6月23日に行われた国民投票の結果、イギリスがEUを離脱することが決定した。この結果が政治的、経済的、社会的に見て、計り知れないほどの大きな影響を世界に与えると至る所で語られている。政治学者でも、経済学者でも、社会学者でもない私にはそうした大問題について語る資格も、能力もない。だが、この選択がEU離脱か残留かという二項対立図式に基づく国民投票によって行われたこと、すなわち、選択肢がAかBかでしかなかったという問題は論証性や対話性、主体性の表明といった私が日ごろ研究している課題と深く係っている。この小論では現代社会において自由選択の名の下に実施される制限された選択という問題や、二項対立図式によって導かれる言説の中で示される多様性を排除した論理展開といった問題について考察していく。
この探究課題を検討するために非常に興味深いテクストがある。それはミシェル・ウエルベックとエリック・ゼムールというフランスの二人の右派知識人の書いたテクストである。ここでは後に述べる彼らのテクストを分析しながら、上述した問題性、すなわち、言説内の論理展開の中に隠されたファシズム性の罠について語っていきたいと思う。
ウエルベックとゼムール
フランスの雑誌L’Obsの2016年4月28日号に『ジャック・ラカン伝』の著者として知られている精神分析家のエリザベート・ルディネスコの「この国にはファシズムへの無意識的欲望がある」というタイトルがつけられたインタビュー記事が載っていた。そこではフランスにおける近年の知識人の右傾化傾向に対する的確な指摘がなされていたが、残念なことに右派の知識人たちの発言の中に実際に表明されているファシズム的要因についてのはっきりとした分析はなされていなかった (それこそがこの小論のテーマであるのだが)。しかし、彼女が挙げていた代表的な4人の右派知識人は、現代のフランスのオピニオン・リーダーとして、重要な位置を占めていることは確かである。その4人とは、哲学者のミシェル・オンフレーとアラン・フィンケエルクロート、作家のウエルベックとジャーナリストで作家のゼムールである。彼らの中で、特に後の二人は専門家だけではなく、一般のフランス人にもよく知られており、文化人としてかなりの人気があり、一般大衆への影響力が強い。二人の言説には後で述べるような興味深い共通点があり、それを追うことによって導入セクションで述べた問題に対して厳密な分析を行うことができると考えられる。だがこの考察を行う前に、まず分析の補足説明のために必要な二人の大まかなプロフィールを示すべきであろう。
ウエルベックは1958年、インド洋にあるフランスの海外領レユニオン島で生まれ、2010年にゴンクール賞を受賞し、数多くの小説が日本語にも翻訳されている。代表的な小説としては、『素粒子』(Les Particules élémentaires, 1998)、『プラットフォーム』(Plateforme, 2001)、『地図と領土』(La carte et le territoire, 2010)、『服従』(Soumission, 2015) などがある。最後に挙げた『服従』は2022年フランスにイスラム教徒の大統領が誕生するという内容であるが、発刊当日の1月7日にパリでシャルリ・エブド襲撃事件が起こったことによって世界的なベストセラーとなった。
ゼムールも1958年生まれで、フィガロ・マガジンにコラムを執筆しつつ、テレビやラジオにもレギュラー番組を持っている。数多くの評論テクストがあるが、Le Premier sexe (2006) はベストセラーとなり、日本でも『女になりたがる男たち』というタイトルで翻訳されている。2010年に書かれたMélancolie française (『フランスの憂鬱』) もフランスでベスト・セラーとなった。また、1999年からは小説家としても活躍している。右派の代表としての度重なる反フェミニズム、反移民発言は、左派からの激しい反発を招いている。
この二人の作品には、«男と女»、«聖と俗»、«自国民と外国人»、«支配と被支配» という二項対立概念を提示し、どちらか一方のみを選択することによって物語の流れや、論理展開を進めるという共通点がある。以下のセクションでは彼らのこの言説的な特徴とそれが孕む問題性について考えてみる。
ウエルベックの二項対立図式
ウエルベックのテクストの中に登場する上述した二項対立図式の使用を分析するために、この対立図式が最もよく示されていると思われる『服従』(河出書房新社、2015、大塚桃訳) をコーパス (煩雑さを避けるためにここでは邦訳本をコーパスとする) として考察を行っていきたい。この小説のおおよそのストーリーは先ほども少し触れたが、2022年にフランスにおいてイスラム教徒の大統領が誕生する中、活力を失った西洋社会で、政治意識をほとんど持つことがなく生きる知識人フランソワを主人公として物語が進行するというものである。19世紀フランスの代表的なデカダン作家とされるユイスマンスの専門家であり、パリ第3大学教授のフランソワの視点から政治・社会・文化的激変によって混乱するフランスの様相が描かれているが、注目すべき点はこの小論の探究課題である二項対立概念を巡って設定された言説の多用である。それゆえここでは前のセクションで指摘した4つの二項対立図式が『服従』の中でどのように示されているのかを具体的に見ていこうと思う。
«男と女» はウエルベックだけでなくフランスの右派知識人が必ず言及する対立概念である。この小説では男性の理想形としてマッチョ (macho:この言葉については次のセクションで詳しく述べる) が称賛され、女性はまるで男性の性的な対象以外の価値を有さないような描写が多々現れる。そして女性の民主主義的権利は否定される。たとえば、「実際のところ、女性が投票できるとか、男性と同じ学問をし、同じ職業に就くことがそれほどいい考えだと心から思ったことはない。今はみんな慣れっこになってるけど、本当のところ、それっていい考えなのかな」というフランソワの発言は、男女平等を批判し、男性中心主義の家父長制度によって維持されていた過去の時代を肯定する復古主義的な側面が強調されている。
«聖と俗» という問題について『服従』の中には、「カトリックの教会は、進歩主義者に媚び、おべっかを使い甘やかすことで、恥ずべきことに、退廃的な社会の傾向に対抗不可能になり、同性愛者の結婚や、妊娠中絶や女性の就労の権利をきっぱりとそして厳格に否定できなくなったのだ」という指摘がある。この小説においては、西洋の先進国であるフランスの社会をリードしてきたキリスト教は凋落し、もはや聖なるものを背景とした指導原理としての地位を失い、それに代わってイスラム教がフランス社会をリードするようになるという設定がなされている。そこには西洋市民社会の進んだ側面であると見なされてきた様々な権利を否定しようという態度が明確に表明されている。
«自国民と外国人» の問題は外国人が厄介事を起こす移民という視点からだけ述べられている訳ではない。ヨーロッパ文明が末期的症状を呈しており、オイルマネーをふんだんに持つイスラム教国の経済的優位という側面が強調されている。小説には「何週間か前から、ソルボンヌ大学の分校をドバイ (…) にも作ろうという、少なくとも四、五年前からの古いプロジェクトがまた表面化していた。同様のプロジェクトはオックスフォード大学も検討中で、この二つの大学の歴史の古さがオイルマネーの豊かなどこぞの国を魅了したに違いなかった」という言葉が書かれている。こうした設定は経済力をバックにした強力な外国勢力と、自国の文化を切り売りするヨーロッパの年老いた国というイメージが増幅されたものとなっている。
«支配と被支配» という点に関して、小説の主要登場人物の一人であるルディジェが「『O嬢の物語』にあるものは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるというのは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです」と語っている点は重要である。力のあるものに従うことこそがよいことであり、それこそが幸福であるという考えは、いわば家父長制に基づく旧体制的な社会システムが善であり、そこにこそ安定と未来があることが全面的に肯定されているからだ。それは保守主義であり、西洋社会においては復古主義であり、男性中心的原理が支配原理となることを望むものである。
ゼムールの二項対立図式
ゼムールの二項対立図式を分析するためにここでは『女になりたがる男たち』(新潮社、2008、夏目幸子訳) をコーパスとして、前のセクションで行ったように、«男と女»、«聖と俗»、«自国民と外国人»、«支配と被支配» という4つの二項対立概念に対するゼムールの立場を考察していこうと思う。だがその前に、この本の概要について述べておく必要性があるだろう。この本はフランスの現代社会を批判した評論で、フェミニズム理論に対して特に強く反論し、かつての男性中心社会の復活を強く主張している。こうした論調はもちろんフェミニストから大きな反発を招いたが、二項対立概念を提示してどちらか一方を選択することが正しいと直接的、間接的に読者に迫る論証法を数多く用いていることが大きな特徴となっているテクストである。では、この論証について具体的に見ていこう。
«男と女» という性的な違いは、恋愛、家族、教育など多くの社会問題を考えるための基本的差異である。だが、現代においては、フェミニストと同性愛者の増大によって、この二つの差異は消えかかっているとゼムールは述べている。そして男性が元来は女性的であると思われていたものを尊び、女性化していくことによってユニセックスの社会が理想とされるようになったと指摘している。男性像は現代においてはマッチョ型とゲイ型に分類され、力強いが暴力的と見なされるマッチョ型の男性はフェミニストに指導された女性たちに嫌厭され、女性的なゲイ型の男性が尊重されるようになったと書かれている。「ゲイはマッチョと対をなし、コインの裏と表に相当する。ゲイは光でマッチョは影。ゲイは善でマッチョは悪。女性化され、もてはやされるのがゲイ。粗野な男らしさゆえに否定され、軽蔑されるのがマッチョ。そしてマッチョは社会から追放だ」というように現代社会の様相をラディカルに示し、そうした社会を否定し、従来の男性像の復権をゼムールは声高に語っている。
«聖と俗» という二項対立もこの本の中では性的な問題と関連づけられながら書かれている。聖性の象徴としての愛と俗性の象徴としての性欲という対立項の葛藤の中に置かれた白人男性についてゼムールは以下のように話している。「彼らは妻を愛している。愛しているのだが、愛しすぎていて、尊敬しすぎていて、崇拝しすぎていて、恐れすぎていて、性欲を抱けなくなってしまったのだ。」それゆえ、社会的、経済的な様々な要因が絡み合う男女関係を考察した後に、ゼムールは「今日の社会はこうした男女関係の複雑さを認めようとはせず、平等と尊敬でもってあらゆる欲望を無化している」として、聖なるものに対立する俗なものとしての性欲の重要性を強調している。
«自国民と外国人» という二項対立図式に関して自国の善良な人々に対立する野蛮な外国人の移民として登場するのがアラブ人男性である。「彼らは男が女性化されていない世界の出身で、衝動に従って行動するが、同時にその衝動は宗教や家族の掟という枠組みによって抑制されている。ところが彼らが住む国フランスでは枠組みはすでに破壊されてしまっているので、無防備な都市における征服者のように振る舞う」と語られている。無教養で、白人男性がかつて有していた暴力性が全身に満ちている野蛮人、フェミニストに牛耳られたフランス社会に巣くう異邦の悪魔がアラビア人だと断言しているのである。しかしながら、その野蛮人の持つファルスの力に匹敵する力こそが、中性化して生殖能力を失った現代フランス社会を打破するために必要不可欠なものであるとゼムールは主張している。
«支配と被支配» の関係はフランスにおいては移民問題における支配方法の変更によって大きく変化したと述べられている。フランス政府が移民に従来求めていたフランスのシステムへの同化という政策を変え、移民が持っている社会的、文化的慣習を捨てずともフランス社会へ参入できるというより寛容な統合という政策を実施するようになったのだ。「(…)「統合」という言葉は、呪文となり宗教となった。「統合」は、それまでのフランスの伝統だった「同化」モデルに取って代わった。移民とその子どもの同化をあきらめるということは、すなわち男性的権威でもってフランスの文化を彼らに受け入れさせることをあきらめるということだ」という言葉は、支配の弱体化という側面を指摘しているだけではなく、移民に対する政府の弱腰を批判し、強いフランスを再び目指せという暗黙の要求が隠されている。「権力とは、悪であり、死であり、男根であり、男だ」という発言はまさにこの要求の根拠となるものである。
止揚なき対立
『服従』は小説であり、『女になりたがる男たち』は評論であるというジャンルの相違がある。異なるジャンルのテクストを安易に比較して某かの結論を出すことは賢明なことではない。しかしながらこの小論ではウエルベックとゼムールの語りが、小説と評論というジャンルの違いを超え、共通のイデオロギーとそれを擁護するために用いられる同じ論理に基づいていることを問題としている。それゆえ、この点にだけに焦点を当てて二つのテクストに底流するものは何かを考えていく試みは正当化されるものであると思われる。
二つのテクストの共通点を検討する前に、これらのテクスト内で提示されている論証性の特質をよりよく理解するために、二項対立概念を駆使して理論体系を構築したフェルナン・ド・ソシュールの論証方法について考えてみたい。言語体系と個人的使用言語を示す «ラングとパロール»、言語の歴史的変化を考察しようとする学的姿勢と特定期間内の言語体系を考察しようとする学的姿勢である «通時態と共時態»、音的な側面 (音声言語以外の手話という言語体系においては動素の側面であるが) と意味的側面を示す «シニフィアンとシニフィエ»、記号が他の記号と意味的・形態的な何らかの類縁性を有するという問題と記号が時間軸に沿って並置されていく問題である «連合関係と連辞関係» といった二項対立概念は、相互に依存しながら言語システムの成り立ちを厳密に解明するために提示された分析装置である。それゆえそこにはAかBかの選択という論理は存在しない。また、言語システムの基本単位の抽出という問題に対しても、ある言語記号と他のある言語記号との差異によって基本単位が導かれる。そこにあるものは、排除の法則ではなく統一の法則であり、弁証法的発展であり、それによってラングというシステムの根幹が構成されるのである。
二項対立概念を用いながらもその対立する二つの要素を止揚させることによって論理展開を行っていく論証方法が弁証法であるが、ウエルベックの論理展開にもゼムールの論理展開にもこうした弁証法的な発展性はまったく存在していない。スイスの論理学者ジャン=ブレーズ・グリーズは、アリストテレスが論理を示す方法として「三段論法」、「弁証法」、「レトリック」の三つを提示していると主張している。三段論法が真偽値と係り、弁証法が蓋然性と係り論理展開するのに対して、レトリックは論理展開する語る主体の主観的な判断が優先される。それゆえグリーズに従えば、レトリックにおける論理展開は客観的根拠も、論証がより発展的に進行する可能性も存在していなくとも基本的には何の問題もないものなのである。このように考察すると、ソシュールの二項対立図式とはまったく異なり、ウエルベックとゼムールの論理は体系化の試みとも客観化の試みとも大きく隔たったレトリックによる論理を多用することによって、何らかの方向性に読者を導くような操作を行っていることに気づかされるが、多用されたこの論理の中に隠されているイデオロギーとは何かということについては次のセクションで検討していく。
原ファシズム
上記したルディネスコの記事のタイトルにある「ファシズムへの無意識的欲望」という言葉は重要である。ウンベルト・エーコは『永遠のファシズム』(岩波書店、1998、和田忠彦訳) の中でファシズムの基本的な特徴 (Ur-Fascismo:原ファシズム) を14挙げているが、それらの特徴と、ウエルベックとゼムールの論証性とがいかなる関係性を持っているかという点についてこのセクションでは考察していきたい。まず14の特徴を提示しよう。それは、1. «伝統崇拝»、2. «モダニズムの拒絶:非合理主義»、3. «「行動のための行動」の称賛»、4. «混合主義»、5. «異質性の排除»、6. «個人もしくは社会の欲求不満からの発生»、7. «ナショナリズム»、8. «敵の力を客観的に把握する能力の体質的な欠如»、9. «闘争のための生»、10. «大衆エリート主義:階級主義»、11. «英雄主義»、12. «マチズモ (男性中心主義)»、13. «質的ポピュリズム»、14. «「新言語」の使用» である。
ウエルベックとゼムールの論証の中には、少なくとも、上記したものと関連する以下の特徴を有している。家父長制への復権を支持する点で伝統崇拝が見られる (1:これ以降の括弧内の数字は上記したどの項目と関係するかを示す)。近代市民社会の成果を否定することによるモダニズムの拒否が存在している (2)。混合主義は批判に耳を傾けないとエーコは述べているが、二人の考えにおいてフェミニズムはまったく認められていない (4)。同性愛の否定などには異質性の排除が見られる (5)。二人の発言の基盤となっているものはまさに現代社会への不満である (6)。国家単位での問題に依拠する以上そこにはナショナリズムが垣間見られる (7)。男性の暴力性への称揚は闘争のための生の問題を孕んでいる (9)。弱者軽視という階級主義を根幹とした思想が存在している (10)。強き父の代表としての偉大なリーダーに対する崇拝は英雄主義そのものである (11)。二人の言説の大きな論拠の一つがまさにマチズモである (12)。大衆の質的差異が無視され、多数決に従わなければならないという点だけが強調される数への還元が重視されている (13)。
エーコが指摘した14のうち11の特徴が二人の言説の中に現れている。この点だけ見ても彼らの言説にはファシズム性が隠されており、その原ファシズム的言説を正当化するために二項対立図式が多用され、対立する概念のAかBかの選択を読み手に暗に強要するレトリックが使われていることが理解できる。ルディネスコが言うようにそこにはまさに「ファシズムへの欲望」が隠されているのである。だがそれが必ずしも「無意識的」である訳ではなく、それが「この国」すなわちフランスだけの問題である訳でもないという修正が必要ではあるが。この点に関しては結論部分で述べることにする。
20世紀の後半以降、文化相対主義、多言語多文化主義などの必要性が強調される一方で、資本主義経済に基づくグローバリゼーションが急速に世界に広がっていった。だが、この相反する二つの指導原理は多くの混乱や対立を生み出した。その狭間に登場したものがファシズム性であり、こうしたファシズム性を正当化するために用いられる典型的な論証が、二項対立概念を提示し、AかBかの選択を迫るという方法ではないだろうか。その典型例として、ここではウエルベックとゼムールの言説の分析を行ったが、ウエルベックの言説は小説であるために、そこに現れたファシズム性はルディネスコが指摘したように無意識的と語られ得るかもしれないが、ゼムールの言説は意識的なファシズム容認として十分に捉えられるものである。それゆえ、現代のフランスにおけるオピニオン・リーダーとしての右派知識人の未来に対する一つの方向性が、意識的にも、無意識的にもファシズムの方向に向かっていると言えるのではないだろうか。
また、潜在的にファシズムの方向に向かっているのはフランスだけではない。アメリカ大統領候補のトランプの言説にも、冒頭で述べた自国中心主義を背景としたイギリスのEU離脱問題における離脱か残留かという二項対立図式にも、日本の現政権の中にも、ファシズムに至る危険性を孕む言説が多用されている。そのすべてをここで提示することはできないが、自民党が2014年の衆議院選挙で用いたスローガンともうすぐ行われる参議院選挙のスローガンだけは考察してみたい。「景気回復、この道しかない。」これが2014年のスローガンであるが、「この道」とはもちろんアベノミックスであるが、経済回復政策にアベノミックスとそれ以外の政策を対立させ、前者の選択のみが正しいというように選挙民の選択を暗に導こうとする言説的操作が見られる。そこにはウエルベックやゼムールが用いた二項対立図式と共通するレトリックが存在する。つまり、意識的か無意識的かは判らないが、潜在的なファシズム性が隠されていると述べ得るのではないだろうか。さらに、選挙公約の中ではほとんど言及されていなかった安保法制に関する法案が国民の多くの反対にも係らず強行採決された点なども併せて考えるならば、尚更ファシズム的なものとの関連性が指摘できるだろう。そして、今回の選挙スローガンは「この道を。力強く、前へ。」この道がアベノミックスの推進だけではなく、潜在的ファシズムの道ではないとはっきり断言できるのかと疑問に思うのは私だけであろうか。
いずれにせよ、われわれはファシズム性を孕みながらもそれにベールを掛け覆い隠す巧妙なレトリックの正体をしっかりと見極める必要性がある。世界が多様性を認めながらも一つの理想の下で調和的に発展しようという方向性から外れ、自国中心主義を掲げるポピュリストたちが世界中で跋扈している現状がある。われわれは彼らの語る言説の中にあるファシズム的レトリックを正しく嗅ぎ分け、二項対立図式を使った言説の罠に嵌り込まないように十分に警戒しなければならない。もしもそうしなかったならば、われわれの時代の弱くて脆い希望は、暗い闇の中に、少しずつ確実に引きずり込まれていくからである。
初出:ブログ宇波彰現代哲学研究所より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study747:160707〕