五條天神のタヌキが言った。「天皇制にバカされちゃいけないよ」と。

雨上がりの土曜日の朝の散歩。思いがけなくも、五條天神の境内でタヌキに出会った。上野公園でタヌキ、私には初めての経験。アライグマでもハクビシンでもない、紛れもなきタヌキ一匹。もっとも、野性味に欠けること甚だしい。観光客のカメラに怯えることなく、しばらく目の前をノソノソと歩いて茂みに消えた。ご近所に声を掛けると、4匹のタヌキの家族が棲みついているのだという。「かわいいものですよ」と、聞かされた。なるほど確かにかわいい。しかし、相手はタヌキである。ダマされることのないように気をつけたい。

その五條天神の掲示板には、「今月の生命の言葉」として、本居宣長の次の和歌(のようなもの)が掲示されている。

 高御座(たかみくら) 天(あま)つ日嗣(ひつぎ)と
 日の御子の 受け伝へます
 道は斯の道

 大学者の歌なのだから、おそらくは深遠な哲学が込められているに違いない。うかつにもそんな思い込みから畏れいって読み込むと、何かしらの意味が感得されるのかもしれない。しかし、そんな思い込みが、既にバカされているのだと知らねばならない。タヌキにではなく、天皇制というイデオロギー操作装置にである。

畏れいることなく普通に読めば、まことにつまらない敬語の羅列。何の感興も湧くべくもない。宣長は、天皇なり皇道なりのコマーシャルメッセージのつもりなのだろうが、それにしてもできはよくない。

これは神なる天皇を賛美する信仰の歌である。拙劣ではあっても、「道は斯の道」だけで分かりあえる同じ信仰を持つ者だけに通用するフレーズ。理性を持ち、天皇を神と思わぬ普通の感性をもつ人には、高御座も天つ日嗣も日の御子も、興趣を惹くものではあり得ない。むしろ、その押しつけがましさに辟易するばかり。

ただ、なかなかにはっきりそうは言いにくい雰囲気が,この社会に充ち満ちている。天皇制という政治の小道具の便利さを享受したいとする保守勢力がそう仕向けている。いかに荒唐無稽でも、神話に基づく天皇制の権威の維持が大切なのだ。多くの人が、これに敢えて抗うことを避けていることがおおきな問題ではないか。批判を控えているうちに、ますます批判が難しくなる。天皇神話にバカされた振りを余儀なくされることにもなりかねない。

神社の掲示板には、併せてこんな予定が告知されている。
【十月二十二日】「即位礼当日賢所大前の儀」・「即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」「即位礼正殿の儀」・「祝賀御列の儀(パレード)」

そして、「即位礼正殿の儀」について、こんな解説がなされている。

 天皇陛下が御即位を国の内外に宣明される儀式を「即位礼正殿の儀」と言います。
宮殿の中庭に色とりどり大小様々な旛(ばん)と呼ばれる旗が左右に列立した内側中央に一対の万歳旛(ばんざいばん)が立てられます。この旛は即位礼でのみ用いられ、神話に由来する五匹の鮎と酒壺が描かれ、大きく「萬歳」の文字が刺繍されており、陛下の御代が幾久しく続くことへの祈りが込められております。
 正殿向かって右「梅の間」より天皇陛下は立纓(りゅうえい)の冠に黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の御装束をお召しになり「高御座」にお昇りになられます。皇后陛下は御髪を大垂髪(おおすべらかし)に結い上げて五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)をお召しになり御帳台(みちょうだい)にお昇りになられます。即位を内外に宣明する陛下のお言葉を賜り、国民の代表として総理大臣がお祝いの寿詞を述べ、参列者全員で万歳を三唱し、陛下の御即位に奉祝の誠を捧げます。

 何と大仰な、何と時代錯誤な、何と空疎な、そして何と国民主権にふさわしからぬ、政教分離違反の儀式。

この大仰さに畏れいってはならない。五條天神のタヌキが、確かに言っていた。
 「この国家総がかりのダマシにくらべれば、私のダマシなどは、ホンの子どもダマシだ」と。
(2019年10月19日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.10.19より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=13571

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