1913年にアジア人初のノーベル賞作家となったインドの詩人タゴールは、よく「詩聖」と称えられる。アイルランド出身の高名な詩人イェイツ(1923年にノーベル文学賞受賞)は、タゴールの受賞作『ギタンジャリ』(「歌の捧げ物」の意)の序文にこう記した。「あまりにも内容が豊かで平易。私が生涯つねに夢見てきた一つの世界を顕わしている。」
イェイツはタゴールが受賞する直前の1912年、たまたまタゴールの自筆原稿(英文)を目にする巡り合わせとなる。感動の余り、何日間もそのノートを持ち歩き、乗り物やレストランの中でも読み耽った、と言われる。私はレグルス文庫版『ギタンジャリ』(森本達男・訳註)を参照し、全103編の中でとりわけ心惹かれた10編を以下に紹介する。
◆11 そのような詠唱を 讃歌を 数珠のつまぐりをやめるのだ。扉をすっかり閉ざした寺院の こんな寂しい暗い片隅で、おまえは誰を拝んでいるのか? おまえの目を開けるのだ、そして見るがよい――おまえの前に 神がいまさぬのを。/農夫が固い土を耕しているところ、道路人夫が石を砕いているところ、そこに 神はいたもう。神は 照る日も雨の日も 働く者とともにいて、その衣は塵にまみれている。おまえの法衣を脱ぎ捨て、あのかたにならって 埃っぽい大地の上に降りてくるのだ!/解脱? そのような救いは どこにあるというのか? われらの主は 嬉々として 創造の束縛を自らひきうけられたのだ。主は永遠に われらすべてのものと結ばれている。/おまえの瞑想から出て来るがいい、そして おまえの花も香も捨てるのだ! おまえの衣が破れ 汚れたとて、なんのことがあろう? 苦役にいそしみ、額に汗して、あのかたに逢い、あのかたのおそばに立つのだ。
◆19 あなたが言葉をかけてくださらないなら、わたしは あなたの沈黙を心にみたして、じっとそれに耐えましょう。まんじりともせず、星のまたたく夜のように、辛抱づよく頭をたれて、わたしは 静かに じっと待ちましょう。/朝はかならず来るでしょう――闇は消え、あなたの声は 空をつきやぶる金色の流れとなって 降りそそぐでしょう。/そのとき あなたのことばは わたしの鳥たちの巣の一つ一つから 歌の翼となって舞いあがり、あなたの歌声は わたしの森のどの茂みにも 花となって咲き出ることでしょう。
◆23 友よ、こんな嵐の夜にも あなたは愛の旅路を急いでいるのか。空は 絶望した
者のように呻いている。/今宵 わたしは眠れない。友よ、いくたびもわたしは扉を開けては 闇をうかがう。/目の前には なにひとつ見えない。あなたの径は どこにあるのか!/墨を流したような川の 暗い岸辺のどのあたりを通って、陰鬱な森の 遠いはずれのどのあたりを通って、暗闇の迷路の どんな深みを通って、あなたは わたしのもとへと辿ってくるのか、おお、友よ!
◆26 あのかたが来て、わたしのそばに坐ったのに、わたしは目覚めなかった。なんといういまいましい眠りだったことか。おお、哀れなわたしよ!/あのかたは 夜の静寂にやって来た――その手に竪琴をもって。 そして、わたしの夢たちは その旋律に合わせて 心地よくうたった。/ああ、なぜに私の夜な夜なは みんな こうして失われてしまうのだろう。ああ、あのかたの息づかいが わたしの眠りにふれているのに、どうしてわたしは いつも あのかたのお姿を見逃してしまうのだろう。
◆35 心が怖れをいだかず、顔が毅然と高く保たれているところ、/知識が自由であるところ、/世界が 狭い 国家の壁で ばらばらにひき裂かれていないところ、/言葉が 真理の深みから湧き出づるところ、/たゆみない努力が 完成に向かって 両腕をさしのべるところ、/理性の清い流れが 形骸化した因習の干からびた砂漠の砂に吸い込まれ 道を失うことのないところ、/心が ますます広がりゆく思想と行動へと、おんみの手で導かれ 前進するところ――/そのような自由の天国へと、父よ、わが祖国を目覚めさせたまえ。
◆42 朝早く、囁く声がした――さあ、あなたとわたしと二人だけで 小舟に乗って出かけよう、と。あてのない 終わりのない わたしたちのこの巡礼のことを知る人は 広い世間にひとりとしていないだろう。/見渡すかぎりの大海原で あなたが黙って 微笑みながら耳を傾けると、わたしの歌はたゆとう波のように自由に いっさいの言葉の束縛から解放されて、美しいメロディーとなって高まるだろう。/その時は まだ来ないのか? まだ仕残した仕事があるというのか? ごらんよ、夕べが岸にふりかかり、薄れゆく光のなかを
海鳥がねぐらへ飛んでゆく。/いつになったら纜が解かれ、落日の最後のかがやきのように、舟は夜の闇のなかへ消えてゆくのだろうか。
◆58 歓びの調べを ことごとく わたしの最後の歌にとりいれよう――歓びは 大地を さんざめく草たちで溢れさせる。歓びは双子の兄弟・生と死を 広い世界で踊らせる。
歓びは 嵐とともに吹き来たり、高らかな笑いで あらゆる生命を揺り起こす。歓びは
花咲く苦悩の紅い蓮華の上で 涙をたたえて 静かに坐る。 そして歓びは いっさいの持ち物を塵のなかになげすてて、黙して語らない。
◆69 昼となく夜となく わたしの血管をながれる同じ生命の流れが、世界をつらぬいてながれ、律動的に鼓動をうちながら、躍動している。/その同じ生命が 大地の塵のなかをかけめぐり、無数の草の葉のなかに歓びとなって萌え出で、木の葉や花々のざわめく波となってくだける。/その同じ生命が 生と死の海の揺り籠のなかで、潮の満ち干につれて
ゆられている。/この生命の世界に触れると わたしの手足は輝きわたるかに思われる。そ
して、いまこの刹那にも、幾世代の生命の鼓動が わたしの血のなかに脈打っているという思いから、わたしの誇りは沸きおこる。
◆74 日は はや 暮れ、陰が 大地をおおう。川に行き、瓶に水を汲む時刻です。/夕べの大気は 流れのもの悲しい音楽に じっと聴き入っている――ああ、それは わたしを黄昏のなかへ誘います。寂しい小道に 人影はなく、風は立ち 漣が川面にさわぐ。/わたしには 自分が家へ帰るのか、誰にめぐり逢うのかもわかりません。向こうの渡し場の
小舟のなかで 見知らぬ人が 竪琴を奏でています。
◆90 死がおまえの戸口を叩く日に、おまえは 何をささげるつもりか?/おお、わたしは なみなみとわたしの生命をたたえた盃を 客人の前にさし出そう――けっして 素手では客人を帰しはすまい。/秋の日 夏の夜をかけて わたしが造った美酒のすべてを、あくせく働きつづけたわたしの人生の 収穫と蓄積のすべてを、わたしは 客人の前にさしだそう――死が わたしの戸口を叩く人生の終焉の日に。
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