交代に貢献した。市民運動を組織化したり、時事的・政治的出来事で積極的に発言し、「社会参加」の代表的作家と目されるに至る。ドイツ再統一では、それが西ドイツによる東ドイツの一方的な吸収合併であるとして反対の論陣を張り、マスコミを敵に回すことも辞さなかった。

 前掲の大作『ひらめ』で壮大な構想の許に女性問題を扱う一方、80年代にはインド滞在などを通して、南北問題や環境問題の深刻さを痛感。文学でも第三世界の貧困や環境破壊の問題を視野に入れ始める。『女ねずみ』では、核戦争による人類滅亡のヴィジョンで深い絶望を表明しつつも、文学表現の可能性を極限にまで突き詰めようと努めた。

 99年にノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「遊戯と風刺に満ちた寓話的な作品によって、歴史の忘れられた側面を描き出した」。彼はその賞金でロマ民族(ジプシー)などのマイノリティの保護活動を早速展開する。二十一世紀に入ってからも『蟹の横歩き』(2002年)などの話題作・問題作を提供し、右傾化する社会に対して彼なりの抵抗を示した。

 06年、自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』を発表する。その中で、自分がナチスの「武装親衛隊員」だったことを記述し、波紋を広げた。問題の個所は「わたしはいかにして恐怖を学んだか」と題され、全十一章の中の第四章の部分(全五十四頁)。十七歳の最下級兵(戦車の砲手)として召集され、東方の最前線で負傷(幸い軽傷)~戦線を離脱~米軍の捕虜として敗戦を迎えるに至る顛末が生々しく事細かに綴られる。

 その一節に、彼はこう記す。「私は、最初はゆっくりと、やがて加速し、とうとう雪崩を打って大ドイツ帝国の崩壊が、組織立った混沌状態のうちに進行していくのを目撃することとなった」。敗戦寸前の45年四月半ば、ソ連軍の大部隊がポーランドとの国境のオーデル川・ナイセ川を越え、怒濤の勢いで進軍してくる。最前線で敵軍のロケット砲の猛烈な連続射撃を浴び、匍匐前進中のグラスは恐怖のあまり、ズボンの中で小便を漏らしてしまう。

 死体がそこら中に散乱する大混乱の中、十七歳の少年兵は本能的に退却の途を選ぶ。幾ばくかの変遷を経て、彼は六、七人のグループに属し、村の自転車屋の地下室に籠る。リーダーの曹長が激しい銃撃戦から逃れる方途を即断。「自転車に乗れ!全速力であっち側に行くんだ」と一同に命令を下す。が、グラスだけは自転車が苦手で乗れなかった。仕方なく、軽機関銃で援護する役を言いつかる。自転車で表に出た一同は敵の機関銃の斉射を浴び、瞬時に命を落とす。彼は家の裏口から逃れ、灌木の茂みに潜み、間道をたどって友軍の列に戻る。

 「武装親衛隊」がいかなる親衛隊であったかを問うことなしに、マスコミが飛びつき、大騒ぎになる。が、ひと月足らずで騒ぎは急速に終息する。その組織は「SS」の名で恐れられた親衛隊とは別で、戦争の進展と共に慌ただしく作られ、「十七歳以上」を急遽かき集め、絶望的戦線に投入した顛末が明らかになったからだ。私自身は原本に子細に目を通してみて、彼が文字通り紙一重のところで死線を脱した経緯を知り、その運勢の強さに舌を巻いた。
 
 グラスは14年に創作活動からの引退を表明。翌年、八十七歳で死去した。生前、彼はウクライナやパレスチナ、イラク、シリアなど現今の紛争地の状況を懸念。「まるで夢遊病者のように、世界大戦に突き進む可能性もある」と発言していた。現下のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻を見れば、その懸念が的外れでなかった、と知れる。停戦の兆しが見えない中、苛立つロシア軍が化学兵器や核兵器の使用を思い立たったりしないよう、請い願う。

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