二十世紀文学の名作に触れる(45) 『サンクチュアリ』のフォークナー ―― アメリカ文学を世界の檜舞台に引き上げた功労者

 1949年にノーベル文学賞を受けたウィリアム・フォークナー(1897~1962)は、ほぼ同世代のヘミングウェイと並び称される二十世紀アメリカ文学の巨匠だ。ヘミングウェイが海外で精力的に活動~戦争や冒険などを執筆テーマに選んだのとは好対照に、彼は米国南部の小さな田舎町を主舞台に独自の特異な作品世界を紡ぎ上げた。前衛的・実験的な物語手法を数々試み、世界の後続の意欲的な作家たちに少なからぬ影響を及ぼしている。

 フォークナーは1897年、米国の深南部ミシシッピ州北東部のユニオン郡に四人兄弟の長男として生まれた。1902年に鉄道員の父の勤務の都合で同州ラファイエット郡の田舎町オックスフォードに移住。生涯の大半をここで過ごし、彼の作品の大部分は同地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファーソンを舞台とする。

 父はスコットランド移民の子孫。曽祖父ウイリアム・クラーク・フォークナーは弁護士の傍ら、鉄道を開業したり、議会に進出。小説や紀行文を書いてベストセラーになるなどした傑物だった。この曽祖父を敬う少年はディケンズやマーク・トウェインなどの作品に親しみ、
 十歳の頃から詩作を始める。半面、学業には興味が持てず、高校は一年で中退している。

 1914年に第一次世界大戦が勃発し、彼は軍への入隊を希望する。身分を偽って英空軍に入り、訓練生としてカナダのトロントに赴くが、18年の大戦終結と共に除隊~帰郷する。軍隊帰りの特典でミシシッピ大学に入るが、学業に興味が持てず、一年で退学する。ニューヨークで書店勤めをしたり、大学の郵便長を務めるが、いずれも長続きしなかった。

 高校中退の前後、ストーンという四つ年上の法学士と懇意になった。文学への造詣が深い彼の手ほどきによって、フォークナーは豊かな文学的教養を身につけていく。このストーンの尽力で19年、第一詩集『大理石の牧神』を出版。25年には彼の勧めでニューオーリンズに赴き、アメリカ的な土着性とヨーロッパ的モダニズムの融合を志す作家シャーウッド・アンダーソンと交友を結び、その紹介で同地の雑誌や新聞などに作品を発表していく。

 詩人から散文作家に脱皮すべく、模索と試行錯誤を重ねる。最初の長編『兵士の報酬』(26年)は第一次大戦で記憶を失った青年の物語だ。二作目の『蚊』(27年)はハックスレー風の風刺的な小説。独自の作品世界を形成し始めるのは次の『サートリス』(29年)。旧家のサートリス家の没落過程を、主人公の曽祖父の因縁の物語として多くの自伝的要素を盛り込んで記し、以後の独自の文学的世界へと踏み出す端緒を成す。

 この後、『響きと怒り』(29年)、『死の床に横たわりて』(30年)、『サンクチュアリ』(31年)、『八月の光』(32年)、『アプサロム、アプサロム!』(36年)と傑作を発表していく。
 第四作の『響きと怒り』で彼は作品の表現形式を一変させる。章ごとに別の語り手を置き、冒頭の章では白痴の人物を語り手におくことで、混乱した場景を提示。以後を読み進めるにつれ、次第に物語が明確化していくという構成を成す。

 この作品では「意識の流れ」の手法により、語り手の現実的な視点に回想や意識下の思考(これらはしばしばイタリック体で記述)を挿入することで、語りを重層化させる試みがなされる。そして、ある作品に主役として登場した人物を他の作品で言及したり、主要人物として再登場させるといった手法で各作品を結び付け、作品世界に広がりを持たせている。

 『響きと怒り』の語り手の一人クェンティン・コンプソンが再登場する『アプサロム、アプサロム!』の場合。南北戦争の頃に南部にやってきた怪物的人物サトペンの一家の崩壊を、現代の若者であるコンプソンが関係者の証言を訊き、複数の証言者の語りが重なることによって、事実経過が再構成される。また、『野生の棕櫚』と『オールド・マン』という元々別個の作品を一章ずつ交互に提示して一冊にまとめるといった実験的な手法も試みている。

 彼の諸作品は当時フランスで紹介されて好い評価を受けたが、自国では評判が得られなかった。私生活では初恋の女性とは先方の両親に反対され、破談。別の男性と結ばれた彼女がしばらく後に離婚したのを待って、結婚する。先方の連れ子の二児を引き取っての暮らしは楽ではなく、ミシシッピ大学で夜勤のアルバイトをしたりしながら執筆にいそしんだ。

 生活のために、週給五百㌦でハリウッド映画の台本書きのアルバイト仕事を始める。以後45年まで度々現地に滞在した。ハリウッドの華やかで異質な世界は、戦争物のジャンルを含め視覚的・動的な映画式手法を彼に教えた。かつ、鬱陶しい家庭生活や米国深南部の片田舎の平凡な日常からの息抜き場所ともなった。ヒット映画の巨匠ハワード・ホークスと昵懇になり、彼の監督作品『脱出』『三つ数えろ』などの脚本執筆を手掛けている。

 上述したようなフォークナーの重層的な物語手法や方法実験、土俗的・因習的な主題を持つ物語世界は後世の様々な作家に影響を与えている。その中にはトニ・モリスン(アメリカ)、ガブリエル・ガルシア・マルケス(コロンビア)、莫言(中国)、そして日本人では井上光晴、大江健三郎、中上健次といった作家が含まれる。
 フォークナーは55年に来日し、長野市でのセミナーでこう述べた。「第二次大戦で負けた日本と南北戦争で負けた(自身の郷里の)アメリカ南部は似通った宿命を背負っている」。
 62年、落馬事故がもとで六十四歳で亡くなった。

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