パール・バック(1892~1973年)は小説『大地』を著した当時を回顧し、「私はあの頃、ひどく沢山のお金が必要だったんです」と言っている。個人的な贅沢のためではない。大金が必要だったのは、娘のためだった。彼女の長女は、三つになっても口が利けなかった。悲しみに打ちひしがれながら、勇気を奮い起こし、娘の幸せのために働こうと決意したのだ。
近代中国の三世代にまたがる物語『大地』には、初代の主人公・王龍の長女として白痴の娘が登場する。そして、その彼女の面倒見のために、健気で気高い女奴隷・梨華が生涯をかけて尽くす。その辺りの筆致に、母親パール・バックの個人的な感慨が覗われる思いがする。
パール・バックの父はドイツ系、母はオランダ系で、二人とも南北戦争の以前から米国に移住している。父は若い頃から伝道師として、中国に渡航。パールが生まれたのは、母が中国で健康を損ね,休養のため故郷ウェスト・ヴァ―ジニアの片田舎に帰っていた時だ。彼女が生後三か月の時、一家は再び中国に赴く。その後、1910年、彼女がヴァ―ジニアの女子大に入学するまでの十八年間を、中国で暮らしている。
そして13年に大学を卒業後、再び中国の父母の許に戻る。17年、中国の農業経済を専攻するロシング・パックと結婚。夫と共に華北に住むが、五年ほどして南京に移り、南京大学でイギリス文学の講義をし、傍らプレスビテリアン派(長老派:カルヴァン派の新教徒)の宣教師も務めた。この頃から、中国問題に関する評論を書き始める。
25年に夫と共にアメリカに帰り、コーネル大学・エール大学でイギリス文学を研究し、マスター・オヴ・アーツの学位を取った。翌年、再び中国に戻る。当時、中国では国民党と共産党が国共合作を行なって北伐に乗り出していたが、27年4月に蒋介石はクーデターを断行し共産党を弾圧する。その直前、国民党が南京に攻め込んだ際、七人の外国人が殺害された(南京事件)。パール・バックは危うく難を逃れたが、家を焼き払われて書きかけの原稿が失われてしまうという被害を受けている。
参考までに、中国の清代末期の歩みを簡単におさらいしておく。
▽1894年:日清戦争が勃発~孫文が興中会を起こす。▽95年:孫文が広州で挙兵して失敗~日本へ亡命。▽99年:義和団が「扶清滅洋」を唱え、イギリス人宣教師を殺害。▽1900年:義和団が北京入城~清が列国に宣戦~連合軍が北京に入城。▽1907年:清国で革命運動が活発化する。▽1911年:清国・武昌に辛亥革命(第一革命)が起き、各省が相次ぎ独立~孫文を臨時大統領に選出。▽1912年:中華民国が成立~清朝(12世、297年)滅ぶ。
改めて、驚く。中国で帝政が廃止され、共和制へ国柄が変わってから、未だ百十年ほどしか経っていない。彼女の作品『大地』には、農村の大地主の家庭での妻妾同居の実態や、葬式後に後嗣が三年の喪を強いられ不自由を忍ぶ有り様やら、が生々しく描かれる。現代中国は、封建時代の後進性を脱却してから、それほど歳月を経過していないのだ。
パール・バックに戻る。上記の年代は彼女が物心ついてから成人を迎えるまでの時期に丁度ぴったり符合する。義和団蜂起の頃は未だ小学生で、その意味がよく理解できなかった。だが、今回の難(南京事件)では、その歴史的・社会的意義を十分に学ぶことができた。彼女は中国語を自由に操ったばかりでなく、中国の民衆を心から愛し、「生まれと祖先に関しては私は米国人だが、同情と感覚では中国人だ」とさえ告白している。
個人的には被害を受けても、彼女は中国の民衆を憎む気にはなれなかった。彼らをもっと深く理解しようと決心し、それが『大地』を著す前堤になっている。彼女はまた、自分が白痴同然の不幸な子供を持ったという悲劇を通して、中国の民衆の悲劇にたどりつこうと努めた。南京事件で日本の雲仙に一時避難した後、中国に戻り、本格的な執筆活動に入る。
30年、最初の小説『東の風、西の風』を発表。翌年の二作目『大地』(今日の三部作の大作の第一部)が大ベストセラーとなり、32年のピューリッツァ―賞を受ける。その翌々年に中国を離れ、半生を過ごした彼の地に二度と戻ることはなかった。38年、三部作『大地』の業績により、ノーベル文学賞を受ける。なお、現在の中国では、パール・バックの作品はアメリカの侵略主義に結びつくものとして、激しく非難されている。私個人は、それは余りにも狭量に過ぎよう、と残念に思う。
『大地』はアメリカ文学の伝統を最も強く生かした叙事的作品だ。物語の面白さをよく生かしていて、ストウ夫人の『アンクル・トムズ・ケビン』(1852年)などの系譜を継いでいるように映る。前回取り上げたスタインベックの『怒りの葡萄』(1939年)に比肩する社会派の作品と見なす識者も少なくない。ヒューマニズムの伝統をしっかり踏まえ、かつパール・バックならではの個性豊かな傑作と言ってよかろう。
なお、彼女は35年に離婚し、出版社の社長リチャード・ウォルシュと再婚している。後年に彼女が漏らしたところによると、前夫はひどく専制的で自由にペンを執ることができず、その状態を二十年間も辛抱してきた、という。そうした家庭生活への抵抗感も、『大地』の中に間接的には反映している、と推定される。
最初の夫との間に知的障害を持つ一人娘キャロルをもうけたが、その後は子供を産めない体になったため、孤児六人を養子として自らの手で育てた。二度目の夫と共に人種を問わない国際的な養子仲介機関「ウェルカム・ハウス」を設立。後には、米国人とアジア人との混血の孤児たちを教育するためパール・バック財団を設立し、運営に当たった。日本との関係では、ノーモアヒロシマズ運動を提唱したキリスト教の牧師・谷本清の広島での平和活動の支援も行っている。彼女は73年、八十歳で亡くなった。
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