川端は1968年のノーベル文学賞受賞の際、「日本の伝統のお陰」と謙遜。「名誉などというものは重荷となり、かえって委縮してしまうのでは」と危惧する言葉も口にした。四年後に仕事部屋でガス自殺を遂げたことを思い合わせると、痛ましい思いさえ湧く。両親に乳飲み子同然の頃に先立たれ、生来の無類の繊細さも相俟ち、記憶のない父母への思慕に飢えた生涯でもあった。
川端康成は1899(明治三二)年、現在の大阪市北区天神橋一丁目に医師の父・栄吉(30歳)と母・ゲン(同34歳)の長男として生まれた。父は漢学や書画を嗜む趣味人で、自宅で開業医をしていたが、肺病で32歳で死去。母も翌年に同じ病で亡くなる。康成は父方の祖父・三八郎に引き取られ、茨木市宿久庄で暮らし始める。記憶のない父母(特に母性)への思慕~憧憬の念は後年の彼の諸作品に反映されるようになる。
1912(大正2)年、旧制府立茨木中(現茨木高)に首席で合格。作家志望が兆し、『新潮』や『中央公論』など文芸誌を購読して新体詩や作文を綴り始める。翌々年に祖父・三八郎が死去し、天涯孤独の身となる。亡母の実家・黒田家の伯父(母の実兄)に引き取られ、明くる年から寄宿舎生活に入る。17(大正6)年、旧制一高文一(英文科)に入学。
翌年秋、初めて伊豆への単身旅行を思い立つ。10月30日~翌月7日の八日間、修善寺から下田街道伝いに湯ヶ島へ旅をした。孤独な己を憐れむ思いと、そんな己を厭う念とに堪えられぬままの、出立だった。この時、道中で旅芸人一行と道連れになり、幼い踊り子・加藤たみと出会う。下田港からの加茂丸での帰京便では十代の受験生と乗り合わせた。齢若い彼らの無垢な善意や、踊り子たみの「野の匂ひがある正直な好意」は川端の精神の疾患を癒やし、解放した。この間の一部始終は、後年の作品『伊豆の踊子』(1926年発表)に結実する。
私は六十代の頃(今から四半世紀ほど以前)しばらく東伊豆の山中で気ままに暮らし、伊豆のあちこちをマイカーで訪ね歩いた。川端が定宿にしていた湯ヶ島の旅荘「湯本館」も何度か訪問。年輩の女将さんから貴重な思い出話をいろいろ聞くことができた。彼女いわく、
――先生が当時乗船した加茂丸にたまたま乗り合わせた知人が下田にいて、「なんとも沈鬱な表情に強く胸を打たれた」と、話していました。
本筋に戻る。川端は一高在学の三年間、寮生活を送り、同級の石浜金作の手引きで国内の流行作家(菊池寛・芥川龍之介・志賀直哉ら)やロシア文学の傑作などに馴染む。浅草オペラの観劇などにも度々出かけ、当時の体験や見聞が後年の作品『浅草紅団』(1929~30年、朝日新聞などに発表)に実る。20年、菊池寛を訪ね、援助~教えを乞う。翌年、同級の石浜金作や鈴木彦次郎、今東光らと同人誌『新思潮』を発行。23年、『文芸春秋』に参加。33年、『文学界』を創刊する。
37年には創元社から小説『雪国』を刊行する。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という周知の書き出しで始まる名作だ。夜の暗闇と一面の雪の白さを対比させる「夜の底が暗くなった。」という感覚的な表現の一文も利いている。親の金で勝手に暮らしている男・島村が芸者の駒子の許へ向かう。駒子の妹分の葉子と連れの病人の男。現実と回想を繰り返しながら交錯。詩的な美しさが輝きを放つ川端文学の最高峰とされる作品である。
52年、『千羽鶴』を著し、芸術院賞を受ける。物語は、今は亡き不倫相手の成長した息子と会い、かつて愛した人の面影を宿すその青年に魅かれていく夫人。その女性の愛と死を軸に、美しく妖艶な夫人を志野茶碗の精のように回想する青年が、夫人の娘とも契る筋立てだ。
翌々年、『山の音』を刊行。戦後日本文学の最高峰と評され、野間文芸賞を受ける。海外でも評価が高く、エドワード・サイデンステッカーの翻訳で71年に日本文学として初めて全米図書翻訳部門を受賞。川端の作家的評価を決定づけた。主人公・尾形信吾はある時、山の音を聞く。瞬間、死期を告げられたかに感じ、彼は死を意識した日々を過ごしていく。息子の嫁に抱く淡い恋情や主人公の様々な夢想、復員兵の倅の退廃などを点描。家族間の心理的葛藤を鎌倉の美しい自然や風物と共に描く。
59年にゲーテ・メダル、61年に文化勲章を授与される。同年、新聞連載小説『古都』執筆準備のため、京都に家を借りる。同作は彼の最後の新聞小説で、ノーベル文学賞の対象作にも挙げられた。
67年に『眠れる美女』を発表する。主人公の江口老人は、既に「男ではなくなった」老人限定の宿に招待されていた。そこは眠っている全裸の美女と一夜を共にするという趣向の秘密の倶楽部だった。何度も通ううち、自分の中の性が未だ完全に失われていないことに気付くが、娘には手を出さないという宿の規則を思い出し、老人は何度も思い止まるが・・・。
68年にノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「日本人の心の精髄を優れた感受性を以て表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」。川端は受賞理由を「日本の伝統のおかげ」と語り、「名誉などというものは重荷となり、かえって委縮してしまうのではないか、と思う」とも言っている。
71年1月、築地本願寺で愛弟子格だった三島由紀夫(前年11月に自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺)葬儀・告別式の葬儀委員長を務める。翌72年4月、鎌倉の自宅から外出。逗子市のマンション内の仕事部屋でガス自殺しているのを発見される。享年七十二歳。
川端は71年の都知事選の際、美濃部亮吉都知事の再選阻止に立った秦野章自民党候補(落選)の応援演説を引き受けた。その街頭演説を取材した同僚記者が「脈絡不明な節があり、(どこか)おかしいのでは」と話していたのが忘れられない。
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