人々を支えた部落文化 (五回) 皮から革へ―鞣の技術と文化

著者: 川元祥一 かわもとよしかず : 作家・部落文化研究家
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■ 革靴、革カバンはなぜ腐らない? ■

動物の皮を剥いだだけならすぐ腐れてしまう。魚が腐るのと同じだ。なのに、その皮を使った革靴、革カバンは腐ったことがない。祭などに使う百年も前の太鼓の革が腐った話しは聞いたことがない。なぜだろうか?

 
《江戸時代の革カバン》

一年前までやっていた大学の講義で、六十人ばかりの大学生を前に「君たちが履いている革靴や手に持つハンドバックは牛などの皮で作ったものが多い。その皮は生のままだと腐れます。その革靴やカバンが腐らない理由を知ってますか?」と尋ねてきた。この質問にきっちり答えた大学生は今まで一人もいない。「このことを高校生までに学ばなかったの?」と尋ねると、みんな首を縦に振る。
私には予想できる状態ではあるが、私の予想も含めて、この状態は恐ろしいことではないか。そんな感じがするので私はさらに尋ねる。「自分で革靴や皮のカバンを使っていて、どうして腐らないか考えたことはない?」と。これまで三人の学生が考えたと答えた。その結論は「わからない」が一人、「何か薬を塗っているのか」が二人。
日常的に触れている生活道具や生活文化について、そこにある歴史や技術に何の関心もなく、既成の事実としてやり過ごす若者の姿の一端を見る思いであるが、これはある意味社会の風潮でもあり、非常に不幸なことではないか。そして、そうした状態をつくつた主な原因に部落問題がある。学問だけでなく、日本人・和人社会が部落問題を直視しなかったからだ。
世界中の生活文化として肉食や皮革の文化は大昔から今日まで、欠くことができない。いうまでもなく生命維持に不可欠な蛋白質としての肉。そして防寒具や、古代の水袋、履物などの皮革。今ではカバン・靴・ブラシ、薬品、化粧品などなどに使われている。
日本の和人社会では奈良時代から明治維新まで屠畜、肉食が公然とは出来ず文化としては陰のものとなり、それら屠畜解体と、そこから派生する皮革生産を公然と行う専業者は「忌穢」と「触穢意識」によって差別的に見られた。江戸時代になるとその専業者が世襲的な身分制度に縛られ、身分的出自をもとにした頑強な制度的な差別となり、今日まで世襲的に続いている。そうした差別を克服するため「部落文化」全体、この回に触れる皮革文化を含めて、それらが社会一般にとって必要不可欠であり、それらによってすべての人の生活が成り立つのを直視し、しっかり認識すべきだ。和人社会全般と、偏見にとらわれた個人個人の心からの解放は、そうした姿勢と認識から始まると確信する。

鞣(なめし)の技術と文化

左《現代タンニンやクロムを練りこむ“たいこ”》 

右《タンニンを練りこんだ皮を干す》 

 

    
今回取り上げる皮革文化は皮革の生産から始まるが、その生産の中心軸にあるのが皮の鞣=なめしである。この技術があるから「革」は腐らない。
気づいた人もいると思うが、ここで私は皮と革を言い分けた。これが大切なのだ。解体した時「原皮」といい、毛や脂を取ったものを皮または「生皮」という。これらは放置すれば腐る。これを防ぐために塩漬けにして保存する。これで一年くらい保存できるが、そのままでは使用価値がない。使用価値がないものは文化と言わない。これに「鞣=なめし」の技術を加えることで使用価値が生まれる。その状態を「革」という。
革という字は「あらためる」(『新字源』)という意味だ。皮から革へあらためて生まれ変わる。「革新」とか「革命」という言葉に革が使われるのはそのためだ。「鞣」という字は「柔らかい革を作る」という意味。革を柔らかくすることで加工できる。これでさまざまな皮革製品・生活道具が加工され、使用価値、つまり文化が生まれる。江戸時代のキヨメ役はこのような技術を持ち、文化を作ってきた。
江戸時代は弾左衛門の囲内で太鼓や馬具、乗馬の靽綱(ともづな)などを作り、主には幕府に献上した。同時に歌舞伎や能楽の楽器としての小太鼓(つつみ)や三味線、雪駄の裏打、袋物など商品化した。

《日本一の大太鼓》                             《小太鼓の製造》                                  

 幕末になって弾左衛門はヨーロッパの技術を導入して王子・滝野川に皮革工場を設立する。明治維新の動乱期と、以降の富国強兵政策によって皮革・製靴業は兵隊の軍靴など軍事用品、武具として需要が急騰し、西村勝三など、旧幕府や藩の財力を利用した政商も欧米の技術に頼って製靴業に進出、かってない隆盛をみた。
こうした状況に見られるとおり、江戸時代も含め古代、中世も皮革の需要は主に軍事・兵器であり、近代になると日清戦争以降から敗戦までの「帝国主義戦争五十一年」を支える主要な要素だったのを見過ごしてはならない。「わが国の皮革産業は、富国強兵策のため兵制改革を基として発達した。(明治維新後・筆者)約十年ごとに起きた動乱、事変、戦役でも皮革産業は著しくのびた」(『日本の皮革』武本力)といわれる。これは日本だけでなく当時の世界の帝国主義、軍国主義にあてはまる。
この点では、一般的技術と和人・殊に天皇制社会の差別と権力、権力による戦争、ことに一方的傀儡的植民地・侵略戦争の被害者の歴史と文化を尊重する視点を持って細かい歴史が再考されなくてはならないと考える。わたしとしてはそれは始まったばかりであり、今後続けたいが、この時点では、皮革産業に向けられた和人社会の偏見・差別を克服する視点、部落の歴史と文化を直視し、正当に認識する視点を確立したい。この確立が植民地・侵略の被害者の歴史と文化を尊重する。そうした視点として確立したい。
弾左衛門の囲内にあった皮革工場は一八九二年(明治二五)当時は郊外の湿地帯である木下川地域や荒川地域の強制的に移転を命じる。反対運動があったものの、結果として移転した。この強制的移転には皮革工場への偏見があったが、時代的背景としては日清戦争の二年前であり、当時軍部(特に陸軍)を支配していた山県有朋などは清国(中国)をめぐってヨーロッパ列強に負けない軍隊作りに必死だった(『山県有朋』岩波新書)。そのために皮革工場の規模拡大を急いだと私は考える。移転の直接的理由は「魚獣化製場取締規則」であるが、これが軍国主義を反映していたのではないか。
ともあれこのようにして木下川は東日本では唯一の皮革の町になり、弾左衛門の工場を継承した東京製皮と西村勝三の桜組が合併した日本皮革、明治製靴などがここに設立された。
「帝国主義戦争五十一年」の敗戦(一九四五年)によって隆盛は一転するが、それでも一九七〇年代は八十くらいの鞣工場や食品脂を加工する油脂工場、頭部や足を熱処理して肥料にする化成工場などがあった。しかし二〇〇九年現代は十数の工場なっている。原因は、革の生産過程で使われる科学薬品による「水質汚染」の浄化に費用がかかって国際競争に追いつかない。工場が労働賃金が安いアジア地域に移動するなどだ。

共存・共生・平和のシンボルに…


 

「水質汚染」の原因は鞣に用いるクロムという化学薬品のためである。ドイツで発見されたクロムを使うようになったのは百年前。クロムで大量生産が可能になったが、同時にドイツをはじめ世界中の軍国主義を支えたと言ってもいいものだ。
現代では、クロムではなく自然に循環する物質による鞣を指向する傾向がある。しかも、クロムを使う前は、古代から世界中で自然の植物にあるタンニンを使った。タンニンは現代、染色剤やインキの製造に使われる。用いる植物は世界各地で異なるが、日本・和人は柿渋、菜種脂、動物の脳味噌、あるいは煙蒸などを用いた。
剥いだばかりの原皮を水漬け、石灰漬け、脱毛、石灰抜きなど十日くらいの工程を経て皮(生皮)になる。その後タンニン漬けを二三日、水絞りなどして革になる。
歴史的な意味でタンニンを使った革作りは中世社会から各地の「皮多」「革作り」の伝統を継ぎ、江戸時代に世襲的身分制度に組み込まれたキヨメ役(穢多・非人身分)の専業となった。そのため、食物性タンニンを用いた部落文化は人と自然の共生を第一義とする二十一世紀の人類的課題に欠せない伝統的文化なのがわかる。また、化学薬品クロムによる皮革の大量生産が世界の帝国主義、軍国主義を支えたことから、タンニン鞣は、人類が戦争の歴史を反省し、未来のための共存・共生・平和を構築する思想的シンボルになり得ると思うのである。
【拙書『部落文化・文明』御茶の水書房・11月末発刊予定より】

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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